第一章 ブラウンシュガー / 2 パシフィック
有明の埠頭、倒壊危険進入禁止の看板がある防波堤から水中に飛び込んだ一つの影は
いつ帰るともわからない「レイカ」の航海史が今日も始まる。
2 パシフィック
シャワーを浴びてライトなメイクをした後
私は船体の生活ゾーンの最前方にある
ラウンジへ向かった。
ここは操舵室の2階層下でデメニギスの頬にあたる位置
艇の中では一番面積の広いゾーンだ。
そしてかつてパブだったそのスペースが
なぜか和風居酒屋に変わっていた。
地鶏の南蛮焼き・・かあ、そんな気分じゃないんだよなぁ・・
そういって独り言を私は入口へ置かれた
“本日のお勧めボード”へ向かって言う。
「明日金曜日だからさ、ライブあるから来なよ」
するとその聞き覚えのある声が背後から
「やだぁ、マスター、リニュアルしちゃったのね
アタシ前のパブっぽい方が好きだったのにぃ」
この艇のメイン食堂の料理長で、
夜はまた趣味でこのゾーンへ店を開く
まあ通称 マスター の 新村 伸弥
相変わらず自分が時々やるピンでの弾き語りライブを進めてくる。
「ほら、この頃遠方が増えたじゃん、
だからさ、みんな恋しいんだとやっぱ和風が」
そういうと相変わらずの鼻を縮める苦笑をする46歳。
「レイカちゃん、昨日の昼?乗ったの?」
「うんそう、有明からね、しかもさ、荒川下だよ」
「そうそう、最近ね、細かいんだよ隠れ身の我らは特にさ」
「もうビキニで来てやろうかと思った、夏なのにさ」
「いいーなあ、艇内でやっちゃう?ポールダンスとか?」
「やーだ、丘で散々なんだからここではたくさんよぉ」
「わかってる解ってる!冗談だから!」
「もらおうかな、地鶏、普通の炭火焼は?できる?」
「出来る出来る!久しぶりだから俺も1杯」
「ダメよマスター、艇の酒、丘に上がるまでにエンプティにしないで」
私はいわゆるニューハーフだけど
さらにまた普通にはややこしい。
レズビアンの感覚を持つニューハーフ。
だから男には全く興味がない。
自分がかつてそうだったからあんまり言いたくもないのだけれど
よくまぁ、"あんなもの“を身体の真ん中に
一年中ぶら下げてやってられるなって、
最近つくづく思う。
店のヒノキ造りのカウンターに肘をついた私は
マスターが和風なのにメニューから外さないで置いていてくれた
私が好きなベルギー産のクラフトビールを頼んだ。
どこかフルーティな甘味をもつこの絶妙なキャメルブラウンが私のお気に入りだ。
「ところでレイカちゃん、今度のポイント聞いた?」
ポイントというのは任務の目的地の意味だ。
ハーフブラウン色のビールが程よく泡立つ
グラスを片手にすると
鹿児島産の地鶏焼きに割り箸でつまんだ
柚子胡椒をまぶしながら私は言葉を返す。
「まだまだ、明日の朝みたい」
マスターの背後の天井に設置されたスポーツ観戦用の大型モニターには
この艇の現在位置を示す映像が映っていて
その魚の形をしたマークは駿河湾沖を南下していた。
「バングラだよ」
「え、っ またあそこ??」
「だってさ、」
「もうやだぁ、またあそこなの・・・」
/////////////////////////////////////////////////////////////////////////
その朝、操舵室の後ろ上部にあるミーティングルームに
私たち4人はいた。
「おはよう、まずこっちが 入江雄介 元海上自衛隊。それでこっちが 晴海 瞬 」
「よろしく」
「宜しくお願いします」
本城が二人のクルーを私に紹介した。
雄介は昨日のタンク野郎だ。
いかにもアスリート系の暑苦しい感じの印象で
瞬の方は初顔合わせで眼鏡の似合う色白オタク系美男子という感じかな。
「レイカよ、サザナミレイカ 宜しくね」
「今回のポイントは」
「聞いたわ、バングラ・・」
「ああ、」
そう私が返すと本城は“さすが“というような目配せをしてまた眉を上げる。
「お迎えは荒川で向かうはバングラね、もう今から気分がダーティだわ」
「そういうなって、この世界の泥には慣れてるだろ」
本城が胸のジャケットのボタンに触れるとスイッチが入り
4人が囲んだ楕円形のテーブルに天井の3Dプロジェクターから光が差して
今回の任務計画の概要が立体映像で浮び上がった。