長年ただ働きした菓子店を解雇されましたが、渡された給金袋の行き先は昔から決まっていたようです——川向こうの粉ひき小屋で、共同の銭箱が待っていました
【蜜を入れすぎた朝】
「あら、今月は少し重いわね」
焼き上がった蜂蜜菓子より先に、ヴィプケ伯母さんの手が給金袋をさらっていった。さすが伯母さん、銅貨の匂いを嗅ぎ分ける鼻だけなら猟犬にも勝てる。店中に蜂蜜と焦がしバターが香っているのに、迷いがない。
「食べさせてやっているのだから、稼ぎは家へ入れなさい」
伯母さんの笑顔は、蜜を煮詰めすぎた鍋に似ている。甘そうなのは上だけで、底はきっちり焦げていた。客のいる店先では「この子の将来のために預かっているの」と言うのに、今日はまだ開店前だから砂糖衣をかける手間すら惜しいらしい。
「はい、ヴィプケ伯母さん」
ファビエンヌは袋を渡したままの形で残った掌を、前掛けで拭いた。銅貨の感触はもうない。代わりに、昨日こぼした小麦粉が指の腹へ白くついた。
「返事だけはいいのよね。ザント親方も、いずれこの店を任せるつもりだから置いてくださっているんでしょう? その日まで、家へきちんと入れてちょうだい」
「釣り銭が足りなくなります。そこを退いてください」
「まあ。朝から愛想のないこと」
愛想で釣り銭が増えるなら、樽いっぱい笑ってみせるとも。増えないので、ファビエンヌは伯母の肘の脇から銅貨箱を引き寄せ、昨日の売上と数を合わせた。
腰には旧店の鍵が下がっている。メルヒオール・ザントから「なくすな」と持たされた、黒くて重い鍵だ。伯母さんはそれを見るたび、まだ手に入ってもいない店の売上を数える顔をする。生地を寝かせる前から焼き菓子を食べたつもりになるのは、食い意地の張ったファビエンヌでもやらない。
「窯、一段目が熱すぎます」
奥へ声を投げると、白い眉の下からメルヒオールが睨んだ。ザント親方の機嫌は、砂糖なしの黒パンより硬い。
「薪を一本抜け。言われる前に気づけ」
「気づいたから言いました」
「口の減らん帳場係だ」
けれど親方は薪を抜き、ファビエンヌは帳簿を閉じて天板を入れ替えた。蜂蜜菓子の端がきつね色になるころには釣り銭が揃い、注文札が焼き上がり順に並び、開店の掛け札も表を向いている。
伯母さんは、いちばん形のよい菓子を紙へ包んでいた。
「これは家の朝食にするわ。あなたの勤め先なんだから、ひとつくらい構わないでしょう」
ひとつ。昨日もひとつ、一昨日は来客用に三つ。伯母さんの算術では、蜜菓子は摘めばまた生える野草なのだ。
「代金は給金から引いておきます」
「まあ、家族なのに細かいこと」
その給金袋はいま、伯母さんの手提げの底で満足げに鳴った。ファビエンヌは聞こえなかったことにして窯を開ける。朝いちばんの蜂蜜菓子は、憎らしいほど上手に焼けていた。
* * *
【川向こうの粉袋】
昼前、裏口の敷石が二度鳴り、大きな粉袋がぬっと店へ入ってきた。その後ろからトビンの肩が現れる。順番がおかしい気もするが、彼は昔から口より粉が先だった。
「粉、二袋」
「注文は一袋半です」
「半袋は試しだ。代金はいらない」
「無料ほど帳簿を困らせるものはありません。一袋分と、半袋分。分けて請求してください」
「細かいな」
「帳場係ですから」
二人はたいへん他人行儀に話した。幼いころ川辺で泥団子を焼き菓子だと言い張った仲だとは、粉一粒ぶんも匂わせない。あのとき試食役を押しつけられた恨みは、まだ帳簿の欄外に残っている。泥は泥だった。
トビンが袋の口を開くと、淡い粉がふわりと立った。ファビエンヌはひとつまみ指へ取り、舌先で確かめる。
「挽きが細かくなりましたね。水気も少ない。石臼を替えました?」
「削り直した。軸も」
「川向こうの古い粉ひき小屋で?」
「屋根も半分直した」
短い返事のくせに、たいしたことを平然と混ぜる。トビンの右手には新しい擦り傷があり、爪の間へ木屑が入り込んでいた。粉を売った稼ぎと、朝に焼いている固パンの売上を、あの傾いた小屋へ食べさせているらしい。小屋ばかり肥えてどうする。いや、直るなら肥えろ。ついでに窯も育て。
「雨漏りは?」
「売り台の上は止めた」
「寝る場所は」
「まだ落ちる」
「順番が逆です」
「粉は濡らせない」
本人は濡れてもよいらしい。相変わらず人間より小麦を上等に扱う男である。ファビエンヌが眉を寄せると、トビンは視線を粉袋へ落とし、袋の口をやけに丁寧に畳んだ。
「試しの半袋で何を焼く」
「まだ決めていません。売れるものです」
「甘いものか」
「ここは菓子店です」
「そうだったな」
何が「そうだったな」だ。魚屋へ粉を担ぎ込んだ顔でもしてみろ、粉袋ごと川へ返してやる。
奥で木べらが天板を叩いた。メルヒオールがこちらを見ている。目だけで粉の質も、トビンの傷も、ファビエンヌがいつもより半呼吸早く返事をしたことも数え終えた顔だった。
「ザント親方、試し粉です。値段は通常の半額で」
「勝手に決めるな」
「では通常どおりで」
「高い。三割引け」
「二割」
トビンが即座に返し、メルヒオールの片眉が上がった。ファビエンヌは帳簿へ二割引きと書く。親方は鼻を鳴らしたが、粉袋を指で押してから何も言わなかった。
「次は明日だ」
トビンはファビエンヌではなくメルヒオールへ告げた。
「遅れるな」
「遅れない」
裏口が閉まったあと、床に白い足跡が二つ残った。ファビエンヌは箒を取り、片方だけ消して、もう片方も結局消した。客商売である。思い出を床へ保存する業種ではない。
* * *
【冷たい暇】
その日の午後、店先にはヴィプケ伯母さんがいた。親方へ愛想よく蜜菓子を勧められ、将来この店を継いだら客間の壁紙を替えたい、などと、まだ自分のものでもない壁の皮を剥いでいる。
メルヒオールが窯から天板を出した。蜂蜜菓子の一列だけが、黒かった。
ファビエンヌの指が注文札の上で止まる。ザント親方は七十を越えているが、蜂蜜を焦がしたことなど一度もない。雨の日も熱のある日も、蜜の泡が二度大きくなったところで火から外す。なのに今日は、端ではなく芯まで焦げていた。
「ファビエンヌ」
呼び方が硬い。焼きすぎた飴を床へ落とした音だ。
「はい、ザント親方」
「役に立たん帳場係は今日限りだ」
ヴィプケ伯母さんが、口へ運びかけた菓子を止めた。親方は焦げた天板を台へ置き、ファビエンヌではなく帳簿を睨んでいる。
「今日限り、とは?」
「言葉どおりだ。明日一日で残りを片づけろ。それから出ていけ」
「ちょっと、お待ちくださいな」
伯母さんが立ち上がった。ファビエンヌをかばう位置ではない。帳場と親方の間、つまり店の行く末を遮る位置である。
「この子はいずれ、こちらを継がせていただけるお話では? 長年、安いお給金でも我慢して働かせてきましたのよ」
我慢したのは私である。しかも安いか高いか確かめる前に、袋ごと持っていく人が言うと、厚焼きの皮くらい説得力がある。
「継がせん」
メルヒオールの返事は短かった。
「帳場も焼き場も半端だ。店を渡せば三月で焦げる」
「では、退職のお金は? 長く勤めた分が何かございますでしょう」
「ない」
伯母さんの声から蜜が消えた。
「ファビエンヌ。あなた、何かしたの」
「注文数を間違えたのかもしれません」
「かもしれない、ではないでしょう。親方にお詫びなさい。店を継げないなんて、家の予定が——」
「焦げたものは売り物にならん」
メルヒオールが黒い蜂蜜菓子を木べらで剥がした。ひとつだけ、台から滑ってファビエンヌの前へ来る。
焦げた蜜は苦く、それでも中央に少しだけ甘い匂いを隠していた。ファビエンヌは理由を尋ねず、清潔な布を広げる。黒い菓子を一枚ずつ重ね、崩れないよう包んだ。
「何をしている」
「廃棄です。食べ物を裸で捨てるのは嫌なので」
「勝手にしろ」
親方はようやく顔を上げた。いつもの焦げ茶色の目が、今日は窯の扉より固く閉じている。
「焼き上がるまでは、笑うな」
「仕事中に笑ったことはありません」
「口答えだけは一人前だ」
それで話は終わった。ヴィプケ伯母さんはまだ退職金の有無を問い続け、メルヒオールは二度と答えない。
ファビエンヌは包みを前掛けの奥へしまった。泣くなら焼き上がってからにしたい。塩水が混ざって生地の配合を変えるなど、菓子店勤め最後の失敗としては不本意すぎる。
* * *
【笑わない最後の仕込み】
翌朝、ヴィプケ伯母さんはファビエンヌより早く店へ来た。働くためではない。働かないことに関して、伯母さんは夜明け前から働き者だった。
「本当に何もいただいていないのね」
「昨日、目の前で聞いたでしょう」
「親方があなたにだけ、こっそり渡すかもしれないじゃない。前掛けを見せなさい」
命令と同時に、伯母さんの指が前掛けの隠しへ入った。出てきたのは糸巻き、蜜蝋の欠片、短い鉛筆、焦げた蜂蜜菓子の包み。伯母さんは包みを押して顔をしかめた。
「こんなものを隠して。お金は?」
「菓子が銅貨を産むまで温めているところです」
「ふざけないで」
「では棚をご覧になります? 上から二段目は胡椒です」
伯母さんは本当に棚まで探った。そして胡椒の壺を開け、盛大にくしゃみをした。欲深さにもたまには香辛料が必要らしい。ファビエンヌは笑わず、冷めた水を差し出した。
昼にはトビンが粉を届けに来た。昨日より小さな袋で、きっちり注文どおり一袋半。ファビエンヌは目方を量り、帳簿へ記し、彼の顔を見ないまま受領札を差し出す。
「ブラムさん」
「何でしょう、ヴィプケさん」
伯母さんの声に、トビンまで余所行きになった。これはこれで面白い。トビンの丁寧語は、丸太へ薄い糖衣を塗ったように馴染まない。
「あなた、うちのファビエンヌと親しいの?」
「粉を買ってもらっています」
「それだけ?」
「代金も受け取っています」
「そういうことを聞いているのではなくてね。この子、今日で店を辞めるのよ。何か聞いていないかしら」
「粉の注文なら、聞いています」
トビンはファビエンヌへ受領札を返した。指先が触れそうになり、触れない。彼の左袖には白い粉、右袖には木の削り屑。川向こうの小屋は今日も腹を空かせ、彼の稼ぎと睡眠をむしゃむしゃ食べているらしい。
「次の注文はありません」
ファビエンヌが言うと、トビンの指が札の端で止まった。
「ここからは、ないな」
「ええ。ここからは」
「では、今日の分を」
「確かに受け取りました」
ヴィプケ伯母さんが二人の顔を交互に見た。けれどトビンは粉袋を積み、ファビエンヌは帳簿へ視線を落とす。親しさなど小麦一粒もこぼさない。掃除の手間が増えるから。
最後の仕込みは、試し粉で作る薄焼きの胡桃菓子にした。水はいつもより一匙少なく、蜜は火から外して三呼吸。生地を同じ厚さへ延ばし、縁が色づいた順に天板の向きを変える。
メルヒオールは何も教えず、何も褒めなかった。ただ、ファビエンヌが窯の前を離れると薪を一本足し、戻れば背を向ける。たいへん自然だ。山羊が二本足で会計するくらい自然である。
胡桃菓子は一枚も割れず、一枚も焦げなかった。ファビエンヌは朝からの注文をすべて包み、客の名を書き、釣り銭を合わせる。最後だから特別に丁寧にしたのではない。いつもどおりだ。いつもどおりを最後までやり切るのが、いちばん腹の立つ置き土産になる。
「終わりました、ザント親方」
「床に粉が残っている」
「トビンの靴跡です」
「おまえが消せ」
「はい」
箒を持つ手は震えなかった。白い足跡は、今度こそ跡形もなく消えた。
* * *
【返す店の鍵】
閉店前の店には、残りの菓子を買う客が二人いた。ファビエンヌはいつものように包み、いつものように銅貨を受け取り、いつもの場所へ納める。今日だけ銅貨が重い顔をしてくれるわけではない。貨幣は薄情で、公平だ。
最後の客が扉へ向かうころ、ファビエンヌは腰の紐をほどいた。黒い鍵が掌へ落ちる。何年も提げていたせいで、金属の角は丸くなり、紐だけが新しく替えられていた。
「ザント親方」
メルヒオールは焼き台を拭いていた。顔を上げない。
「店の鍵を、お返しします」
「台へ置け」
ファビエンヌは置かなかった。親方の前まで行き、閉じたままの手を待つ。やがてメルヒオールが布を脇へ置き、ごつごつした掌を出した。
鍵が、ファビエンヌの指から親方の掌へ移る。金属が皮膚を擦る、かすかな音がした。ずっと将来の形をしていたものが、ただの古い鍵へ戻った。
「これで、私はもう店へ入れません」
「役に立たん者を入れる店はない」
客がまだ扉のそばにいる。メルヒオールは鍵を握り、顔を上げなかった。白い眉の下は見えない。
「ちょっと、ファビエンヌ。早くなさい」
ヴィプケ伯母さんは外套を着て、店の入口に立っていた。荷物を持つ気はないらしく、ファビエンヌの小さな鞄を足先で扉の外へ押す。
「家へ戻るのでしょう。今後どうするか、帰ってすぐ話し合いますよ」
「戻りません」
「何ですって?」
「店を継げず、給金もなくなった私を、食べさせてくださるのですか」
伯母さんの口が一度開き、閉じた。答えは焼き上がりを待つまでもない。
「こちらだって余裕はないのよ。働き口が決まったら知らせなさい。家へ入れる分は、今までどおり——」
「次の給金はありません」
伯母さんはファビエンヌではなく、メルヒオールを見た。親方が訂正しないとわかると、外套の襟を直す。
「勝手になさい。恩知らず」
扉が閉まり、伯母さんの靴音は遠ざかった。空の給金袋さえ持たない娘を置き去りにする足は、驚くほど軽い。蜜の鍋は底まで焦げると、洗うより捨てるほうが早いのだ。
メルヒオールは客の包みを整えたまま、呼び止めなかった。ファビエンヌも追わない。伯母さんの背へ投げる言葉など、胡桃菓子一枚より腹の足しにならない。
「出ます」
「そうしろ」
ファビエンヌは鞄を拾い、店の外へ出た。背後で、メルヒオールが扉を閉める。返した鍵が錠の中で回り、長年働いた菓子店は、きっぱりファビエンヌを締め出した。
* * *
【最後の給金袋】
夕暮れの通りへ三歩進んだところで、裏口の閂が鳴った。
「いつまで表で突っ立っている。冷めるぞ」
ファビエンヌは振り返った。細く開いた裏口から、メルヒオールの白い眉だけが見える。
「追い出された者が裏口から入るのは、泥棒では?」
「うるさい。早く入れ」
店内には客もヴィプケ伯母さんもいなかった。陳列台は空で、火を落とした窯が赤い息を残している。メルヒオールは帳場の奥へ回ると、引き出しから布の袋を出した。
いつもの給金袋だった。けれど差し出す手が違う。片手で台へ放るのではなく、メルヒオールは両手で持ち、ファビエンヌの前へ差し出した。
「最後の給金だ。受け取れ」
ファビエンヌは両手を出した。袋の重みが掌へ落ちても、横からさらう指は来ない。
「ヴィプケ伯母さんには、退職金はないと」
「退職金ではない。おまえが働いた分だ」
「ですが、いつもは——」
「あの女が待っていたから、渡す日を選べなかった。それだけだ」
店主の顔に刻まれていた硬い皺が、ようやくほどけた。窯の焦げを叱る顔ではない。焼き上がりを教えるとき、背後から手を出さず、失敗する半歩前まで見守っていた師の顔だった。
「表で切らねば、あの女は次の勤め先まで嗅ぎ回る。店を継ぐと思わせたままでは、おまえの稼ぎを死ぬまで自分の銭箱へ入れる気だったぞ」
「ずいぶん嫌われる言い方を選びましたね」
「半端な焦げ方では売り物になる」
ファビエンヌは前掛けの奥から布包みを出した。結び目をほどくと、黒い蜂蜜菓子が現れる。芯まで焦げ、端には木べらの跡がついていた。
「ザント親方がこれを焦がすなんて、芝居でなければ困ります」
メルヒオールの眉間が深くなった。
「気づいていたのか」
「蜜を火へかけたまま、伯母さんが来る時刻を二度も確認していました。しかも焦げた一枚だけ、私の前へ滑らせたでしょう」
「捨て損ねただけだ」
「では試食をどうぞ」
「炭を食わせる気か」
ファビエンヌは黒い菓子を親方の口元へ寄せた。メルヒオールは顔を背ける。たいへんわかりやすい。有罪。蜂蜜を一瓶まるごとかけても覆らない。
「どうして問いたださなかった」
「ザント親方が一度しか出さない合図を、私が大声で値切る必要はありません」
それに、あの場で真意を尋ねれば、伯母さんは鍋底へ爪を立ててでも甘みを探しただろう。だから最後の仕込みを終え、鍵を返し、扉が閉まるところまで待った。
「笑っていませんよ」
「見ればわかる。ひどい顔だ」
「解雇されたばかりですので」
「なら、さっさと川向こうへ行け。あいつが窯の前を三十六回も往復している」
「数えたのですか」
「粉屋の床が抜ける前にな」
メルヒオールは顎で裏口を示した。照れ隠しまで焦げ臭い。ファビエンヌは給金袋を胸へ抱え、今度こそ自分の足で店を出た。
* * *
【粉だらけの笑い声】
川向こうの古い粉ひき小屋には、新しい扉がついていた。壁は古く、屋根の色も継ぎはぎだが、入口脇の小さな売り台は磨かれ、窓から窯の火が見える。粉袋の山にしか見えなかった夢が、建物のふりをして待っていた。
扉を叩く前に、内側から開いた。トビンが立っている。髪にも肩にも粉をかぶり、緊張まで白くなっていた。
「遅かった」
「解雇された当日に急かす人がいます?」
「窯を温めた」
「それは急ぎますね」
中へ入ると、石臼が低く回っていた。壁際には作業台、奥には新しく塗り直した窯、窓辺には小さな銭箱。費用を数えるより、トビンの手を見れば足りた。傷が増え、指先の皮が硬くなり、爪の木屑だけは洗い落とされている。
壁の釘には、前掛けが二枚並んでいた。一枚はトビンに合う大きさ。もう一枚は、ファビエンヌの腰に合うよう紐が短く縫われている。
「これは?」
「前掛けだ」
「見ればわかります。なぜ二枚?」
「二人いる」
「誰と誰が?」
トビンは黙って作業台の引き出しを開けた。中から小さな鍵を取り出し、ファビエンヌの前へ来る。粉だらけの掌が開き、新しい銀色の鍵が載っていた。
「旧い鍵は返したんだろ」
「ええ。もう入れません」
「なら、こっちの店の鍵を持て」
ファビエンヌが手を出すと、トビンは鍵をその掌へ置いた。金属は窯のそばにあったせいか、少し温かい。
「俺が粉を挽く。パンも焼く。おまえが勘定をして、菓子を焼く」
そこで言葉が切れた。トビンは粉袋なら軽々担ぐくせに、次の一言だけは石臼より重そうに持ち上げる。
「一緒に店をやる」
ファビエンヌは鍵を握った。腰から失われた重みが、今度は掌へ収まる。渡された居場所ではない。トビンが粉を売り、屋根を直し、眠る場所より先に売り台を守って作った場所。その半分へ、ファビエンヌの帳簿と菓子を並べるのだ。
「私でいいのですか」
「おまえがいい」
トビンは窓辺の銭箱を持ってきた。蓋を開けると、中には彼が貯めた銅貨が入っている。もう一つ空の箱を出すのかと思えば、彼はその箱だけを作業台の中央へ置いた。
「銭箱は一つでいい」
店を一軒こしらえておいて、告白が「銭箱は一つでいい」なの? パンの発酵より遅い人だ。しかも「好きだ」の代わりに共同会計を差し出してくるあたり、相手が帳場係で本当によかった。普通の娘なら粉袋で殴っている。
ファビエンヌは胸に抱えていた最後の給金袋をほどいた。銅貨が自分の掌へ流れ出る。朝ごと伯母さんの手提げへ消え、数えることすら許されなかった、自分で働いた音だった。
「これは私の給金です」
「ああ」
「私の菓子と帳場の持分として、ここへ入れます」
「ああ」
「家へ送れと言われても送りません」
「送らなくていい」
銅貨を共同の銭箱へ入れた。乾いた音がいくつも重なり、トビンの銅貨と混ざる。どちらがどちらの稼ぎか、もう見分けはつかない。それでいい。奪われたのではない。ファビエンヌが、自分で選んで入れた。
「では共同店主ですね」
「そうだ」
「寝る場所の雨漏りは」
「明日直す」
「今日直してください」
「窯が先だ」
「私より粉を濡らしたくないのですね?」
「おまえも濡らさない」
不意打ちが過ぎる。そんな短い言葉で蜜を鍋ごと投げ込むのは反則だ。ファビエンヌは口元を押さえたが、胸の奥で何かがぷくりと膨らみ、もう蓋では押さえきれない。
そのとき扉が開き、メルヒオールが焼き菓子の籠を抱えて入ってきた。息を切らしているのに、顔だけは不機嫌を焼き固めている。
「銭箱へ入れたか」
「見ていたのですか、ザント親方」
「窓に二つ影があった。いつまで突っ立っている。明日の仕込みを始めろ」
「今日は解雇された日ですよ」
「こっちの店では初日だ」
トビンが二枚の前掛けを釘から外した。片方を自分で締め、もう片方をファビエンヌへ差し出す。新しい布から、小麦と石鹸の匂いがした。
メルヒオールは籠を作業台へ置き、黒い蜂蜜菓子の包みを見つけた。苦い顔でそれを籠の底へ押し込む。
「焼き上がるまでは、笑うな」
ファビエンヌはトビンを見た。粉だらけの髪。固く結ばれた前掛け。ひとつの銭箱。掌の新しい鍵。親方は焦げた菓子を隠したつもりで、籠から黒い端を盛大にはみ出させている。
もう隠さなくていい。
「あはっ」
声がこぼれた。止めようとしたら、余計に大きくなった。トビンの白い眉毛みたいな粉、親方の焦げ菓子、伯母さんの手が届かない銭箱、全部が一度におかしくて、腹が痛い。
トビンがつられて口元を崩した。メルヒオールは「売り物にならん笑い方だ」と吐き捨て、それから肩を揺らした。
笑いすぎて膝が折れた。粉まみれの床は、案外、座り心地がよかった。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




