第六話:ラクーメルの祭り
第一章:絶望の運命と激動の協奏曲
「まずは山に果実を取りに行くの。その後は、祭りのメインになる踊りの練習ね! あ、踊るのは私だから安心して。ルーシェは……まだ怪我が治ったばかりだし、少し手伝ってくれるだけでいいから」
コルネは悪戯っぽく笑うと、繋いだままのルーシェの手をぐいと引き、家の扉を開けた。外に出た瞬間、澄み切った空気と、むせ返るような緑の匂いがルーシェの肺を満たす。
山間の村、ラクーメル。そこは、ルーシェが今まで見てきたどの街とも違う、穏やかな時間が流れる場所だった。
美しい緑に囲まれ、等間隔に並ぶ素朴な木造の家屋。村の中心を流れる小川は陽光を浴びてきらきらと輝き、そのほとりでは大きな水車がのんびりと回っている。
畑仕事に精を出す青年、道の脇で元気に駆け回る子供たち、井戸端で談笑する婦人たち。
そこにいる誰もが、悪魔族の証である一本角を生やし、少しだけ尖った耳をしていたが、それ以外は人間と何ら変わりない。むしろ、彼らの表情には、人間領土で見てきたような警戒心や疑念といったものは一切なく、ただただ穏やかな空気が満ちていた。
「お、コルネ。今から果実の収穫かい? そっちの男さんは、目を覚ましたんだな」
畑を耕していた青年が、汗を拭いながら気さくに声をかけてくる。
「そうよ、ムニルさん! 甘い果実をたーくさん用意して、特製のジャムにするから楽しみにしててね!」
「そいつは楽しみだ。仕事にも精が出るってもんだ。なぁ……えーと」
青年の視線が、自分に向けられる。ルーシェは少し戸惑いながらも、軽く頭を下げた。
「ルーシェと言います。よろしくお願いします」
「おう、ルーシェ! いい名前だな! しっかりコルネを守ってやんなよ」
ムニルはニカッと白い歯を見せて笑うと、再び鍬を振るい始めた。
「ルーシェっていうのか! コルネ姉ちゃんに手ェ出したら、俺が許さないからな!」
今度は、近くで遊んでいた子供たちの一人が、小さな胸を張ってルーシェに言い放った。
「はいはい、シッポ。冗談はその辺にして、そろそろお家のお手伝いの時間でしょ?」
コルネが母親のような口調で言うと、シッポと呼ばれた少年は「やっべ!」と慌てた様子を見せる。
「母ちゃんに怒られちまう! ルーシェ、さっき言ったことは本気だからなー! コルネ姉ちゃんとは、将来俺が結婚するんだからな!」
そう叫びながら、少年は仲間たちと共に賑やかに去っていった。
その光景を、ルーシェはどこか眩しいものを見るような気持ちで眺めていた。権力争い、国同士の牽制、そして血で血を洗う裏切り。そんな世界しか知らなかった彼にとって、この村に流れる穏やかな時間は、まさに「平和」そのものだった。
「……素敵な村だな」ルーシェは、ぽつりと呟いた。
「俺がいた人間領土は、いつもどこかで争いや小競り合いが絶えなかった。それに……人間は、悪魔を理由もなく嫌っていた。邪悪の象徴として……。なんでだろうな。大陸が分断されてから、悪魔を見たことのある人間なんて、ほとんどいないはずなのに……」
復讐の炎が消えたわけではない。だが、この村の空気に触れていると、かつて自分がいた世界の歪さが、より一層際立って感じられた。
少しだけ暗い表情になったルーシェのおでこに、コルネが「えいっ」と指で軽くデコピンをした。
「表情、暗いよ」
彼女は悪戯っぽく笑うと、ゆっくりと山道の方へ歩きながら続けた。
「悪魔領土はね、千二百年前の大戦に敗れてから、国も統治者もいなくなっちゃったって聞いてる。生き残った悪魔の子孫たちが、こうして小さな村をいくつも作って、静かに暮らすだけの時間をずっと過ごしてきたんだって」
「だから、今の悪魔たちは人間のことをほとんど知らないし、昔みたいに戦う力も持ってない。でも、それで穏やかな日々が過ごせているんだから、争うよりも何倍も、その方が幸せだ、って……おじいちゃんがよく言ってた」
その言葉は、ジャイムの、そしてこの村に住む悪魔たちの総意なのだろう。
ルーシェは、繋がれたままのコルネの手を、ぎゅっと握り返した。
「……素敵な考え方だな」
そう言って、彼は心からの優しい笑みを浮かべた。
しばらく山道を登ると、コルネが「着いた! ここよ!」と声を弾ませた。
視界が開け、そこに広がっていたのは、山の斜面を利用した広大な果樹園のような場所だった。様々な木々には、真っ赤に熟した美味しそうな実がたくさんぶら下がっている。風に乗って運ばれてくる、蜜のように甘い香りも心地がいい。
「『リモの実』っていうの。ほどよい酸味と甘みが絶妙でね、果肉をそのまま食べても美味しいし、すり潰してジャムにしても絶品なのよ!」
コルネが両手を広げ、自慢げに語る。
「これは……本当に美味しそうだ」
見ているだけで、唾が湧いてくる。コルネは近くの木から実を一つ軽やかにもぎ取ると、「ほいっ」とルーシェに投げ渡した。
「食べてみるといいよ。美味しいよー!」
ルーシェはそれを受け取ると、ひと口かじりついた。
サクッとした食感と共に、絶妙な酸味が鼻を抜け、芳醇な蜜のような甘みが口いっぱいに広がる。
「美味しい……! これほどの果実が、この世にあったなんて……!」
思わず目を見開くルーシェに、コルネは満足そうに笑った。
「でしょ? この籠いっぱいに持って帰るから、祭りの時には色んな料理で味わえるよ!」
二人はしばらくの間、夢中になってリモの実を収穫し、大きな籠がいっぱいになると、来た道を戻って山を下りた。収穫した実は村の料理担当の婦人たちに預け、休む間もなく、祭りのメインだという踊りの練習場所へと向かう。
村の広場のような場所に、一人の青年が座っていた。リュートに似た弦楽器を携え、軽やかで美しい旋律を奏でている。
「お、来たか、村一番の踊り手! っと、そっちが例の?」
青年は楽器を弾くのを止め、快活な笑みでコルネに声をかけた。
「アーク、少し遅れちゃってごめんね」
コルネが顔の前で両手を合わせ、ごめんね、というジェスチャーをする。
「ルーシェと言います。素晴らしい音色ですね」
「お、この曲の良さがわかるのか! 見所あるなー、アンタ! 俺がこの日のために作った、オリジナルの舞踏曲なんだぜ!」
アークと名乗った青年は、屈託のない笑顔で自慢げに胸を張った。
コルネは、アークの傍らに置いてあった、美しい装飾が施された儀礼用の剣を手に取ると、「見ててね」とルーシェに微笑みかけ、広場の中央へと移動する。
「よーし、そんじゃ、始めっか!」
アークの一言を合図に、再び音楽が奏でられる。どこか情熱的な、フラメンコを思わせる激しいリズムと旋律。それに合わせて、剣を手にしたコルネが、しなやかに、そして軽やかに舞い始める。
流れるような美しい所作、鍛えられた体幹から生み出されるキレのある動き、そして、音の一つ一つを完璧に捉えた、見る者を魅了する振り付け。
祭りのメインと言われるだけのことはある。その神々しくも美しい舞に、ルーシェは完全に目を奪われていた。
「夕刻にはみんなも仕事を切り上げる。そこからが祭りの本番だ。きっちり仕上げるぜ、コルネ!」
「うん!」
情熱的に楽器を掻き鳴らすアークと、それに合わせて舞い踊るコルネ。
二人を見守りながら、ルーシェは、復讐という名の呪縛から解き放たれた、ひと時の平和に心を安らげていた。この穏やかな時間が、どうか永遠に続けばいい。今はただ、そう願うばかりだった。
第七話:『平穏と争い』に続く。




