第一話:絶望と裏切り
第一章:絶望の運命と激動の協奏曲
地と空が、絶え間なく揺れている。
降りしきる豪雨は天蓋を黒く塗りつぶし、時折裂ける稲妻だけが、この世の終わりを告げるかのように城内を白く照らし出した。
不可新暦千二百八年、栄夏の月。大陸西部に覇を唱えた大国メルスキアの王城は、今や混沌の坩堝と化していた。
幾重にも交わる剣戟の音、城壁を砕く爆発、正体不明の獣じみた咆哮。血と硝煙、そして肉の焼ける焦げ付いた鉄の臭いが鼻を突き、堅牢を誇ったはずの城は地獄そのものの光景を映し出している。
「この先を通すわけにはぁぁぁ!」
悲壮な覚悟を込めた騎士の叫びは、無慈悲な風切り音に掻き消された。一瞬の刹那。闇よりも濃い影が振り抜いた剣閃が、分厚い鎧ごと騎士の身体を抉り取る。宙を舞う鮮血が、雨に打たれて意味もなく薄まっていく。
「ぐはぁっ! ……ぐ……王、王の間には行かせ……がはぁ」
事切れた騎士の亡骸を冷たく見下ろし、侵入者は吐き捨てた。
「……剣の国と言われたメルスキアの精鋭部隊がこの程度とは。落ちたものだ」
侵入者――彼らの正体は誰にもわからなかった。
大陸に蔓延る野盗の類ではない。東の大国スクロニア帝国の兵でも、中央部の自治州コーストの関係者でもない。圧倒的な暴力と、明確な殺意だけを持って現れた、謎の集団。
縦横無尽に兵を薙ぎ倒し、彼らは最奥の間の前に立つ。響く轟音。
兵たちの断末魔と共に、王城の中枢たる王の間の巨大な扉が内側へと弾け飛んだ。
砕け散った鉄片と舞い上がる粉塵の向こうから、ゆっくりと三つの影が足を進め、業火に包まれる城内の炎が、その輪郭を妖しく揺らめかせている。
全員が、表情の一切を隠す黒い仮面を被っていた。それは、希望を喰らい、絶望を運ぶ地獄の使者のごとき威圧感を放っている。
「黒い仮面……人間、か」
静寂を破ったのは、この国の主、メルスキア王その人だった。玉座を背に、両手に携えた二振りの大剣を固く握りしめ、三つの影を真正面から見据える。
王の傍らには、手練れの近衛騎士数名、そして二人の王子が剣を構えていた。美しき黒髪をなびかせる第一皇子ギルシェと、父譲りの銀髪を濡らす第二皇子ルーシェ。
王の間の最奥では、豪奢なドレスを纏った一人の少女が唇を噛みしめている。ルーシェの婚約者であるリナキスだ。恐怖に身体は震えながらも、その瞳はまっすぐに前を見据え、決して逸らそうとはしなかった。
「てっきり悪魔の類かと思ったが……」
ルーシェが警戒を解かぬまま呟く。その言葉に、仮面の一つがせせら笑った。
「ふふ……ははははは! 悪魔か。千二百年前の大戦で我ら人間に敗れ、統治者も国も失くした憐れな敗北者などと一緒にはしないでもらおうか」
中心に立つ仮面の男が、芝居がかった仕草で両手を広げる。
「それに……やつらは遥か南の大陸に追いやられ、今や生き残りが隠れるように暮らしているだけのゴミだ」
「最後の足掻きのように、大陸間に巨大な結界を貼ってるのがいけ好かねぇがな」隣にいた別の仮面が、侮蔑を込めて言葉を繋げた。
「……ふん」王は鼻を鳴らし、その巨体を一歩前に進める。
「かの大戦は終わった。我ら人間と悪魔は互いに不可侵の条約を結んで千二百八年。結界による断絶で国交は完全に閉ざされている。……そうだ。この世界で、今なお愚かしく戦火の火種を起こすのは、貴様らのような強欲にまみれた人間だけだ!」
床を蹴る。王が持つ二振りの大剣が、雷鳴を伴って仮面の男たちに襲い掛かった。
「賊めがぁぁ! 剣の国メルスキアが誇る双剣技、その身に刻むがいい!」
「陛下に続け!」
近衛騎士たちもまた、王の背を追うように突撃した。
三つの影は瞬時に飛散する。王の双剣は、狙い違わず中心にいた仮面の男を捉えた。
ガキィィィッ! クロスしながら目にも止まらぬ速さで繰り出される斬撃の嵐。だが、仮面の男は巨大な漆黒の鎌一本で、そのすべてを的確に弾き返していく。火花が散り、甲高い金属音が王の間に響き渡った。
「面白い! 我が漆黒の鎌についてこれるか、王よ!」
「ほざくがよい!」
メルスキア王は尚も手を止めない。回転、跳躍、踏み込み。あらゆる体捌きを駆使し、鋭い剣閃を連続で叩き込んでいく。
対する仮面の男も、まるで舞うように身を翻し、回転しながら鎌の刃と柄頭で剣筋を逸らし、捌き、受け流す。そして一瞬の隙を突き、鎌を独楽のように回転させ、王の首を掻き切らんと振り抜いた。
王は咄嗟に後方へ跳び退がりながらも、片方の大剣でその一撃を弾き、一旦距離を取るように間合いを広げた。その表情には、焦りと驚愕が浮かんでいる。
その、刹那。
「ぐわぁぁ!」
「うごぉぉっ……お、王様……ぁ……申し訳……」
「がはぁぁぁあ!」
背後で、悲鳴が連鎖した。王が振り返ると、そこには無残に斬り捨てられた近衛騎士たちの姿。残りの二人の仮面の人物が、まるで赤子の手をひねるように、屈強な騎士たちを屠っていたのだ。
「ぐはぁあ!!」
第二皇子ルーシェもまた、腹部を深く斬り裂かれ、膝から崩れ落ちていた。命こそまだ繋がっているが、傷は深く、もはや立ち上がることすらできない。
「くっ……なんて、強さだ……」
倒れるルーシェの傍らに、リナキスが駆け寄る。
「ルーシェ様!」
彼女は涙を堪え、仮面の影たちを睨みつけた。
「もうおやめください! あなたがたの目的はなんなのですか? こんな非道な行い、東のスクロニアも、自治州コーストも黙ってはいないはずです!」
リナキスの悲痛な訴えを、仮面の一人が嘲笑で返した。小柄な体躯からおそらくは女だろう。
「東のスクロニア、自治州コースト、そしてここメルスキア。互いに争いを起こさない……平和条約なんてものを率先して結ぼうとしたのは、確かここメルスキアだったかしらぁ? うふ。甘いんだよ、お嬢ちゃん!」
女は言い放つなり、リナキスの華奢な身体を容赦なく蹴り飛ばした。
「きゃあっ!」
「く、リナぁあ!」
喘ぐルーシェの傷口を、女はブーツの踵で冷酷に踏みつける。
「ぐあぁあぁぁ!!」
ルーシェの絶叫が、王の心を抉った。
「いよいよこの国も終わりだなぁ」
もう一人の仮面の男が、肩をすくめて笑ったように見えた。
王の間に立っているのは、メルスキア王、そして唯一無傷の第一皇子ギルシェのみ。
(くっ……ここまで、か)
王は己の死を覚悟した。だが、せめて。
(せめて、私以外の三人を……未来を、逃がさなければ)
王は大剣を構え直し、傍らの息子に声をかける。その瞬間、王と対峙していた仮面の男の顔が、愉悦に歪んだのを確かに見た。
「ギルシェ! ここは私が抑える……なんとかルーシェとリナキスを連れて玉座下の隠し通路へ……ぇぇがぁぁあはぁあぁぁっ!」
言葉は、途切れた。
びしゃり、と。生々しい音が響き、おびただしい量の鮮血が玉座を赤黒く染め上げた。
王の胸を、背後から一本の剣が貫いていた。
「なぜぇ……なぜぇだあぁぁあ!!!! ギルシェぇえぇぇ!!!」
メルスキア王の最後の絶叫が、雷鳴と共に城内に木霊した。カラン、と乾いた音を立てて、二振りの大剣が床に転がる。巨体はゆっくりと崩れ落ち、二度と動くことはなかった。
「いやぁぁぁあああああ!!」
リナキスが絶望の声を張り上げる。ルーシェは目の前で起きた出来事が理解できず、ただ真っ白になった頭で、血の海に沈む父と、その父を貫いた剣を握る兄の姿を見つめていた。
血に染まった剣を握り、父の返り血を全身に浴びた第一皇子ギルシェは、無感動に剣を鞘へと納める。そして、倒れている騎士たちの血だまりを躊躇なく踏み越え、ゆっくりと歩を進めた。
彼は、三人の黒い仮面の人物たちの真ん中へと歩みを進めると、弟とリナキスの方を振り返った。その冷酷無比な瞳が、ニヤリと弧を描く。
ゴロゴロと地を這う雷鳴が、新たな王の誕生を祝福するかのように轟き、いつの間にか仮面の者たちの後ろには、ギルシェに忠誠を誓う兵たちがずらりと整列していた。
「第二皇子ルーシェと、その婚約者リナキスを拘束しろ。城の地下、永久牢獄に投獄する」
ギルシェの冷たい命令が下る。兵たちが、絶望に打ちひしがれる二人に迫った。
「いやぁ! いやぁ! いやぁぁぁぁ!」
錯乱したリナキスは、もはやこれまでと悟ったのだろう。護身用に懐へ忍ばせていた小刀を抜き放つと、一瞬の躊躇いもなく、自らの細い喉を掻き切った。
「リナキスッ!! やめろ! やめてくれぇっ!!」
ルーシェの悲痛な叫びも虚しく、愛しい婚約者の身体から力が抜けていく。彼女は最期の瞬間、ルーシェに微笑みかけたように見えた。
ルーシェの腕に、冷たい拘束具がかけられる。抵抗する力は、もう残っていなかった。ただ、魂の底から絞り出すように、裏切り者の名を叫び続ける。
「なぜだぁ! なぜだぁぁあああ! ギルシェ! なぜ国を、父上を裏切ったぁぁあああ!!!!!」
その言葉に、ギルシェは眉一つ動かさない。兵士たちに引きずられていくルーシェの背中に、氷のように冷たい言葉を投げかけた。
「傷口くらいは応急処置をしてやれ。そんなに簡単に死なれては困るからな。……我が愚かな弟には、まだ使い道がある」
「はっ、仰せのままに」
かくして、不可新暦千二百八年。
剣の国と謳われた大国メルスキアは、第一皇子ギルシェ・バーライド・グリシェンの裏切りにより、その歴史の幕を閉じた。
玉座に腰かけたギルシェは、黒い仮面の者たち、そして彼に従う兵たちを前に、高らかに宣言する。ここに、新たな国家の誕生を。
その国の名は――『ギルジエンド』。
絶望の底に突き落とされた銀髪の皇子は、永久牢獄の暗闇の中、ただ復讐だけを誓うのだった。
第二話:『絶望の悪魔』に続く。




