03 伯母さんと叔父さんとお父さんとお母さん
充さんは父親として、これ以上ないくらい。未来を一緒に育てる、共同育児パートナーだ。
でも充さんは忙しすぎる。
同じ部署の先輩が他部署に異動になり、充さんはますます仕事量が増えた。
産婦人科の助産師さん、看護師さんだったり、行政が後援している地域サービスの窓口。
相談する機関はたくさんある。
それから誰かの経験が心強いお守りになることもある。
共感してもらえることが、たまらない安堵となることもある。一人じゃない、みんなそうだったって。
未知のこと。それも命のこと。我が子のこと。
怖くないなんてことがある?
知識として知ってる人、共感と同情を寄せてくれる人。助けてくれる人。経験した人。
自分がどうしても欲しかった助けを、なにか一つ、覚えている人。
唯一頼れる身内の女性。
伯母さんは、充さんが初めての海外出張で渡米している間に、亡くなってしまっていた。婚前のことだ。
「『名無しの新治さん』だとか『アポロンくん』だとか。姉さんはタカシくんの名前をなかなか素直に呼ばなかったなぁ。あれはちょっと、気の毒だった」
端の欠けた湯呑みをテーブルに置くと、叔父さんは眉尻を下げた。
テーブルにはたくさんのお菓子が並んでいる。
お煎餅、クッキー、チョコレート。
お徳用袋の小分け個包装のお菓子だったり、缶入りの高級そうなお菓子だったり。
あたしと、勤務時間を終えて既に退勤した先輩歯科衛生士さんとで、交互に買い足しているお茶請け。たまに叔父さんが高そうなお菓子を持ってくる。
そのうち蘭さんも、このお菓子提供の輪に加わるのだろう。
叔父さんは『ばかうけ』の、ごま揚げしょうゆ味に手を伸ばした。
ぴりっと袋が破れ、香ばしい香りが、狭い医局に広がる。
「そう呼ばれると、充さんは苦笑いしていました」
「そうだね。そこで姉さんもまた、『恥ずかしいことを覚えていてくれる人がいるというのは、いいことよ』なんてすまし顔で笑うもんだから、タカシくんも『確かにそうですね』なんて神妙な面持ちになっちゃって……」
その様子を思い浮かべたのか、叔父さんは袋から出した『ばかうけ』を手にしたまま、くくっと肩を震わせる。
あたしもそうそう、と頷く。
「伯母さん、しんみりしちゃった雰囲気に慌てるんですよね」
「ふふ。姉さんはあれで、涙もろいからね。タカシくんの幼少期なんか聞かされたら、号泣したんじゃないかな?
「タカシくんは淡々と話しそうだしなぁ。他人事のように冷静な語り口が、よりいっそう、姉さんの涙を誘いそうだ」
「……叔父さん、遠回しに蘭さんのこと責めてない……?」
「そうだね。ランさんがタカシくんにしてきたことは、そういうことだよ」
柔和に微笑む叔父さんが、初めて見る、知らない男の人のように見えた。
思わず目を逸らす。
いつでもどんなときでも。姪であるあたしの甘えた我儘に、しょうがないなぁって笑って許してくれた叔父さん。
出来の悪い勉強や、両親との関係改善の努力から逃げたとき。
何も問わず、何も責めず。受け入れてくれたのは叔父さんだった。
だから、蘭さんにもきっとそうなのだと思っていた。
「まぁ、それはいいんだ。きみはタカシくんとうまくやってくれればそれで。僕がランさんとタカシくんの間に入ろうとすることはないから」
――だから、僕とランさんの間にも入らないでほしい。
言外にそう言われた気がした。
「わかった」と頷くと、叔父さんは「それで」と話を戻した。
叔父さんが『ばかうけ』をひと口かじる。
「姉さんにランさんとの復縁を報告したとき、頬を張られたんだよ。渾身の一発だった」
叔父さんは拳を作って、左の頬に当てる素振りをした。
それは頬を張ったのではなく、ゲンコツではないだろうか。とても痛そう。
「あれは痛かった」
そう言って笑うと、叔父さんは手をおろし、残りの『ばかうけ』をすべて口に入れた。
それからお茶を飲んで、一息ついた叔父さんは、再び口を開く。
「あのとき、姉さんは体調を崩していた。きみも覚えているよね」
叔父さんの問いに頷く。
いよいよ危ないかもしれない、と覚悟を決めたときだった。
父によって宣告されていた余命。
まだ余裕があると思っていたのに、急激に伯母さんの体調は悪化した。山から転げ落ちるように。
「起き上がることもつらくなっていた姉さんの体に、どこにそんな力が残っていたんだろうって」
潤み始める目と、赤くなる鼻。
嗚咽を隠すように差し込まれる、頻繁な咳払い。
叔父さんはそれから、「今度こそ、ちゃんと捕まえておきなさい」と伯母さんに叱責されたことを教えてくれた。
その、まなじりを吊り上げる様子は大迫力で、子供の頃、姉弟の距離がもっと近かったとき、たくさん叱られて、怖い姉だったことを思い出したんだとか。
ぽっかりと空いた穴。
どこまでも落ちていってしまうのではないかという虚無感。
しばらくは叔父さんとあたし、二人とも診療所で顔を会わせる度に、知らぬ間に涙を流したり。
仕事終わりには、伯母さんのイタズラを思い出して笑った。
伯母さんを偲んだ。
亡くなってしばらくだけじゃなく、今でも寂しい。伯母さんにまた会いたい。
充さんと結婚したことも、未来が生まれたことも、伯母さんに伝えたかった。
きっと喜んでくれた。あのいたずらっぽい笑顔で。
未来を伯母さんに抱いてほしかった、と思う気持ちはある。
それでも今は、感傷に浸りきっていられる余裕はない。
薄情かな? きっと違う。
実の母とは、まったく連絡をとっていない。
最後に会ったのは、両家の顔合わせ。その食事会。
それ以来、会っていない。
どこかの病院で、内科医として忙しく働いているんだろう。どこに住んでいるのかは知らない。
あたしの両親は、充さんとあたしが入籍してしばらくすると離婚した。
もうずっと前から夫婦仲は冷え切っていて、修復は不可能だった。
なぜこれまで離婚しなかったのか、ようやく父に聞いてみれば、あたしの就職や結婚に不利にならないよう待っていたということだった。
そんなバカバカしいこと。
ため息が漏れ出そうだったけれど、父がとてつもなく不器用なことは、ここ数年だんだんと理解し始めていた。
かつての魔王や冥王ハデスの姿を、父に重ねて見ることはない。
だけど、ルビーの婚約指輪は母に返せずじまい。
父が母に贈ったもの。目に入る度に、胸の奥底に落ち着かないような重みであったり、棘を感じる。
一方で、それでもいいか、と思い始めてもいる。
あたしと母を繋ぐのは、これだけだから。きっとこの先も交わることのないように思う。
あたしが未来相手に四苦八苦しているように。
母もまた、あたしを産んでしばらくは、悪戦苦闘していたのだろうか。
そう思ったのがきっかけ。
ぱりっとアイロンのかかった清潔な白衣を羽織って、背筋をぴんと正し。感情を伴わない冷静な眼差しと声で、目の前の患者に診断を告げる。
記憶の中の母。そんな様ではなく。
オムツでもなく、おっぱいでもなく、暑いのでもなく、寒いのでもなく。服の縫い目が気になるのでもなく。
あれでもない、これでもない。
ああいったい、あなたはなぜ泣いているの?
泣きすぎて声も枯れてしまいそうなのに、真っ赤な顔も、全身が強張るほどに力んだ小さく柔らかな体も、すべてが苦しそうで見ていられないくらいなのに、どうしてあなたは泣き止まないの?
泣きわめくあたしに、苦労して困って、悩んで、ヨレヨレの姿で。
そんなふうに、母も途方に暮れたのだろうか。
未来を生んで、ようやく母を身近に感じた。
それならば、この指輪をあたしが持っていてもいいのではないかと思う。