#002 「ケラマン ルスイ ナ エネパカシヌ」
序章 第2話
「これからどうすればいいんだろう……」
ずぶ濡れのブレザーを脱ぎ、絞って天日干しにする。川に頭から突っ込んだことで冷静さは取り戻したが、見知らぬ場所で完全に遭難したことに対する諦めの感情が強くなる。
沢の側に積まれた石に仰向けに寝転がり、顔を手で覆いながら自問自答する。カバンには高校の教材と筆箱、引き出物のドロップと残り半分程度の水しかない。
携帯は通じず、時計は当てにならない。財布の中身は全部賽銭箱に入れてしまったからすっからかん。
一向に進まない太陽を眺めていると、自然と涙が溢れてくる。何をしようとあの街に戻れない。このまま僕はここで野垂れ死ぬのだろうか、それとも熊かなんかに食われるのだろうか。
そんなことを考えながら、声を上げて泣いた。散々泣いて泣き疲れたためか、意識が薄れてきた、ああ、死にたくない……。
◇◇◇◇
「エ……コト……ヤ?」
耳の近くで誰かが喋っている。聞いたことの無いイントネーションに目を開けてそちらを見ると、目の前には鹿がいた。
ああついにお迎えが来たのか。まだやりたいこと沢山あったのになあ。起き上がって座り、全てを諦めながら頭を垂れよう。どうか食べてください、と言わんばかりに……。
ん、鹿?
バッと顔をあげると、そこに居るのは確かに鹿だ。ただし僕のよく知る四足歩行でこの時期に木の皮をバリバリと毟る茶色の生物ではない。僕と同じように2本の足で立って直立し、民族衣装のようなものに身を包んでいる。
鹿といえば目が横に着いているはずだが、人間と同じく中央にあり、美しい森を思わせる新緑の瞳が光に反射して宝石のように輝いていた。褐色の肌はサラサラとした毛皮に包まれ、風が吹く度に揺れる。
髭のように見えたそれは、恐らくは墨のような物を塗っているんだろう。口の周りを覆う墨は、エキゾチックな印象を抱かせた。
「エ…コトヤ…ヤ?」
「え?えっと…」
しまった。外国の人だ。驚き続きで変に冷静になったからか、目の前の鹿さんに見とれていた。言語が通じないことは最早どうでもいいけど、今の状況を何とかして伝えなきゃいけない。あーもっと英語真面目にやっとくんだった……。
「きゃ、きゃんゆーすぴーく、じゃぱにーず?」
僕の人生初めての精一杯の英会話は無惨な結果に終わった。鹿さんは首を傾げている。少しの間の後、何か思いついたかのように手を叩くと、ゆっくり言葉を発音した。
「エ コトゥヤシ ヤ?」
ごめんなさい、わからないです。ゆっくり言われようがどうしようが、未知の言語であることには変わらない。
だがそこで、鹿さんが心配そうな表情を浮かべていることがみてとれた。どうにか伝えようと、身振り手振りを加えながら迷っており、助けて欲しいと伝える。
ちゃんと伝わったかどうかが分からないので、ボールペンを取り出してルーズリーフに状況を図示していると、鹿さんはウンウンと頷きつつ、何故か嬉しそうな顔をしながら僕を見ていた。
そして少し間を開けると、人差し指を縦に立てて自身を指さし、ユクといった
「ユク?」
と僕が言うと、にっこりと笑った。そして僕の手をとると、人差し指を僕の方に立てさせた。何をしたいのかを理解した僕は、出来るだけ聞こえやすいように、はっきりと
「イサム」
と言った。ユクというのが姓名どちらなのかは分からないが、何となく名前っぽく感じたので僕も井上勇ではなく、勇、イサムと名乗った。
ユクさんはイサム!と言って笑うと、言葉を続けた。
「エアプカシ ヤ? コタン アラパイエ ヤン」
相変わらず何なのかは分からないが、ユクさんは僕の名前を呼びながら誘導してくれている。名前を呼ばれるのがこうも嬉しいことなのかと、どうしようも出来なかった暗闇に光が指したように感じながら、ユクさんの後に続いた。
◇◇◇◇
そのまま進むと、気づけば山を降りあぜ道を通って、なんとも民族的な集落に到着する。ユクさんは腕を大きく振りながらこの場所が「コタン」であると伝えてくれた。コタンという地名に聞き覚えはない。ああ、いよいよ知らない世界なのだなあ。
ユクさんがコタンの中を進んでいく。周りが民族衣装の中、僕1人だけ白シャツにネクタイというのは非常に浮く。
家々から物珍しそうに、時に訝しげに見つめる様々な視線が僕に注がれていた。そちらを向くと、笑いかけてきたり、窓を閉めたりと色々な反応を返してくれた。歓迎されているわけでも、疎まれているわけでもなさそうだ。
僕がキョロキョロと家を眺めながらついていくと、ユクさんが立ち止まる。目の前には木造の一軒家が建っている。隣の長屋に比べればこじんまりとしているが、よく掃除されているきれいな家だ。
玄関口には表札がかけられていて、その上には水平に倒した砂時計のようなものが二つ並べられていた。何かのインテリアなのかな。
「イサム」
家の装飾に気を取られていると、ユクさんは振り返りながら僕を呼んだ。ふかふかの手を僕の頭にのせると、にっこりと笑って家にあげてくれた。
子ども扱いされているようだったが、悪い気はしなかった。それどころか、僕が安心できるように気を使ってくれたような気がした。きっと優しい人なんだと思う。
扉を開けてすぐに居間へ入る。中は御座がしかれ、天井からは干した魚が下がっている。居間の中央には囲炉裏がおかれており、先程まで燃やしていたのだろう、白と黒が混在した薪がくべられていた。
社会の資料集で昔見た、竪穴式住居ってやつだろうか。ユクさんは奥に進むと背中から山菜が詰まった籠を下ろし、戸棚から何かを取り出して机に置いた。
ユクさんは机の上にかなり荒い地図と封筒、そして様々な厚さの本を置いた。ユクさんはまず初めに封筒から糸でまとめられた資料を出すと、僕に見せてくれる。
十数枚の資料には、数百はあろうかという色とりどりの国旗が並んでいた。ほぉ、と眺めているとユクさんはあるページを開き、それを僕に見せた。
青を基調とした背景に純白の角とそれに囲われた4の魚、中央にダイヤ型の真紅の星。そしてその国旗を見せてから、自身を指さして言った。
"カムイ"
カムイ。少なくとも地球上に無いその国名を聞いて、ついに諦めることが出来た。乾いた笑みを浮かべる僕に気にせず、名前の時と同じように自身の出身国を指さすようにいわれる。
あるはずがない。そう思いながらペラペラとページをめくっていると、あるページで手が止まる。章と章を繋ぐ扉絵には、美しい花畑の中で微笑む聖母を描かれている。
その絵の中に、風に散る桃色の花の木があるのを見つけた。まさかと思い興奮気味にページをめくっていくと、あった。
無地の白に浮かぶ紅の太陽。それを目にした瞬間、国旗一覧を持ち上げてユクさんに見せた。ユクさんは笑顔になると、次にヒガンバナらしき花と天秤が表紙に描かれた薄い冊子を取り出し、ページを開いて僕に見せた。
"あなたは かむい しんこく に います"
"このほんには わずかな ぶんしょう しか ありません"
"かんたん です が じしょを つけて あります"
"どうにか おぼえて いきのびて ください"
唖然と同時に、思わず笑みが零れた。そこに書いてあるのはほんの僅かではあるが、日本語であった。少し字の形が崩れているのが気になったが、今はどうでもいい。
どこの誰かは知らないが、この世界にも日本人がいるということに素直に喜ぶことが出来た。先程と一転して笑い出した僕をユクさんは安心したように見つめた。
僕はユクさんに少しの間待ってもらい、即席の文章を書いた。完璧にするのは元より無理な話であるので、出来るだけシンプルになるようにする。幸運にもカムイ語で例文が乗っており、一部を改変するだけでよかった。
"ケラマン ルスイ ナ エネパカシ"━━━「言葉を覚えたいので教えて欲しい」
出来上がった文章をユクさんに見せると、ユクさんは嬉しそうに冊子の辞書を取り出して机に座った。やっと前に進むことが出来る。
これからどうなるのかは全然分からないけど、まずは目の前のことに取り掛かって少しでも恩を返そう。そう考えた僕は筆箱から鉛筆を取りだし、言語習得に取り掛かった。
これが僕の、この世界で、この場所で生きていく第一歩だ。
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