どう見ても聖剣です!
「これは大事な大事な家宝なんだ」
その話をするときのおじいちゃんは、いつも誇らしげだ。
広い庭に面した縁側に、私とおじいちゃんは並んで座っている。短い芝生が温かな日差しを受けてきらきら光る。
「じいちゃんのじいちゃんは、この刀をたいそう大事にしとってな」
「ふーん」
私は真っ白な入道雲が居座っている青空を見上げて、床板に両手をつき、何にも履いてない足をぶらぶらさせる。
「なんでも戦国時代から、代々受け継がれてきたんだと」
何度も何度も聞かされた話。
縁側にあぐらをかいたおじいちゃんは嬉しそうに話しながら、膝の上に横たえた家宝の鞘を、それ専用の手ぬぐいで丁寧に磨く。
「おじいちゃん」
「ん?」
「昨日その刀振ったら、ビームが出たよ」
私がなんとなく打ち明けると、おじいちゃんはシワシワの顔をこっちに向けた。毛の無い頭が眩しい。
「ミコトは面白いことを言うなぁ」
おじいちゃんはシワシワの顔にさらにシワを増やして笑った。
「冗談じゃないから。鞘から抜いて振ってみてよ」
「そう言われても、錆びついてて抜けない」
ああ、そうか。
選ばれし者しか抜けないタイプなんだ。
察した私は、黙って体を後ろ側に倒した。強すぎる紫外線のせいで水着の跡が残ってしまった背中に触れた床板が、ひやりと冷たい。
おじいちゃんの話を聞き流しながら、夜ふかししてやり込んだRPGのことを思い出す。洞窟の奥深くで手に入れた伝説のアイテム。岩に突き立てられた白銀の剣。
それが有していた比類なき美しい見た目と圧倒的な威力を思い出しながら、もう一度家宝の刀を眺める。
――やっぱり、似ている。
私の熱心な視線に気づいたおじいちゃんが、その見事なロングソードを立てて見せた。笑った口の中に銀歯が見える。
「どうだ。いい刀だろう」
いや、どう見ても聖剣です。
☆
頑張れば世界を救えそうな感じのレア武器が、我が家の床の間に飾られている。
気にはなるけど、ごく普通の高校生にとってはどっさり出された宿題を処理することの方が重要だ。
私はテレビがある居間で、畳の上に無造作に座り、ちゃぶ台にノートを広げていた。自主勉強をノート一冊分って、鬼か。
すぐそばでは古い扇風機が首を振っている。この風だけでは涼しさが足りないので、網戸をつけて窓も開けた。セミの大合唱がクリアに聞こえる。
扇風機のプロペラの無機質な唸り声とセミの鳴き声、たまに通る車の音くらいしか聞こえないので、庭に敷かれた砂利を踏む音にはすぐに気づいた。
外に誰かがいる。
聞き慣れたおじいちゃんとおばあちゃんの足音ではない。砂利に慣れていないような、ぎこちない足音が、だんだん玄関に迫ってくる。
……お客さんかな?
車を停める音はしなかった。徒歩で来るお客さんなんて珍しすぎる。
私はシャーペンを置いて、そろそろと玄関に向かった。
「……。……?」
アニメでしか聞く機会のないイケボが、引き戸一枚隔てた向こうから聞こえた。すりガラスに手のひらの影が映る。
「……! 〜〜〜!」
ただでさえデリケートそうな引き戸が遠慮なしに叩かれる。
鬼気迫る様子だが、何を言ってるのか分からない。たぶん外国の言葉だ。英語……ではなさそう。
「は、はろー? ふーあーゆー?」
平べったい発音の英語で声をかけてみた。向こうは人の気配を察知したらしく、ますます激しく引き戸を叩く。壊れちゃう壊れちゃう。
観念して鍵を回した。引き戸を少しだけ開けるなり、その隙間に乱暴に手が突っ込んでくる。
「よ……鎧!?」
侵入してきた手は、金属のプレートに覆われた篭手を付けていた。その物々しい装備に気を取られた瞬間、引き戸がいっぱいに開け放たれる。
そこに立っていたのは、満身創痍の金髪美男子だった。色白な顔は泥で汚れ、銀色に光るプレートアーマーの関節部分に腐った落ち葉が挟まっている。
「〜〜〜ッ!」
あっけに取られて固まる私の肩を掴んで、全身鎧のイケメンは必死に何か言ってきた。
「な、何!? 誰ですか!?」
私は混乱しながら叫び返した。
「セ……聖剣! 聖剣、ドコ!?」
「離してください! 警察呼ぶぞ!」
逃げ出したがる両足を踏ん張り、必死に強気な態度を作る。イケメンは歯噛みして、私を突き飛ばした。玄関から廊下に上がる段差に思いっきりつまずいたものの、ガシャガシャと鎧を鳴らして廊下の奥に進んでいく。土足じゃん。
「ちょ……やめろ! ドロボー!」
イケメン……訂正、ドロボーは家探しをするでもなく、迷わず廊下を曲がった。トイレの前を通過し、居間のテレビをチラ見して、さらに奥へ。
その先は――床の間がある部屋だ。
私は急いで居間に飛び込んだ。部屋の隅に立て掛けておいた竹刀を握ってドロボーを追いかける。
ドロボーは、床の間の前に膝をついていた。そこには、代々伝わる家宝がすっかり日本刀ヅラして刀掛けに飾られている。
「…………」
顔がいいドロボーは聞き取れない言葉で何か呟き、その剣にそっと手を伸ばした。
バチッ!とかなり派手な静電気みたいな閃光が爆ぜ、指が弾かれた。ドロボーは「アウチ!」のような悲鳴を発して手を抑える。
隙きあり。
「ィヤァァアアアッ!!」
竹刀を握って突進する。振り返ったドロボーの頭に、面あり一本。竹の乾いた音が家中に響く。ドロボーが頭を抑えてうずくまった。
「なんの騒ぎだ!」
ちょうど畑から帰ってきたおじいちゃんが、色あせたポロシャツとヨレヨレのズボンのままでバタバタと駆けつけてくる。
「おじいちゃん! こいつドロボー!」
「なんだと!?」
おじいちゃんは片手に握っていた靴べらでドロボーに追い打ちをかけた。攻撃に全く容赦がない。
「ヤ……ヤメテクダサイ! ワターシ人間! 悪クナイ!」
悲鳴を上げながら猛攻に耐えていたドロボーが、ついに聞き取れる言葉を喋った。素早い側転回避で靴べらのムチから逃れ、肩を揺らして息をする。
「世界ヲ守ルコト、聖剣ガ要ルデゴザル……。譲ッテタモレ……」
ドロボーは妙になまったカタコトで言い、がくりと膝をついた。
「アノ……飲ム、ホシイ。スミマセン……ツイデニ、ヨロシク」
困った顔で息も絶え絶えに、自分の口とお腹を交互に指差し、両手を合わせる。どうやら飲み物と食べ物を要求しているらしい。
「ふざけた格好のドロボーだな……」
「この人、お腹空いてるみたい。おやつあげてもいい?」
「余計なことするな。じいちゃん警察呼ぶから」
「ちょっとだけだよ」
ドロボーがあまりにも疲れた顔だったので、ちょっぴり可哀想になってしまった。急いで台所へ行き、よく冷えた麦茶を注いだグラスと、おばあちゃんお手製の干し芋を抱えて戻る。座り込んでぐったりしていたドロボーは、私が持ってきたものを見て顔を歪めた。
「? ……???」
干し芋をつまんでプラプラ揺らし、麦茶を見つめて眉を寄せている。珍妙なものを見る態度だ。
けれど飢えと乾きに負けたのか、ドロボーはそっと麦茶の匂いを嗅いだ。おそるおそるグラスに口をつけ、麦茶を一口飲む。
「……!」
緑色の瞳を大きく開き、ドロボーはそのまま麦茶を一気飲みした。空になったグラスを指差し、早口な外国語で私に何か話しかけてくる。たぶん「もう一杯くれ」ということなのだろう。注いてあげると、また一気飲みした。
麦茶が思いの外おいしくて警戒心が薄れたのか、干し芋はあまり抵抗なく口にした。一口かじるごとに首をかしげていたけど、無事に完食だ。
「アリガト! アリガト! カタジケナイ!」
満面の笑顔で私とおじいちゃんに何度もお礼を言う。悪い人に見えないような……。
「ワターシ、メルヴェルーチェカ言イマス!」
「メル……なんだって?」
「メルヴェルーチェカだって、おじいちゃん」
ドロボー……本名をメルヴェルーチェカ、略してメルは、つらつらと自己紹介を始めた。全く聞いたことのない地名がポンポン出てきた上に、日本人では発音できなさそうな単語まで会話のところどころに混ざる。おじいちゃんが通訳しろとでも言いたげに私を見るが、私も分からない。
「えっと……つまり、あなたは異世界から来た勇者ってこと……?」
「ユーシャ……。ツワモノ、ノ事デスカー?」
兵。
いちいち古い言葉が飛び出してくる。
……あ。
私の頭の中に、閃光が走った。
メルが手に入れようとしていた、我が家の家宝。おじいちゃんの話によれば、それは戦国時代から伝わっているもの……。
「もしかして……あれは、もともとあなたの世界にあったもの?」
私の質問に、メルは力強く何度も頷いた。
「ワターシノ……アノ……ゴ先祖サマ? メッチャ強イ剣、聖剣、コッチニ落トシタデス。ワターシ、取リニ来タゴザル」
「そんな遠くからわざわざ……」
「聖剣、ドシテモホシイ! ワターシ、悪イノ倒ス仕事!」
「えーと……魔王を倒すのに聖剣がいるんですね、ざっくり言うと」
私が聖剣だと思ってた家宝は、なんと異世界の聖剣だった。どう見ても聖剣だったので驚きが少ない。何気なく振ってみた聖剣からビームが出たときの方がもっとビックリした。
「オ願イ! 譲ッテクダサレ!」
「最初のあたりから全然わからん。通報する」
メルが畳に額をくっつけて土下座するが、おじいちゃんはけんもほろろ。
勇者だの魔王だの聖剣だのは、ゲームに馴染みがないと理解できない概念なのだ。
このままじゃメルが逮捕されちゃう。
「あーーーっ!! 思い出した!」
私はとっさに叫んだ。
「どうした、大きい声出して」
「この人、ホームステイの留学生だったー!」
「ほむすてい……?」
おじいちゃんがメル並みのカタコトで繰り返す。
「えーっと……フランス。そう、フランスからの留学生が来るって先生が言ってた」
「そうだったのか」
「ごめんなさい。忘れてた」
私はおじいちゃんにぎこちなく謝り、メルに笑顔を向けた。
「メルくんは日本に来たばっかりなの。ねっ」
「ニホン……? ココハ“天下”トイウ国デハ?」
「だからちょっといろいろズレてるんだ〜。もう、鎧姿でいきなり家に上がりこむなんてビックリするじゃん、メルくーん」
質感バッチリの鎧の肩をバシーンと叩いた。金属の冷たさが生々しい。
「フランスじゃそれが当たり前なのか?」
「???」
「そうなんだよ! 不思議だね!」
ごめんなさいフランス人。
「マイケルくんはどこの家のお世話になってるんだ?」
「エ……???」
「おじいちゃん、マイケルじゃなくてメルだよ。……もしかして、泊まるところ決まってないんじゃない?」
「そりゃあ困るな。うちでもいいんだぞ」
「よかったね、メルくん!」
「??? ハイ……」
メルの頭の上に大量のクエスチョンマークが見える。絶対よく分かってないけれど、とりあえず歓迎しているという雰囲気は伝わってくれたようだ。
「ミコト、マイケルくんはたくさん勉強しなくちゃならないんだろ。日本のことをしっかり教えてあげなさい」
「はーい」
そう言うと、おじいちゃんは片手に持った電話の子機を戻しに玄関へ行った。足音が遠ざかる。私はぽかんと立ち尽くしているメルの方に振り返った。
「今のうちに、聖剣を持ってってください」
「イ……イイデスカ……?」
「だってあなたのご先祖様のものなんでしょ。それに、ここにあっても、使ってあげられないと思うから」
「アリガト……」
メルはお礼を言うが、その表情はなんだか浮かない。うつむいて眉を寄せている。
「急いで! はい!」
「デモ……」
「おじいちゃんが毎日磨いてるから、綺麗ですよ!」
私は刀掛けに鎮座している聖剣を手に取り、鞘から少しだけ剣を抜いて、その澄んだ輝きを見せた。メルがまつ毛の長い目を大きく開く。そして、小さなため息をつくと、真剣な顔で私を見下ろした。
「聖剣ハ、アナータヲ選ンダデース」
「は?」
「聖剣ヲ抜ケル人、聖剣ニ選バレタ人ダケ……。アナータ、ウチノ世界タスケテ?」
なんだって。
私、やっぱり知らないうちに選ばれてたのか。
「困ります! 学校あるし!」
「デスヨネー……」
「なんとかならないんですか!?」
「一個アリマス」
「それは!?」
「ワターシ、アナータヨリ強クナル。ソスレバ、聖剣、ワターシニ鞍替エシマース」
そう言って、メルは畳の上に転がっていた竹刀を拾い上げた。柄を握って竹刀を立て、竹製の刃をまじまじと眺める。
「ジャパニーズ・カタナ……。コレ、決闘」
使い込んだ竹刀の先が、私に向けられた。
たどたどしい言葉で詳しく説明を受けた私は、メルを連れて、近所の市民体育館に向かった。
「さっそく日本の文化を勉強するのか。剣道はいいぞ。ミコトも三歳の頃から続けとる」
勉強のためならばと三人分の利用料金を払ってくれたおじいちゃんが、メルに剣道用の防具を着せながら言う。私はメルの隣に正座して、一人で防具を身に着けた。
「……それにしても、あの鎧はすごかった。フランスの人はみんなああいうのを着て生活しとるのか?」
「ハイ。戦ウ仕事ノ人、ミンナソウ」
「暑くて大変だな」
「HAHAHA」
ごめんなさいフランス人。
「ジャパニーズ・ヨロイ……。ヨク見エナイ」
メルも着替え終わった。面を押さえてキョロキョロしている。裸足なのも落ち着かないようだ。
「えっと……メルさんが剣道で私に勝ったら、聖剣の所有権がメルさんに移るんですね」
「イザ、尋常ニ勝負デース」
思いっきり手加減して負けたい……けれど、聖剣に嘘は通用しないらしいので、二人とも手加減なしの真剣勝負だ。ある程度距離を取り、竹刀を構える。
「では……はじめ!」
私とメルの間に立ったおじいちゃんが、手を挙げた。
「はああぁっ!」
メルが接近してきた。明らかに剣道の構えと違う。薙ぎ払うように振られた竹刀を受け流す。
鋭くて重い。
これが勇者の剣。たぶん、彼も幼い頃から剣を扱ってきたんだろう。しかも、私よりずっと厳しい鍛錬を受けてきた。まともに受けたら竹刀を落としそうだ。
「マイケルくん、作法がめちゃくちゃだぞ!」
「〜〜〜(世界がかかっているんだ。ここで負けるわけにはいかない:特別意訳)!」
おじいちゃんが叫ぶが、メルには聞こえていない。自分の世界を守ることで頭がいっぱいなんだ。
でも。
その焦りが、隙を生んだ。
「胴ッ!!」
「胴あり一本!」
私の竹刀が彼の脇腹を叩いた。おじいちゃんがすかさず判定を下す。
けれどメルはその勢いのまま、私の首を狙う。おじいちゃんが割って入ってきた。
「コラコラコラ! もう終わり! おしまい!」
「ダイジョブ! 戦エマース!」
「そういうルール! オッケー!?」
おじいちゃんに厳しく言われて、ようやくメルから闘志が抜けた。
「日本ノ戦イ、ワカリマセーン……」
「あはは……」
私は脱いだ面を抱えて苦笑いした。
「デモ、絶対。絶対勝ツ。マタ勝負デゴザル」
緑色の瞳を強く輝かせ、メルが手を差し出してくる。
異世界にも“握手”っていう文化があるんだな。
「いいよ。受けて立つ」
メルの手を強く握った。
☆
メルの“留学”が始まって、早二週間。もうすぐ夏休みも終わり。
毎日勝負を挑まれているけど、彼はまだ一度も私に勝てていない。
でも、きっともうすぐ私は追い越されるのだろう。私やおじいちゃんのアドバイスに必死に食いつき、めきめき実力を上げていく彼を見ると、そう思う。彼は異世界で一番優秀な、努力ができる天才なのだ。きっと彼が私の世界の人だったら、私は話すどころか会うことすら叶わない。
いいかげん彼を選んであげろよ、聖剣。
今日は六時に起きた。今まで九時に起きていたのに私えらい。
寝ぼけ眼で台所へ行き、グラスに氷と麦茶を入れる。ハンカチと一緒にグラスをお盆に乗せて、縁側に出た。
竹刀が空気を切る音がする。真っ白な柔らかい朝日に包まれた庭の真ん中で、おじいちゃんの袴を履いたメルが、竹刀の素振りをしていた。
「メルくーん」
すっかり口に馴染んだ名前を呼ぶと、汗びっしょりの端正な顔が振り向いた。色の白い肌が赤みを帯びている。
「ミコト・サン。オハヨー」
人懐っこい笑みを浮かべて、メルが片手を挙げる。
「早起きだね」
「イツモ通リデース」
メルは竹刀を下ろし、こっちに近づいてきた。縁側に腰掛けた彼の隣に正座して、グラスを差し出す。メルは優しくグラスを受け取り、麦茶を飲んだ。
「オイシイ。アリガトネ」
「……うん」
高校で所属している剣道部での練習風景を思い出した。
「真面目にやりなよ」と言えば、「何怒ってんの」と笑われて。駄弁る同級生たちを尻目に、ポツンと一人で素振りする私。
絶対勝つんだと意気込んでいた大会で初戦敗退したら、なんだか急にバカらしくなって、練習さえポツポツとサボるようになった。
そうしたらビックリするほど快適で、もうこのままでいいやと思っていたのに、今はちょっと自分が恥ずかしい。
だって、こんなに一生懸命練習する人、久しぶりに見たから。
早起きを頑張って冷たい麦茶を用意することが習慣になってきた、ある日の朝。
おじいちゃんとおばあちゃんと私、それからメルは、いつものように食卓に集まっていた。テーブルの上には小皿に盛られたいろいろなおかずが並んでいる。
「オハヨゴザイマス! 朝餉デゴザル!」
「はい」
老眼鏡越しに新聞を読んでいるおじいちゃんの前に、メルがご飯の茶碗を置いた。
「毎日手伝ってくれてありがとう、マイケルくん。助かるわぁ」
「マイケルじゃないけどね」
何度も訂正したんだけど、メルはすっかりフランス人留学生のマイケルとして定着している。
「はうっ……ナットー……」
おじいちゃんの隣の席に腰掛けたメルは、おじいちゃんの方から漂ってきた匂いに顔をしかめた。
彼は納豆とオクラととろろが猛烈に嫌いだ。たぶんもずくも嫌いだと思う。キムチとか塩辛は意外と食べる。
「好き嫌いはいかんぞ、マイケルくん。おいしいから一口食べてみなさい」
「…………」
おじいちゃんが開けた納豆のパックをメルに差し出した。メルは眉間に深いシワを寄せてうつむき、世界の終わりみたいな顔をしていたけれど、観念してスプーンの先に納豆を三粒くらいすくった。糸が引くのを見て身震いしている。
横からおじいちゃんに見つめられつつ、メルは鼻をつまんでスプーンをくわえた。
「オアァ! 〜〜〜〜っ!」
「お父さん、無理させちゃダメよ」
甲高い悲鳴を上げて母国語で何やら叫ぶメルを見て、おばあちゃんがおじいちゃんに苦言を呈した。
おじいちゃんは無言ながらも納得いかない感じで納豆をご飯にかける。
私は湯呑みにお茶を注いで、メルに手渡した。
「故郷ではどんなものを食べてたの?」
「野菜多イ。アトハ……」
せっかく質問に答えてくれてるのに、「アトハ」以下の単語が聞き取れない。とりあえず頷いていると、メルは話しているうちにだんだん楽しくなってきたのか、拙い日本語で好きな食べ物の説明をしてくれた。
「もしかして……」
彼の話を聞いていたおばあちゃんが、不意に席を立つ。キッチンに行ったかと思えば、アルミ箔に個包装されたチーズを持ってきた。
「こういうのかしら?」
チーズをコロンと手のひらに乗せられたメルは、アルミ箔ごと不思議そうにそれをかじった。
「……?」
「違う違う。こうするの」
私はメルからチーズを受け取り、アルミ箔をキレイに剥がした。「oh……」と驚いているメルにチーズを返す。メルはひんやりしたクリーム色の物体をしげしげと眺め、口に入れた。
「! 〜〜〜!」
「ど、どうしたの? マズかった?」
早口な母国語じゃ聞き取れないけれど、すごく驚いている。メルは震えながら目を剥いて立ち上がった。椅子を蹴飛ばすように走り出し、いきなり押入れの中に飛び込んでしまう。
尋常でない様子の彼に、おじいちゃんもおばあちゃんも固まっていた。
私は慌てて彼を追いかけ、開けっ放しの押入れを覗き込んだ。
メルは、畳んで収納した布団に顔を押し付けていた。
「う……うぅ……っ」
くぐもったすすり泣きが聞こえてくる。こっちも悲しくなるほど悲痛な声。
きっと、彼の世界にもチーズがあるんだろう。知らないものばかりのこの世界で不意に口にした故郷の味に、どうしようもなく寂しくなったに違いない。
それから、メルはさらに剣道の練習量を増やした。
日が昇る前から筋トレだの素振りだのを始め、気絶するように眠るまで自分を鍛えている。一日一回の決闘で私に負けると、拳が内出血するほど強く壁を殴って悔しがる。ときどき吐き捨てる母国語は、きっと自分への罵倒だろう。
以前の一生懸命な姿は不覚にもカッコイイと思ってしまったけれど、ここまで来ると心配だ。
メルが来てからというもの、暇な夏休みが妙に楽しくなって、私はすっかり忘れていた。
彼が、使命を背負って世界線を超えてきたということに。
でも、私は何の事情も知らない。知ったところで彼が立ち直れるほど上手く励ませる自信がない。
私にできることと言えば、縁側の柱の影に隠れて、すっかり氷が溶けてしまった薄い麦茶を傍らに、彼の背中を眺めていることだけだ。
険しい表情で素振りを続けるメルに声をかけられるのは、我が家の中でおじいちゃんだけだった。
「マイケルくん、少し休憩しなさい」
ガニ股歩きで畑から帰ってきたおじいちゃんが、メルのそばで立ち止まった。
疲労が色濃く表れた顔から汗を垂らしながら、メルが竹刀を振り下ろす。
「ワターシ……コノ世界、ウラヤマシイ……」
かすれた声で呟いた。
「故郷ノゴ飯、食ベタイ……。戦ウコト、疲レタ……ミンナ疲レタ、カラ。モウ誰モ戦ワズ済ムヨウニ、勝ツ」
「フランスは大変なんだな」
メルはいつもみたいに「フランス違ウ」と否定することさえしない。前をにらみつける両目が潤んでいた。
「剣道なんか、やめてしまえ」
黙ってメルの素振りを眺めていたおじいちゃんが、突然言い放った。
「戦いたくないのに、嫌々剣を振り続けて何になる。泣くほど嫌いな剣道なんか、やめればいい」
「無理ダヨ……」
「無理なもんか」
さっと出されたおじいちゃんの手が、メルの竹刀を受け止める。手のひらで簡単に止められてしまうほど、メルの素振りは弱々しかった。
「これだけのことだ」
おじいちゃんは真顔で竹刀を地面に落とした。小さく跳ねて沈黙したそれを、メルは呆然と見下ろしている。
「ずっと、こうしたかったんだろう」
おじいちゃんの声が冷たく響く。
メルは唇を噛んでおじいちゃんに背を向けた。こっちに向かって足早に歩いてくる。私は素早く柱の影に身を隠し、メルが床の間のある和室に入るのを見送った。
「聖剣サマ……」
私が障子の隙間から床の間を覗いたとき、メルは、刀掛けに鎮座する聖剣の前で跪いていた。
「逃ゲチャダメ、ワカッテルノニ……ナンデワターシ、安心シテルデショウカ……」
膝に乗せた拳を、強く握りしめる。
「聖剣サマ……ワターシ、モウ戦エナイデスカ……? ダカラ選バナイデスカ……?」
もう見てられない。
私は今来た風を装って障子を開けた。メルが泣きそうな顔をこちらに向ける。
「ミコト・サン……」
「メルくん、ガム食べる?」
「アリガト……」
私が差し出した板ガムを、メルは疑いもせずに引き抜く。その途端に飛び出したプラスチックのバネが彼の親指を挟んだ。
「引っかかったー」
「…………」
親指をパッチンガムに挟まれたまま、メルは暗い表情で黙っている。前は「oh! HAHAHAHA」ってバカウケしてくれたのに。
「スランプ中なんですね」
「スラ……何? 日本語デOK」
「落ち込んでるんですね」
メルはますます肩を落とし、眉尻を下げる。いたたまれない気持ちになった私は、彼の親指からパッチンガムを取ってあげた。
「ミコト・サン、ナンデアンナニ楽シソウナンデスカ?」
「ん?」
「ワターシト戦ウアナータ、イツモ楽シソウ。……真剣ナノニ、楽シソウ……」
「そうかな? そう見える?」
「戦ウヲ、楽シソウ……。ワターシ、ソレ、ワカリマセーン」
“争い”を楽しめるのは、きっと私の世界が平和だからだ。
メルは汗の乾いた顔を上げて、静かに私の答えを待っている。
「うーん。まぁ、サボってるくせにこんなこと言っていいのか分かんないけど……」
私は日差しで温められた畳に正座して、彼と向き合った。
「私は剣道が好きだから。あと、メルくんがどんどん上達していくのを実感すると、すごく嬉しいから」
透けそうなほど白い指が、私の方に伸びてきて、膝の上に乗せていた手にそっと重ねられた。
「メルガ勝ツノ、待ッテテクレルデスカ?」
やかましいセミの声が遠く聞こえる。私ははっきりと頷いた。
「ミコト・サン、ワターシヲ応援シテクレル。ワターシガ勝ツマデ、ズット待ッテクレテル」
「うん」
「ワターシノ世界ノ人タチモ……同ジネ。ワターシ、ミンナヲ待タセテル」
ああ、そうだっけ。
メルくんは、帰らなきゃいけないんだ。
「……もとの世界に、帰りたい?」
しぼんで消えてしまいそうになる笑顔をなんとか維持して、そう尋ねた。
「帰ったら、やっぱり戦争に行くの?」
気がつくと、私は自分の手に重ねられた彼の手を、両手で包んでいた。
そんなつもりは全然ない、はずなのに。私にそんな権利はないのに。まるで引き止めてるみたい。
「ワターシ、戦争ノタメニ帰ルト違ウ。ミンナ助カル方法ヲ探シニ戻ルノデス」
「……そっか。うん、メルくんならきっとできるよ」
「ミコト・サンニ勝ッテ、世界ヲ救イニ行キマース」
力強く手を引かれ、つられて立ち上がった。
「イザ勝負。ワターシ、絶対勝ツヨ」
向けられた笑顔に、嘘はない。
これでいいんだ。これで。
「やめるのはやめたのか」
「ハイ」
二人で庭に出ると、メルが取り落とした竹刀を拾ったおじいちゃんが、さっきの場所で立っていた。
「オ父サン」
「君にお父さんと呼ばれる筋合いはないぞ」
「日本ノ文化、スバラシーネ」
おじいちゃんはちょっと得意そうに、竹刀をメルに手渡した。
それから三日後、私はついに勇者に負けた。
真正面から食らった面あり一本。
ちょっと悔しいくらい清々しい負けだった。
☆
「ダメだぞ。いくら頼まれても、家宝は譲れない」
おじいちゃんはしかめっ面でメルくんの頼みを突っぱねて、ドーナツ型クッションに座り、バサッと朝刊を広げた。
「じゃあ貸して!」
「は……?」
私が助け舟を出すと、おじいちゃんは唖然として聞き返してきた。老眼鏡がずり落ちる。
「ダメだダメだ。絶対に譲らないし貸さない」
「フランスにいる家族がどうしても生で見たいんだって。お願い、おじいちゃん!」
「洗ッテ返シマース!」
「本人もこう言ってるから! ね、貸すだけ!」
私とメルはもう神様仏様を拝み倒す勢いで、おじいちゃんに頭を下げた。
☆
そして、その日がやってきた。
ピカピカに磨いたプレートアーマーを装備したメルが、開け放した玄関の外に立つ。
「オ母サン、アリガト」
彼は、おばあちゃんの手作り田舎料理がぎっちり詰められたタッパーをいくつも持たされていた。
「フランスに帰っても元気でね、マイケルくん」
「めるしぃ!」
メルは覚えたてのフランス語で感謝を伝え、おばあちゃんをハグする。
メルがおばあちゃんに笑顔を見せて離れると、まだちょっと納得いってなさそうなおじいちゃんが出てきて、彼にしぶしぶ例のものを差し出した。
梱包材に抱擁された聖剣だ。
「くれぐれも壊すなよ」
「ハーイ」
「……それと、」
すぐに聖剣を受け取ろうとするメルの手からそれを引き離し、おじいちゃんは緑色の瞳を強く見つめた。
「俺は、これを人殺しの道具だと思ったことは一回もない。俺のじいちゃんが毎日嬉しそうに磨いてた、大事な宝物だ」
そう言って、おじいちゃんは両手で聖剣を差し出した。
メルが受け取る。もうその手が弾かれることはない。我が家に代々伝わる聖剣は、しっかりと若き勇者の腕に収まった。
「嬉シイデス。ワターシノゴ先祖サマ、喜ンデルヨ」
メルは思いを馳せるように、剣の鞘の細かな彫り込みに視線を滑らせた。それをうやうやしく腰に吊るし、おじいちゃんとおばあちゃんに頭を下げる。
そして、寂しさでいっぱいな気持ちのまま立ち尽くしている私に、その顔を向けた。
「ミコト・サン」
「うん」
「オ元気デ」
「……日本の文化では、こういうときは“またね”って言うんだよ」
「ソウデスカ。ジャア、マタネ」
「“またね”って言ったら、また会いに来なくちゃいけないんだよ」
「oh……ソウダッタノ」
彼の驚く顔を見て、してやったり、と笑ってみせる。
「言イ直シマセン。マタネ、ミコト・サン」
視界がにじんでよく見えない。メルの声はとことん優しかった。
「“さよなら”って、フランス語でなんて言うんだ?」
おじいちゃんが素朴な疑問をぶつけた。
メルは微笑んで口にする。
日本人には発音が難しそうなその言葉は、きっと彼の世界の挨拶だ。
次の瞬間。
メルの背後の空間が裂けたかと思えば、彼は迷いのない足取りでその中へ踏み込んだ。空間の裂け目があっという間に閉じる。
「すごいな、フランス。いつか行ってみようか、母さん」
「きっと魔法の国ですね」
おじいちゃんとおばあちゃんがあまりにフランスを勘違いしているので、私は泣きながら笑ってしまった。
☆
「これは大事な大事な家宝なんだ」
縁側にあぐらをかき、聖剣を収めた鞘を丁寧に磨きながら、金髪の青年は自慢げに語る。それをそばで聞いている……聞かされているのは、彼の息子である。
「パパはね、これを装備して世界を救ったんだよ」
「嘘だー」
「嘘じゃない」
「じゃ、これで敵を倒したの」
「いや。結局誰も斬らなかった」
「なんで?」
「この刀も、きっとパパと同じで、戦うのが嫌になったのさ。だから逃げたんだ。パパが“もう二度とあなたは使いません”って約束したから、こうして触らせてくれるようになったけど」
少年は「ふーん」と答えて、両足をぶらぶら揺らす。
「そんならパパ、この刀を抜いたことないんだ」
「無いね。どんな風だったか、ママに聞いてみたら?」
少年は振り向き、声を張り上げた。
「ママー! この刀、強いー?」
「ビームが出るよー」
部屋の奥から声が返ってくる。大したことないような口ぶりだ。
「カッコイイね、パパ! ビームが出るんだって!」
目を輝かせる少年の頭を撫でて、金髪の青年は柔らかく微笑む。
「スイカ切れたわよ」
部屋の中から縁側に、少年の母親が出てきた。切ったスイカを二切れ乗せた皿を息子と夫の間に置き、夫を軽くにらむ。
「この子が変なふうに覚えちゃうから、それを刀って呼ばないで。何回も言ってるけど、それ――」
いたずらっぽく笑った顔は、少女だったあの頃と少しも変わらない。
「どう見ても聖剣です」