振り切るスピード
屋上への階段を駆け上る。
追いかけて来る足音も全て振り切って。
「はっ……」
錆付いた鉄の扉を開ければ、そこには赤い夕焼け空があった。
冷たい風が肺の中に入ってくる。
その冷たさに、心が震えた。
「……どうして」
どうして、追いかけて来るの。
背後に、誰よりもよく知る人の気配があった。
息も絶え絶えに、大きな身体を震わせて、泣きそうな声で「ごめん……」と言う。
謝るなら、最初から来ないで。
喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
この街で一番綺麗な夕焼けが見れる場所。
そこは何の変哲もない高校の屋上だった。
錆付いた鉄の扉には年中錠がかけられていたが、その錠がもう使い物にならないと知る者は少ない。
高校に上がってからは昔のように接せなくなった二人にとって、そこは大切な秘密基地だった。
ずっと傍にいた幼馴染みがいつしか遠い人になった。
よく、ある話だ。
幼稚園の頃からずっと二人は一緒だった。
泣き虫で甘ったれな男の子が、いつしか大人になって遠い存在になっていく。
いつも手を繋いできた頼りない男の子の手が、いつしか男の手になって、他の可愛い女の子の手を包むようになる。
そんなの、どこにでもある話で、悲しいことでも、辛いことでもない。
そう、言い聞かせてきた。
でも。
名前も知らない女の子と、この秘密の屋上でキスをする姿を見たときに、分かってしまった。
本当はそんな、簡単なことではなくて。
心はいつだってぐちゃぐちゃで、傍にいてほしかった。
特別なことなんて何一つ望んでいない。
ただ、昔のように笑いかけてほしかった。
涙で霞んだあのときの光景。
夕焼け空の下の、二人の恋人の姿を振り払うようにして、逃げた。
「……もういいでしょ」
「……」
「あんたには可愛い彼女がいるんだから、」
「………」
「私にだって……」
私にだって、彼氏がいる。
逃げ込んだ場所はとても暖かくて。
こんな、素直じゃない私を可愛いと言ってくれる、優しい人の腕の中。
仄かに香る名前の知らない香水。
汗の匂いしかしない私の首筋を、甘い匂いがすると言って優しく噛んだ人。
幸せだった。
目の裏にいつまでも焼きつく赤い赤い夕焼けをいとも簡単に消し去ってくれた人。
優しい人。
何もかもが満たされる幸せな時間を、手に入れた。
「好きだ」
背後から抱きしめられる。
強い力で。
慣れ親しんだ、とても懐かしい匂いがする。
「ごめん……ごめんな……」
「……」
「好きだ。好きなんだ、ずっと昔から」
「っ……」
「ずっと、甘えてた、いつも傍にいてくれたから、俺、」
振り払え。
振り払え振り払え。
「……あいつとは別れて」
聞いてはいけない。
その先の言葉を聞いてはいけない。
「俺と、付き合おう」
涙がぽろぽろと零れる。
嬉しくて、悲しくて。
何よりも聞きたかった言葉。
ずっと欲しかった言葉。
でも今は、ただただ痛い。
痛くて痛くて、胸を掻き毟りたくなる。
ぎゅっと強く抱きしめられる。
あんなに好きだった匂いも、ずっと夢見ていた腕も。
全部が全部、痛い。
「……無理だよ」
もう無理だよ。
冷たい風が身体を撫でる。
抱きしめられてもちっとも暖かくなれない。
あの、甘い香水の香りがする腕の中でないと、もう駄目なのだ。
「遅いよ……」
もう、遅いのだ。
もう、あの頃には戻れない。
ずっと一緒にはいられない。
今、求めている腕はこの腕じゃない。
「ごめん……」
謝ったのは、一体どちらだったのか。