グレイフォード殿下
「――陛下、お呼びでしょうか」
(………!この声……)
扉の方から声がした。
高くもなく、低くもない。
まだ完全に声変わりしていない子供のものだ。
しかし私はこの声によく似た人物を一人知っていた。
(……来たのね)
私の記憶にあるものとはかなり違うけれどこれは間違いなく殿下の声だ。
私は恐る恐る声のした方を見る。
「……ッ!」
サラサラとした黒い髪に青い瞳。
前世で見た殿下と違って少しあどけなさが残っている。
しかし、まだ幼いのにまるで彫刻のように美しかった。
この国で一番美しいと言われた顔立ちだ。
(……そりゃあそうよね、私が十二歳なのだから彼も十二歳のはず)
私の目の前にいる殿下は背も私と少ししか変わらない。
しかしあと数年もすれば私より頭一つ分大きくなるはずだ。
この頃には既に私たちの仲は悪くなっていた。
嫌われるようなことをした覚えはない。
本当に突然のことだった。
(グレイフォード殿下……)
私の、前世での夫。
結婚はしたけれど、彼が私を愛したことは一度もなかった。
彼が愛したのはマリア・ヘレイスただ一人。
「……」
殿下を前にすると恐ろしさで体が動かなくなるかと思ったが、思ったよりも平気で安心した。
彼がまだ子供の姿だからだろうか。
殿下は私を一瞥すると、すぐにまた目を陛下へと戻す。
「グレイフォード、セシリアが王宮に来ているんだ。せっかくだから婚約者同士、一緒に過ごしてきたらどうだ」
「はい、分かりました」
殿下は陛下の言葉を聞くと、私の前まで来て手を差し伸べる。
「行こう、セシリア嬢」
殿下は優しい笑みを浮かべて私に言った。
(いつも、陛下の前でだけは優しかった……そして二人きりになると途端に放っておかれる……)
前世の彼はいつだってそうだった。
人目があるところでだけは私に対して優しかったのだ。
そのため、今見ている殿下は私のよく知る殿下ではなかった。
私は殿下の手に自分の手を重ね、二人並んで謁見の間から出た。
謁見の間から出て少し歩くと、殿下はパッと手を離し、私から離れる。
「俺は王太子教育で忙しいから、適当に花でも見ていろ」
「えっ……」
殿下は冷たい声でそれだけ言った。
それを聞いた私はまたかと思った。
前世の殿下はいつもこうだったからだ。
いつもいつも私に冷たくする。
そしてその理由を私には何一つ言ってはくれない。
(私が何したっていうのよ……!もう我慢できない……!)
私は背を向けて去ろうとする殿下に声をかけた。
「殿下、私が何かしましたか?」
すると殿下はこちらを振り返り、驚いたような顔を浮かべる。
その顔を見て、少しだけ胸がすいた。
そりゃあそうだろう。
今まで私が殿下に反論したことなど一度もなかったのだから。
殿下の中での私はきっと気の弱い女という印象なのだろう。
(……だけど、それも今日で終わりよ)
私はそのまま言葉を続ける。
「なぜ私にそうやって冷たくなさるのですか?答えてください!」
殿下は私の言葉に眉をひそめた。
「誰にそんな口を聞いているんだ?」
前世の私なら嫌われることが怖くてこんなことを言われたらすぐに謝罪していたはずだ。
だけど今回ばかりは私も引かない。
(……元から嫌われているのだし、今世では殿下と結婚するつもりなんて少しもないから)
殿下と結婚するつもりはない。
しかし、自分が嫌われている理由を知りたかった。
何故私があれほど辛い人生を歩まなければいけなかったのか。
その答えを知りたかったのだ。
「――私は殿下の婚約者です。私は殿下と良好な関係を築いていきたいのです」
「……」
私がそう言うと殿下は押し黙った。
(どうして何も言わないの?)
彼のその態度にしびれを切らした私は、わざとらしいくらいに悲しげに目を伏せてみる。
「殿下は……私のことがお嫌いですか……?」
「ッ……いや、そういうわけでは……」
そんな私を見て、殿下は慌てたように否定する。
(……私のことを嫌っているわけではない、のかしら?)
「ではなぜ私に冷たくなさるのですか?」
「それは……」
殿下は私の問いになかなか答えようとしなかった。
何か言えないことでもあるのだろうか。
数分の間黙り込むと彼はため息をついた。
「はぁ……なら、一緒に過ごせば満足するのか?」
「……!」
そんな彼の姿に、私は内心腹が立った。
(何よ、それ。私のことを何だと思っているの!)
「そういう問題ではありません!」
気付けば私は殿下の前だというのに、声を荒げてしまっていた。
「殿下はいつもそうやってはぐらかすではないですか!私は優しくて何でも話してくれた昔の殿下が大好きでした。ですが今の殿下は全く信用できないし、ハッキリ言って嫌いです」
私は前世での怒りをぶつけるように殿下を怒鳴りつけた。
「き、嫌い……!?」
殿下はその言葉にショックを受けたような顔をしていたが、私はそれを無視して殿下に背を向け歩き出した。
(もう、本当に何なのかしら!)
◇◆◇◆◇◆
しばらく歩いて王宮の庭園に辿り着いたときになって、私は頭を抱えた。
(ああ、私は何てことを言ってしまったのだろう)
私は酷く後悔していた。
最悪だ。
怒りに任せて殿下に対して無礼を働いてしまった。
(これは今すぐ処刑されるんじゃ……?)
最悪の事態を想像しながら王宮の庭園をうろうろしていると背後から足音がした。
足音のする方を振り返るとそこには――
「エリザベス王妃陛下……」
この国で最も身分の高い女性、エリザベス・オルレリアン王妃陛下がいたのだった。