第二十話:喰らうもの
第二章:混沌の宿命と想動の変奏曲
『――我――悪魔と人間を、等しく喰らい尽くす存在――』
『――我の名は――』
そして、二つの場所で、同じ言葉が同時に紡がれた。
『「――天魔神葬――」』
告げられたその名が、耳に響いた。
精神の奥深くまで侵食し、魂そのものを支配する根源的な呪詛のような言葉。決して抗うことのできない絶対的な何かに全身を抑えつけられ、その場にいる全ての者は、ただただ恐怖に震えることしかできなかった。
「ガァ……ウ、ガァ……」
先ほどまで獣のように暴れ狂っていたルーシェさえも、その動きを完全に止め、見えざる何かにもがき苦しむように呻いている。
「お……おい……な、ん……だ、よ……これ……」
辛うじて動かせる口で、リンシェンが僅かな声を絞り出す。アークも、ミアムも、そして無機物であるはずのリビングアーマーさえも、苦悶の呻きを漏らすことだけが精一杯だった。
『――我――飢えを満たす――汝らの生を、贄に――』
もう一度、大地そのものから声が響いたその刹那。空間がまるで薄い布のように音もなく裂けた。
その裂け目の向こう側は、何も見えない、光さえ存在しない虚無。そして、その闇の中から、恐ろしくグロテスクで凶悪な牙が無数に生え揃った、醜く巨大な口のようなものがぬるりと姿を現した。
その牙の隙間からは、目の前の贄を待ちきれないとでも言わんばかりに、粘着質の唾液が絶え間なく滴り落ちている。
異形の口は、目の前にいた二体のリビングアーマーを、まるで前菜でも味わうかのように、粉々に噛み砕き、貪り喰い、そして、ごくりと音を立てて飲み込んだ。
「あ……あ……」
声にならない悲鳴を漏らしながら、そのあまりにも恐ろしい威圧感に、ミアムはただ震えることしかできない。彼女の手に持つ聖典から、リビングアーマーが描かれていた二枚のページが、ひとりでに燃え落ちた。
そして、その巨大な口は、次の獲物として、その牙をミアムへと向ける。
「あ……あ、や、やめ……」
それは、あまりにも一瞬の出来事だった。
目の前に迫った、絶対的な畏怖の象徴。異形の口は、その顎を大きく開くと、あっという間にミアムを飲み込んだ。その美しい顔を、恐怖と絶望に歪ませながら、彼女の姿は、闇の中へと消えた。
ゴクリ、と。生々しい嚥下の音が、静まり返った町に響き渡る。
目の前で起きた、あまりにも現実離れした惨状が、リンシェンとアークの恐怖を極限まで高めていた。
「あ、あ、あ……く、喰われる……! 俺、たちも……!」
アークは逃げようとするが、足が鉛のように重く、動かない。動かすことができない。
やがて、異形の口は、震えるアークとリンシェンの前に、ぬるりと姿を現した。牙の隙間からしたたる唾液が彼らの足元を濡らす。
「お、終わりだ……。今度、こそ……」
リンシェンが、絶望に染まった声で呻いた。
その巨大な口が二人をまとめて飲み込まんと大きく迫ってくる。
「グガァアア……! グガァアアアアアアアアアアアッッ!!」
その刹那。ひと際激しい、魂の奥底まで揺さぶるような咆哮が、ルーシェの口から放たれた。
その咆哮が響いた一瞬だけ、二人を縛り付けていた、あの根源的な恐怖が嘘のように消え去った。
動ける――!
瞬時に、アークとリンシェンはその場から飛び退き、回転しながら後方へと移動し、巨大な口からどうにか距離を取った。
「う、動ける! ちっ、どうなってやがんだ、一体!」
リンシェンが、混乱しながら叫んだ。
「わからない……! だが、今の咆哮は……ルーシェのおかげ、なのか?」
アークも、荒い息をつきながら声を上げ、すぐさま楽器を構え、ルーシェへと目を向けた。
「グガァアア……」
ルーシェは、まだ苦しそうに呻いていた。
だが、次の瞬間、その額に血のように赤い単眼が現れ、ギョロリと不気味に光り出す。ビー玉ほどの大きさの、あの妖しく輝く宝石のような目が、まるで生きているかのように、ギョロギョロと目玉を動かしながら、空間全体を見渡し始めた。
そして。
やがて、ルーシェの口から、彼自身の声ではない、別の何者かの声が響き始める。
『――ワレハ……悪魔ノ王。ワガ半身ハ、朽チ果テサセヌ……』
「あ、アイツまで喋りやがった! どうなってんだ、無茶苦茶じゃねえか!」
リンシェンが、その常軌を逸した光景に、声を荒げた。
「……悪魔の王、か。やっぱり、ルーシェは……」
アークもまた、唖然とした表情で、その姿を見守っている。
異形の口は、尚も唾液を滴らせながら、その牙を今度はルーシェへと向け、彼を飲み込まんと迫った。
『――Й〇ΔΓΛ!!』
もはや、この世界の誰にも聞き取ることのできない、太古の言語が悪魔の王の口から響き渡った。同時に、額の単眼が世界を白く染め上げるほどの強烈な閃光を放つ。
空間を揺るがす振動が波紋のように広がり、大地全体が大きく軋んだ。その神々しくも禍々しい光は、大地を縛り付けていた根源的な支配の力を完全に消し去り、あの強烈な違和感を取り払っていく。
光に焼かれた異形の口が、苦しむように身をよじる。
『……我――天魔神葬――。いずれまた――汝らの前に――姿を現そう――』
やがて裂けていた空間はゆっくりと閉じ、何も見えない虚無の闇の中へと、異形の口は消えていった。
ドォォォン、と。ひと際大きな振動が大地を揺らすと、まるで何事もなかったかのように、先ほどまでの惨劇の跡が再び視界に戻ってくる。
未だ燃え盛る家屋、無残に転がる亡骸、激しい戦いの痕跡。
ルーシェは、全ての力を使い果たしたように意識を失い、角も翼もない、元の人間の姿に戻って、地面へと静かに落ちた。
極度の恐怖と緊張の糸がぷつりと切れたアークとリンシェンは、膝から崩れ落ち、荒い息を吐いて、その場に倒れ込む。
いつの間にか、長い夜は明けようとしていた。
暗闇に包まれていた世界に、うっすらと、しかし確かな陽の光が、ゆっくりと差し込み始めていた。
第二十一話:『旅は続く』に続く。




