天使の強さ
「おい、てめえ俺のジョッキぶっこわしやがったな」
男は明らかに酔っているのがわかる。しかし、語気はそこまで強くないように感じたが、それは酔っているせいなのだろうか。相手の言葉に少しも怯まず、翼を持った女性は男を睨んでいた。
「酒も飲めなくなれば少しは頭も冷えるだろう。冷静になると良い」
「うぜぇな。そう言うのはよそでやれ!」
男は地面蹴って、いきなりかなりの速度で女性に近づいた。彼女の視界で言えば、一瞬で目の前に来たように見えただろう。だが、彼女は相手に驚いた様子はない。それどころか、冷たい目をしている。男はその勢いを利用して、既に拳を振りかぶり、前に突き出そうとしていた。それを理解しているのかいないのか、彼女は動こうとはしない。拳が彼女に迫る。人だかりの隙間から、サクラは女性が泣ぐれられそうになっているのを見てしまった。動き出したいが、前にいる人が邪魔で進むことは出来ない。
「酔っているのに、戦えるわけがない」
剣が木製のコップが消えていったのと同じようにして消え、次に彼女の前に丸い盾が現れた。男はその金属でできているように見える硬そうな盾に、思い切りパンチを当ててしまった。男が腕の辺りを掴みながら、悶えている。みっともなくゴロゴロとその場を言ったり来たりしていた。
「この程度で、粋がるとは。愚かな人。それでは、これ以上、馬鹿なことはしないことだ」
女性は最後に出した盾を消し、それを元の木製のコップを出現させて人ごみを抜けて、どこかに行ってしまった。
サクラは翼を持つ女性を天使だと思った。そもそも、ああいう格好で白い翼を持っているのはファンタジー世界では天使と相場が決まっている。それ以外ではないだろう。彼女は話しかけたいと思ったが、既に近くにはいないようだった。少し辺りをキョロキョロと見回しているとラピスが近くに歩いてきていた。サクラも彼女に気が付いて、彼女に駆け寄った。
「ラピス。今の女の人を見てましたか」
「はい。天使の方です。地上にいる天使は天使の国から堕とされた者だと聞いたことがあります。天使の国の最上の罰だそうです」
「へぇ。そんな悪い人には見えなかったんですけどね。まぁ、この町にいればまた会えますよね」
二人は再び並んで帰路に着いた。そうは言っても、北に真っ直ぐ行くだけだが。その間に、サクラは騒ぎの男が一瞬で距離を詰めていたのを思い出す。ああいう魔法があれば、自分も覚えておきたいと思い、その魔法のことをラピスに訊いてみたところ、あれは魔法ではないと言った。
「魔法ではああいった、身体能力の強化は出来ません。彼のあの力は超能力です。全ての生物は例外なく、超能力を持っています」
「私にもあるんですか」
サクラにとってはその質問は至極当然のものだった。元の世界ではそう言ったものは全くなかったのだから、この世界に来たからと言ってその力が自分にもあるかどうかはわからないのだ。しかし、この世界の者には当たり前のことだ。幼い頃に自分の超能力が勝手に発動して、超能力を認識する。それから危険が無いように扱いを覚えていく。それがこの世界の常識だ。超能力がない人はいない。これに関しては例外はない。だから、ラピスには自分に超能力があるのかと言う質問はあり得ないものだった。非常識とかそう言う問題ですらないのだ。サクラの感覚で言えば、フォークの使い方や鉛筆の使い方を大人になってから聞くようなものなのだ。もちろん、彼女はそんな常識は知らない。
「……あるとは思いますが、私ではわかりません。他人の超能力を鑑定する機能はありませんから。もし、認識の仕方がわからないというのでしたら、様々なことをしてみるといいと聞きます。何が自身の超能力を認識させる行動かわかりませんから」
「なるほど。なんでもやってみるべきと言うことですね」
彼女はラピスの様子には全く気が付いていなかった。度を越えて常識が無さすぎるのだ。魔法も超能力も知らない人など聞いてこともない。幼い子供が母親に訊くのとはわけが違うのだ。ラピスは彼女のことを少し怪しんでいた。事情を訊くのはタブーだ。そう言う約束がある以上、彼女はサクラに事情を訊くことは出来ない。それでも、彼女の中にほんの少しの不信感、猜疑心が生まれてしまったのは事実であった。
「ラピス? どうしたんですか。私の顔、面白いですか」
彼女は冗談で、そう言って笑った。ラピスは相変わらず、表情が変わらない。だから、彼女の不信感がサクラに伝わることはないだろう。彼女自身が、自身の心を伝えない限りは、知ることはできないことだ。
二人の見た目の距離感は少し縮まったように見えたが、ラピスは彼女を信じることは出来なくなっていた。だが、サクラを悪い人だと断定することは彼女の心が拒否していた。サクラの言葉全て嘘だと思うと、胸の辺りに痛みが走るのだ。それを何かの不調だと、ラピスは思い込むしかなかったのだった。