第五話:山間の村・ラクーメル
第一章:絶望の運命と激動の協奏曲
「ヤメロォォオオ! ギルシェ、どうして国を、父を……ウワァァァァアア!!」
悪夢だった。燃え盛る城、血の海に沈む父王、冷たい笑みを浮かべる兄、そして、自らの喉を掻き切った愛しい婚約者――。
絶望の光景が、脳裏で何度も何度も再生される。
うなされるような叫び声を上げ、ルーシェは勢いよく上半身を跳ね起こした。
「きゃっ!!」
すぐ傍らで、少女の小さな悲鳴が上がる。ガシャン、と陶器が砕ける乾いた音が響き、温かいスープの匂いがふわりと漂った。
「はぁ、はぁ、はぁ……あう、あ……」
激しく波打つ心臓。ズキズキと痛む頭を片手で押さえながら、ルーシェはゆっくりと目を開いた。視界が、徐々に焦点を結んでいく。
見慣れない、小さな木造の部屋。自分が横たわっていたのは、簡素だが清潔なベッドの上だった。開け放たれた窓からは、柔らかな陽光と、小鳥のさえずり、そして木々の葉が風に揺れる音が優しく流れ込んでくる。
「目が……目が覚めたのね! よかった……。待ってて、すぐにおじいちゃんを呼んでくるから!」
見知らぬ少女が、安堵の表情を浮かべると、ぱたぱたと軽い足音を立てて部屋の奥へと走り去っていった。
「……どう、なってる? 俺は確か、城で……」
途切れ途切れの記憶の糸を手繰り寄せる。そうだ、俺は悪魔の力を得て、ギルシェに復讐を……そして、ディビラと名乗る男と戦い、最後は光の匣に閉じ込められて……。
そこで、ルーシェは自身の身体に起きた変化に気づいた。
「腕が……人間の腕に戻ってる……。背中の羽もない。角も……」
視界に入った自らの腕は、間違いなく人間のものだった。恐る恐る手を背中に回しても、翼が生えていた感触はなく、頭を触っても、そこにあるのはただ銀色の髪だけだった。
「どういうことだ……」
混乱しながらベッドから立ち上がろうとした、その時。
「待て、まだ動いてはならん」
扉の奥から、しわがれた、しかし芯のある声が飛んできた。
「あなた、一週間も目を覚まさなかったのよ! 全身ひどい怪我だったんだから!」
先ほどの少女が、慌ててルーシェの隣に戻ってきて声を上げた。
「け、怪我……」
言われてみれば、自分の身体には、胸や腹、手足に至るまで、治療の痕跡である包帯が幾重にも巻かれていた。だが、不思議と痛みはほとんど感じない。
「わしが調合した秘伝の薬草じゃ。ほとんどの傷は癒えておるじゃろうが、まだすぐに動くべきではない」
声の主が、ゆっくりと部屋に入ってきた。フードを深く被り、節くれだった木製の杖を手にした、腰の曲がった老人。その隣には、先ほどの少女が心配そうにこちらを覗き込んでいる。陽光を浴びてきらきらと輝く、美しい桜色の髪を後ろで一つに結んでいた。
「一週間も……。ここは、ここはどこなんだ! 俺はどうしてここに!? ギルシェは! 黒キ仮面の奴らはどうなった!」
ルーシェは取り乱し、老人に詰め寄ろうとする。
「落ち着くんじゃ」
老人の持つ杖が、トン、と軽くルーシェの肩を叩いた。不思議なことに、それだけで荒れ狂っていた感情が少しだけ凪いでいく。
「そうだ、俺の姿は……!?」言いかけて、ふと部屋の隅に置かれた姿見に映る自分を見て、ルーシェは息を呑んだ。
そこに映っていたのは、三本の角を持つ異形の悪魔ではない。全てを失う前の、メルスキア第二皇子だった頃の、ただの人間の姿に戻っていた。
静まり返ったルーシェに、少女がおずおずと口を開いた。
「あのね……ここは、南の大陸。南の大陸の山間の小さな村、ラクーメルの村よ」
「南……の……大陸……。あく……悪魔領土……」
ルーシェの口から漏れた言葉に、少女は慌てて言葉を繕った。
「で、でも、悪魔領だからって、おじいちゃんも村の誰も、人を傷つけたりなんかしないから……!」
「左様」老人が、少女の言葉を引き継ぐ。
「お主は一週間前、この近くの山の中で、血まみれになって倒れておった。それをこの娘……コルネが見つけて、ここまで運んできたのじゃ」
そう言うと、老人は被っていたフードを静かに外した。
その額からは、一本の短い角が生え、耳は人間よりも長く、鋭く尖っていた。紛れもない、悪魔の姿だった。
「じゃが、人間にとって悪魔は忌むべき存在じゃろう。我々の施しなど受けたくないというのであれば、今すぐ立ち去るがよい。我らはお主を止めはせんし、危害を加えることもない」
老人の言葉に、部屋が静寂に包まれる。コルネが、彼が去っていくのだろうと、どこか寂しそうな表情を浮かべた。
だが、ルーシェはゆっくりとベッドから立ち上がると、老人の前に進み出た。そして、ためらうことなくその場に膝をつき、深く頭を下げた。
「……いえ。見ず知らずの私を助けて頂いたこと、心より感謝いたします。私は、ルーシェ・バーライド・グリシェン。この御恩、何かでお返しさせて頂けませんでしょうか」
その意外な行動に、少女と老人の顔が驚きで和らぐのがわかった。
「……変わった人間じゃな。悪魔に頭を下げる人間など、初めて見たわい」
「悪魔も人間も、そこに命があるのならば、何の違いもありません」
ルーシェは顔を上げ、真っ直ぐに老人の瞳を見つめて答えた。父王が、そしてリナキスが、そう教えてくれた。種族の違いで憎しみ合うことの愚かさを。
老人はしばし黙っていたが、やがてふっと息を漏らし、穏やかに笑った。
「ふふ……。わしは、ほとほとお人好しな人間と縁があるようじゃ」
そう言って、老人はコルネの方をちらりと見た。その視線を受けて、コルネは少しはにかみながら言った。
「私も、人間……なんだ。千二百年前の大戦後、この星が人間領と悪魔領に分断された時、こっちの悪魔領に取り残されちゃった人間の子孫なんだろうって……。私は赤ちゃんの頃にこの村の前に捨てられてたみたいで、詳しいことは何も覚えてないんだけどね」
「この村の住民は、人間だからといって差別などせんよ。むしろ、珍しがって歓迎するじゃろう。……そうじゃ、ルーシェとやら。今宵はちょうど、収穫を祝う恵みの祭がある。お主も行く当てがないのなら、しばらくはこの村にいるといい」
「うん、そうと決まったら、えーと……ルーシェさん! 祭りの準備、手伝ってくれる?」
コルネが、何の躊躇いもなくルーシェの手を握った。その温かさに、復讐心で凍り付いていた心が、少しだけ解けていくような気がした。
「あぁ。もちろんだ。村の人々にも、ご挨拶をさせてもらおう。ありがとうございます。えーと……」
「わしの名前はジャイムという。覚えておいてくれ」
老人が、柔らかな笑顔で答える。
「私のことはコルネって呼んでくれていいからね、ルーシェ!」
少女も屈託なく笑った。
「わかりました。ジャイムさん、コルネ。この御恩は必ず。まずは、精一杯祭りの手伝いをさせてもらいます」
ルーシェが改めて頭を下げると、ジャイムは楽しそうに笑った。
「ふぉっふぉっふぉっ。なんとも、固いやつじゃのう」
南の大陸、悪魔領、山間の村ラクーメル。
憎しみと絶望の果てに辿り着いたこの場所で、ルーシェの、そして世界の運命の歯車が、ゆっくりと動き始めていた。
第六話:『ラクーメルの祭り』に続く。




