牧草畑ととんがり屋根
牧草畑の真ん中、レンガでできた三角屋根の小さな家。周りは木製の柵でぐるりと囲われ、小さな井戸がぽつんと一つ、馬のいない馬車が玄関の横に転がる。絵画と廃墟を混ぜ込んだような、どっちつかずのその家。
少しだけ蜘蛛の巣が張った柵を押せば、ギィと軋む蝶番。足元の砂利がザクザクと鳴った。大きな一枚板のドアを叩き、声を上げた。名前も知らないヒトを、神様のように。縋る気持ちで張り上げた声。
「魔法使いさん、お願いします!助けてください!!」
ドンドン、という音は静かな畑に響く。返事はないが、何度もドアを叩いて声をあげるしかない。ここにいると噂の魔法使いが、最後の希望なのだ。
「魔法使いさん!お願いです、助けてください!!」
いよいよ泣きそうな声。グスグスと鼻を鳴らしながら、赤くなった手でドアを叩き続ける。どこまでも絵画のように美しい世界がようやく動いた。
「ハイハイ……。煩いなぁ、風呂もゆっくり入れやしないよ」
ぼやく声と共にドアが開く。じわじわと痛い掌よりも、ドアの向こう側の方がずっと重要だった。
麦畑のような黄金の髪は濡れていて、薄い体は不健康にひょろっちい。腰に引っ掛けたような麻のズボンと水を吸っていて、張り付く白いシャツはまるで農民のそれのようだ。聞いていた魔法使い像とはまるで違う。しわくちゃでも、黒いローブを纏ってもない。多少目をひく容姿でこそあるが、ごくごく普通の青年のようだ。
「用はなんだ?あいにくあまり暇じゃないんだ」
声は耳触りのいい低音。しかし言葉は辛辣だった。じわり、と堪えていた涙が溢れるのを見て、魔法使いは慌てた。なにせ人付き合いのさらさらない場所に住んでいるのだ。泣かれたときの対応なんて見たこともないため知りもしない。溢れ落ちる雫に慌てる、みっともない大人でしかなかった。
「やめてくれよ、助けてと言ったり泣いてみたり。これだからヒトと関わるのは億劫なんだ」
いやだいやだとため息をついて、魔法使いは泣きじゃくる子を家に招き入れる。見た目よりも広い室内。星のように吊り下げられたガラス片が輝く内装にすぐに涙は引っ込んだ。
絵の具を数滴垂らしたような滲む色彩が美しいガラス。そこから覗く先には羽が生えたり手足の多い未知の生き物が見えた。人型のものも、虫に似たものも様々だ。
「あんまり覗くんじゃない」
キョロキョロと視線を彷徨わせる頭を鷲掴んで魔法使いは木製の丸椅子に座らせた。年季の入ったそれは焦げたキャラメルみたいな色をしていて、角なんてどこにもなくつるりと滑らか。落ち着かない手足がパタパタと動き、目はなにかを用意する魔法使いを追いかける。テーブルに彫られた円陣に鉄製のティーポットを置き、乾いたハーブと水を流し込む。ハーブティーを作るには、些かやり方も道具も間違ったものだ。
「ナナカマドの実・憤怒の呼気───いでませ焔」
それは魔法の呪文と呼ぶにはずっと簡略だった。しかしマグカップの中身はふつふつと沸騰し、ハーブがエキスが煮出されていい香りがする。火はないが、じわじわとマグカップの周辺が熱くなっていた。しゅうしゅうと立つ湯気がそのうち静かになる。一瞬感じた熱さも消えたようでマグカップに手を伸ばす魔法使い。熱さなんてないようにそれを持った彼は小さなカップに茶葉を避けて注ぐ。
「熱いよ」
一言そう告げて手渡す。じわじわと手のひらを温めるそれは、確かにお湯で目の前で起きたことは本当に魔法のようだ。
ふうふう、と息をかける度に香るそれも、芳醇でふくよかな甘みを含んだ香りで正しくハーブティーだ。ちびちびと口をつける様子を眺めながら、魔法使いいは手を叩く。その音は家の中を反響して、キラキラとガラスを揺らした。
「あの、魔法使いさん……」
ハーブティーを3分の1ほど飲んだところで、ようやく声をかけた。感動と、希望と。色々な感情で赤らんだ頬。大きな目は、しっかりと彼を見据えた。
「あの、助けてくださいっ!メイワクなの、わかってます。でも、僕の弟、このままじゃ死んじゃう……!!」
大粒の涙を流しながらそう言った姿に、魔法使いは目を丸くした。こんな年端も行かない子供が来た時点で、あまり楽観的なことは想像していなかった。しかし人の死というものを理解し、救いを求めるその姿。どうにも、胸のあたりがざわついた。
「話は聞くよ、まずはね。でもその前に、一つ約束だ」
彼は悠長にそう言った。どこまでも続く海と空の境界線のような瞳が真っ直ぐに子の方を向く。
───魔法使いと呼ばないでくれ。
まるで予想外の言葉に、子はぱちぱちと大きな目を瞬かせる。けれども魔法使いーシィズは満足したように微笑んだ。
「魔法使いと呼ばれるのは好きじゃないんだ。都合のいい頼み事するための道具みたいでさ」
嫌味を言って頭を搔く。その姿に子は幼いながらに彼がヒトを嫌う理由を垣間見た。面倒事ばかりなのだろうが、仕方ないとも思える。魔法は誰にでも使えるものではない。すがりたい気持ちはここにやってきた時点で子にも確かにあったのだ。
「じゃあ、僕のことも名前で呼んでください」
そう言って、ふわりと笑う。さっきまでの涙はどこへ行ったのか。優しい笑顔にシィズは驚いた。その顔は慈愛を含み、子供が浮かべるそれとは思えない。人生を折り返した者が浮かべるものに似た笑みに、彼はすぐに笑みを返した。
「名は?」
「レグルです」
はっきりとそう答えた子───レグル。ようやく肩書きや見た目だけでの呼び合いは終わりを告げた。ハーブティーを啜るレグルが宙に指で字を書く。どうやら自分の名前の綴りのようだ。
「名前を書くのはやめときな、つけられちゃうから」
そっと手を下げさせて、残り少ないハーブティーを取り上げる。どこからか紙を引っ張り出し、レグルの前に椅子を寄せて腰を下ろす。ここからが本題だ。
「本題に入ろうか。助けて欲しいって、なに?」
紙に手をかざせば、それだけで文字が浮き上がる。黄ばんだような紙には焦げ茶の文字がサラサラと書き上がり、紙の上を埋め尽くしていく。
それが何を書いているのかレグルには見えなかった。けれども見せる気がないように紙の前方上から手をかざしているのだから、覗いてはいけないものなのかもしれない。
「雨が、降らなくて……雨乞いの儀式をしてるけど、降る感じもしなくて」
「ふーん、雨か。雨乞いの儀式っていうのは?」
つらつらと問いかけるシィズにレグルは突っかかりながらも懸命に答える。子供の知っていることなんて、事実の一端に過ぎない。それでも彼の話す雨乞いの儀式は過酷なものだった。
年端のいかない子供数人で雨の降らない地域をねり歩かせるそれは、それだけならば大したことの無いように聞こえるだろう。けれど靴を履かせず、粗悪な布で出来た簡素なワンピース似た服を着せ、寝ることも許さず歩かせるとなれば別だ。もはや一種の拷問であるそれは、レグルの来た地域に古くから伝わる雨乞いの儀式のようで、今日で4日になるという。話しながら泣き出したレグルは何度も何度も助けを求める。それがあの儀式に幸か不幸か選ばれなかった彼にできる唯一のことなのだろう。
「なるほどね。雨が降れば全て解決するのにその兆しもない、と」
「雨乞いの儀式なんてもう何年もやってないっていうのは聞いたんだ。もし、もしなにかやり方が違ったら、弟は、弟は死ぬまでずっと続けなくちゃいけないってことでしょ?」
震える声での訴えはまさに事実。無駄に歩き続け、無意味に死ぬ未来。それは幼い彼にもわかっていたことだ。けれどもきっとその儀式に縋るしかない大人は、そんな事実をわかっていて無視し意識に蓋をしたのだろう。同じ信じるのであればレグルのように魔法使いを信じればよかったというのに。シィズは思考をまとめながら、それでも頭の端でそう嘆いた。
しかし嘆いてもなにも事は進まない。文字がびっしり連なるメモ書きを読み直し、シィズは席を立った。のんびりしている暇はない。
「そうだね。だから行くなら急がないと」
そう言って壁にかけていた亜麻色のローブを手に取る。空気をいっぱい含んで纏ったそれはハーブと鉱石の匂いをつけていて、とてもそのみすぼらしくさえ見える姿には似合わない。物語の中のような黒いローブもとんがり帽子もないけれど、それでもレグルには頼もしく見えた。