美容師さんが我が家にやって来た
もう間もなく臨月に入る、という日のこと。
美容師さんが我が家にやって来た。
充さんを通じて、充さんの幼馴染みである美容師さんの勤める美容院に予約し、出向こうとしたら、いつの間にか自宅に来てくれることになっていた。
「美容院より、自宅の方が色々と都合がいいでしょ? 大丈夫。切り落とした髪は、床に撒き散らしたりしないし、『使える』姿見もあるって結城から聞いてたからさ。
「あっ! そうだ。あとでマッサージもしたげる。体中いろいろ浮腫んで、ツラくない?」
「そこまでしていただくと、なんてお礼をしていいのか……」
一度顔を合わせたことはあるけれど、あたしと美容師さんは、お互いにほとんど何も知らない他人同士だ。
「こんにちは」の挨拶を交わしたことしかない。
初めて会ったときには、根本の黒から毛先の赤へ、グラデーションカラーだった髪。今は、淡い黄緑色。
光を浴びた柔らかな若葉のようで、とても綺麗。
意志の強そうな、キリッとカッコいい美容師さん。
その目尻で跳ね上がるアイラインが、フニャっと垂れ下がった。
可愛い。
そんな言葉が胸に浮かぶ。
「ホラ、結婚祝い、まだだったでしょ? だって結城のヤツ、結婚したって知らせるの遅すぎだし。薄情者!」
首だけ後ろを振り返って、充さんにイーッとしている横顔が、あたしの目の前の姿見に映る。
そして彼女はすぐにこちらを向き、にっこりと笑った。
姿見越しに映る充さんは、眉をくいっと上げて目玉を回し、下くちびるを突き出している。
しっかりと男らしい顎に、梅干しジワが出来るのが可愛い。
充さんの、この表情がとても好き。
可愛くて、愛しくて、たまらない。
ニヤニヤと気味悪い、あたしのニヤケ顔。
充さんと鏡越しに目が合う。
気の緩んだような、気負いのない微笑みが向けられて、ドキドキする。
出会ってから、それなりの時間を過ごしてきたけど、いつまで経っても、充さんにドキドキして、ときめく。
充さんも、あたしにそうだったらいいな。
見下ろした足の爪先すら見えないくらい、大きくなったお腹。
色気は何も感じないかもしれないけど。
「おーい。お二人さん! 悪いけど、ここにもう一人いるんだよね! 妙な空気作んないで!」
斜め後方。姿見に映り込む場所。テーブルとは逆向きにして、回転チェアに座る充さん。
首元にタオルを巻いて、白いカットクロスに腕を通して姿見に向かい合うあたし。
その、充さんとあたしを繋ぐ見えない線を遮るように、美容師さんが大きく手を振った。
「結城のニヤケ顔とか、マジでキモい。あんた、そういうキャラだったっけ?」
「うるせぇな。自分んちで自分の奥さんとイチャつくのに、なんの問題があんだよ」
「今、ここには他人もいるんですー! しかもその他人は、現在独り身なんですー! ちょっとは気ぃ遣え!」
充さんの幼馴染みの莉奈さんは、美容師さん。
そして息子さんが一人いる。シングルマザーだそう。
「そんなん知らねぇよ。俺に当たるんだったら、男でも何でも作っとけ」
「あ~やだやだ。自分が幸せだからって。男を作ったら幸せ? んなわけないでしょ!」
「だから、おまえの事情なんざ知らねぇよ。おまえの見る目がなかっただけだろ」
「くっそ。結城、ホントにくっそ。絶対あんたに君江ちゃん勿体ないっ!」
「おまえがどう思うかなんざ、知るか」
ハッと、短く息を吐き捨てると、充さんはでろでろに甘い声で、あたしに聞いた。「君江。どう思う?」と。
うん。
これはあたしも、さすがに人前でやることじゃないと思うなぁ……。
嬉しいし、幸せだけどね。
それに、わかってる。
これがパフォーマンスだってことも、ちゃんとわかってる。
あたしが不安にならないように。嫉妬してつらくならないように。普段より過剰に愛情表現して、溺愛演技しているのもわかってる。
莉奈さんは充さんの何人目かの女性だ。
そんなことは、聞くまでもなくそうだろうな、と思っていたけど、莉奈さんに髪を切ってもらいたい、と充さんにお願いしたときに聞かされた。
「だからあいつに切ってもらうのは、やめとけよ」って。
「クラブで君江のこと紹介してから、俺も莉奈と連絡取ってねぇし。これから先、連絡を取るつもりもなかった。お互い、そういう感情がないとはいえ、幼馴染で過去も知ってる。そんな女、嫌だろ?」
だからやめとけ、と言う充さんに、あたしは胸を張った。
「残念でしたー! むしろ充さんの過去を知っているなら、仲良くなりたい。充さんの、昔のいろんな悪さを聞き出したい」
「そんなん、俺がなんだって答えるからさぁ……。君江に嘘ついたこと、ねぇだろ?」
弱りきったように眉を下げる充さんが可愛くて、可哀想で、「そうだね。じゃあやめとく」とつい、言いそうになる。
だけど。
「充さんが正直なのは知ってるよ。でもそうじゃなくて、他の人から見た充さんが、どんなだったか知りたい。充さんはそういうの、ないの?」
「ない」と言われたら、少なからずショックだけど。
充さんは額に手を当ててぼそりと呟いた。
「そんなん、あるに決まってんだろ。……くそ。だから君江の伯母さん。あの人、すげぇ苦手だったけど、話したくなるんじゃん……」
伯母さんのこと、苦手だったのか。それは知らなかった。
だって充さん、伯母さんと会うってとき、いつも「俺も同席したい」って言うから。てっきり慕ってるのかと思っていたのに。
それにしても。
生前、あれだけ可愛がってくれた伯母さんに、「すげぇ苦手」呼ばわり。
伯母さんのことだから、「アポロンくんはいつまで経っても、失言の絶えない子ね」って、今夜にでも充さんの枕元に立ちそう。
いいな。それ、いいな。
伯母さん、ついでにあたしの枕元にも寄り道してくれないかな。
あたし結婚したんだよ、相手は『アポロンくん』だよって、それから赤ちゃん、今お腹にいるんだよって報告もしたい。たぶん女の子だよって。
いや、それはともかく。
「もうこれは、充さんが莉奈さんのお仕事について、うっかり口を滑らせてしまったことが悪い。そう思う。でしょ?」
「わーった! わかったよ!」
両手を力なく挙げ、充さんは大きくため息をついた。
あたしはすかさず、その場で莉奈さんに連絡して、ヘアカットの予約を取ってくれるよう頼んだ。だって充さんが、莉奈さんの勤務先である美容室がどこか、覚えていなかったから。
――という、そんなやり取りの末、莉奈さんが今、ここにいる。
だから、少しだけズレた充さんの気遣いと優しさなんだけど。
それでも。そうだとわかっていても。
ここまでやる必要、あるかなぁ……。
これ以上サービスしなくていいんだけどなぁ……。
「えーと。充さんのことは大好きだよ。でも――」
「でも?」
上半身を屈めて膝に肘をつき、大きな手で口元を覆う充さんの、その鋭い眼差しに射抜かれる。
そこで莉奈さんが、充さんとの間に、体を滑り込ませた。
「はーい、はいはい。だからそういうのは、こっちが帰ってからやってねー。あんたら一緒に住んでんだから、いくらでも時間あるでしょ!」
莉奈さんの言葉にもっともだ、とあたしも頷く。
首を傾げた充さんは、手のひらを上に向け、両手を軽く振った。
「結城に邪魔されまくって、話それちゃった。まぁ、だから。悪いけど、これが結婚祝いってことでさ」
なんて贅沢。
「ありがとうございます。すごく嬉しいです」
「そ? そんならよかった。これからもよろしくね、君江ちゃん。結城の愚痴とか、いろいろ聞くからさ!」
はい、と言おうとしたところで「莉奈に言う前に、俺に言えよ、君江」と充さんの声が背後から聞こえた。
「げえっ。愚痴くらい吐かせてやれよ、うぜーな」
「あ? うぜぇのは、おまえだよ」
言い合いはしても険悪にはならない、気のおけない仲といったやり取りが、微笑ましくも、ちょっとだけ羨ましい。
だけどやっぱり、幸せな気持ちになる。
充さんには、莉奈さんという味方がちゃんといたんだなって。
一人ぼっちではなかったんだ、と少年だった充さんの心を思って、救われるような気になる。
「はい! いつまでも進みません! というわけで、君江ちゃん、髪型どうする?」
パンッと気持ちのいい音を立てて、莉奈さんが手を叩いた。
「あまり短くしたことはなくて。なので、そんなにバッサリ切ることは考えていなかったんですが、育児にあたっては、短い方がいいでしょうか?」
ここは先輩ママのアドバイスが聞きたい。
莉奈さんは腕を組んで「うーん」と顎を天井へと突き上げた。
「出産前って、たいていのママさん、髪切っちゃうんだよね。出産後ってケアに時間かけられないし、ドライヤーも出来なかったりして、濡れ髪放置すると風邪引くし、髪も傷むでしょ。
「あと、髪が長いと、赤ん坊が引っ張って遊んだりして。まぁ、それは赤ん坊、楽しそうだし、ママが痛くないならいいけどさ」
そこまで言うと、莉奈さんは「でも」とあたしの髪を一束、手に取った。
「君江ちゃんの髪、まっすぐで綺麗だよね。これまでヘアカラーしたこと、ないんじゃない?」
「はい」
「やっぱり。ロングなのに、毛先もほとんど傷んでない。もったいないなぁって思っちゃうんだよね」
あたしの髪から手を離した莉奈さんが「で」と鏡越しに充さんを見る。
充さんは頬杖をついて、こちらの様子を眺めていた。
ぱらぱらと髪がカットクロスに落ちた。
「で? あんたは長いのと短いの、どっちが好きなの? どうせ口出ししたいんでしょ」
充さんは露骨に嫌そうな顔をした。
「莉奈。おまえ、俺のことなんだと思ってんの」
「束縛のキツイ、嫉妬深そうで自分勝手なストーカー野郎。あれこれ指図してきて、くっそウザそう」
充さんがにっこりと笑った。
「君江がしたいように。赤ん坊産まれて、過ごしやすいようにすればいいと思う。どんな髪型したって、君江は可愛い」
「はいはい。模範解答オツ。で?」
「だからどっちだって――!」
これは埒が明かないな、と口を出す。
それに、充さんがどんな髪型が好みなのかも知りたい。
「あたしも、充さんがどんな髪型でも好きだよ。いつもカッコいい。でも出会った頃の髪型も懐かしいなって思う」
「自由な社風とはいえ、アレはさすがに無理だな……」
充さんは眉をひそめ、肩をすくめた。
そして。
あたしのこの不用意な一言のせいで、バーガーさん――お義父さんに、充さんがますます反感を募らせることになるなんて、このときは思いもよらなかった。
それから、莉奈さんと一緒にしつこく充さんに問いただし、口を割らせたことには。
充さんは長い髪の方が『どちらかというと好き』ということだった。
そしてその理由というのが。
「『出会った頃と同じだから』ねぇ……。理由が二人して同じとはね。まったくもって、仲のよろしいことで」
呆れたように首を傾げて、莉奈さんが笑った。