01 聞いたことのない子守唄
「I ain't always thinkin' about you, ooh, no, no, not always……♪」
「その歌、よく歌ってるね」
「ん? ああ……」
ほんのりピンクに色づいた小さなつめ。
そのやわらかな、ぷくぷくふくふくした指を順番につついて、腕に抱えた娘をあやしていた充さんは、あたしの言葉にはっと顔をあげ、気まずそうに言いよどんだ。
「どこかの子守唄?」
「いや。子守唄じゃねぇな。悪かった」
赤ん坊に聞かせるには、あまり適さない歌だった?
だとしても、謝る必要はない。そうでしょ? だってとても素敵な歌だ。
ローテンポというほどではないけれど、優しくて温かい、どこか切ないような、郷愁にかられる、繊細でキレイな旋律。
口ずさむときの充さんもまた、なにかを懐かしむような優しい表情をしているものだから、あたしは名も知らぬこの歌が好き。
初めて充さんが口ずさんだときから。
あれは娘の妊娠を知った日の夜。
白黒のエコー写真を代わる代わる眺め、ジンジャーエール入りのグラスを乾杯した。
安定期もまだの、心音すら聞こえないというのに、ペラペラの感熱紙に記された白い豆粒に、二人して浮かれあがって。
テーブルに置かれたグラスに、ゆらゆらと揺れるキャンドルの炎が映り込む。淡いカラメル色の液体が、シュワシュワと陽気に泡立っていた。
その晩、充さんが口ずさんだ歌。
充さんの温かく大きな手がおなかにのせられ、ウトウトと夢の世界に頭半分、体半分、浸っていたとき。
ベッドで子守唄代わりに『アズ・タイム・ゴーズ・バイ』を充さんにねだることは、婚前からの習慣のようなもの。
ねだらずとも、充さんが何の気なしに口ずさんでいることも、よくある。
だからベッドに寝そべって、充さんの低くてかすれた、静かな歌声に包まれて眠りにつくことは、珍しいことじゃない。
珍しいのは、口ずさんでいた歌。
それは初めて聞く曲だった。
充さんの好きなロックバンドの曲でもなければ、USENの最新ヒットで流れていた曲でもない。それなのに、「ららら」とか「むむむ」とか、ごまかすのでもなく、充さんの口からはしっかりとした英語の歌詞。
英語の苦手なあたしには、はっきりと聞き取れないし、その意味もよくわからない。
だけど、ちゃんと意味のある歌詞があることは確か。
「あたし、その歌好きだよ。だから謝らないで。子守唄にはよくない歌? そうじゃないなら、歌ってほしい」
「いや……うん。まぁ……わかった。気が向いたら」
歯切れの悪い返事に、こりゃなにか隠してるな、とわからないはずもない。
だけどきっと、充さんが話したくなったら、話してくれるだろう。
ふがふがと不穏な様子を見せ始める娘。
充さんは素早くカバーオール、ロンパース、それぞれの足と股のボタンを外した。
「オムツは濡れてねぇな」
紙オムツのセンターラインは黄色。
ギャザーはしっかり外側を向いて足の付け根に沿い、ズレているということもない。
「うん。これはオッパイじゃないかなぁ」
ぽちぽちとボタンを留め直しながら答える。
オッパイ。
娘を産んでから、この言葉を口にするのに、まるで羞恥心がなくなった。
「そっか。腹減ったんだな、みく」
充さんは目を細めて、未来――娘のぷっくらとした、赤いリンゴのような頬をつつく。
「母さんにたっぷり、オッパイもらえよ。今だけは、みくに貸してやるからな。そのあとは父さんのだからな」
どこかで聞いたことのあるような台詞。
まさかこういった種類の幸せが、あたしに。そして充さんに。二人の間に訪れるなんてなぁ。
出会った頃には想像がつかなかったなぁ、なんてことをボンヤリ考えながら、充さんの腕の中でぐずり始めた未来に手を伸ばす。
抱き上げると漂う、ふわっと甘い匂い。
自分の母乳なのだとわかっていても、未来の額やお腹をぐりぐりとやりたくなる。
この温かくて柔らかい体を腕に抱いて、匂いを嗅ぎたくなる。
幸せが目に見えるというなら、それは未来だ。
未来の匂い。体温。カタチ。重さ。柔らかさ。
「そんじゃ、ランさんに電話してくる」
「うん。お願い」
未来を抱え直すと、未来はすぐさま胸元を鼻先で探り始めた。服の上からでも、オッパイの場所はちゃんとわかっている。
充さんはスマホを手に、リビングを出ようとしたところで振り返った。
「ここで電話する? それともみくの授乳の邪魔になる?」
充さんの瞳が揺れる。
「電話の内容なんて、全然気にならないよ。だけど充さんがあたしがそばにいる方が確認しやすいとか、そういうことなら、ここで電話して。みくは大丈夫。電話の間、抱っこしてるから」
「そっか。……そんならここで電話かける」
充さんは気の抜けたような顔で笑った。ほっとしたように、肩から力が抜けたのがわかる。
スマホを耳に当てた充さんは、明日の予定について通話相手と話し始めた。
未来の柔らかな鼻息。
まくりあげたTシャツの裾を掴む、小さな手。
見下ろすと未来の横顔がすぐここにある。
軽く閉じたまぶた。くるんとカールするまつげ。小さな鼻。んぐんぐと必死に吸いつく口。
ときどき小さな舌が覗く。淡い赤色。
未来の重みと温もりを胸に抱き、声量の抑えられた、低い充さんの声を耳に。うつらうつらと、次第に心地よい眠りへと誘われていった。