思い出なんて望んでない
目を開けると、アリスが黒い傘をくるくると回していた。
「アリスー!」
斜めった信号機の上に座っていたアリスが振り返った。
「来てくれたんだね」
黒い傘をパラシュートのようにして優雅に私の前に降りてきた。
「これ…落としもの」
アリスが差し出してきた黒い傘はやっぱり綾音の物だった。
「ありがとう。…?もしかして気に入ってた?」
「うん」
こくりと頷く姿を見て、私は鞄からさっき店で買った折りたたみ傘を取り出した。この世界に溶けていってしまうような薄い青色。
「折りたたみじゃないほうが良かったかもしれないけど、これあげるね」
ひと目見たときにアリスに似合うと思って買った傘だ。
「いいの?ありがとう」
「うん。あっ、あとね、これも食べて」
「…なにこれ」
「お母さんが作ったシチュー。アリスに食べてほしくて」
「………」
「アリス?」
何か言った気がする。でも、こんなに静かでもアリスの声は聞こえなかった。
シチューの入ったタッパーを見つめたままアリスは動かなかった。
「私、ちょっと散歩してくるね」
そう言い残して私はアリスから離れた。なんとなく、一人にさせた方が良いと思った。
「シチュー嫌いだったかな?それとも、食べ物見たことないのかも…」
適当に歩いていると、小さな駅についた。『ありす』と書かれた看板を横切って、線路の中に入る。しばらく線路の上を歩いていると、あの海が見えてきた。
「空気も水なのに、海があるなんて変なの」
靴と靴下を脱いで海に入った。どこまで歩いても深さは足首程度しかない。
「_____カエデ」
「!アリス!」
ぱっと顔を上げると、アリスが空のタッパーを持っていた
「おいしかった。…”あの人”の料理、初めて食べた」
「?美味しかったなら良かった。お母さんもきっと喜ぶよ」
「…うん。もう帰るの?」
「今日はお母さんのお手伝いする日なんだ。って、アリス」
「なあに」
「ここへどうやって行けばいいの?さっきはたまたま来れたけど」
アリスは少しだけ首を傾げた。
「キスだよ。指輪についた宝石にキスすれば帰れるよ。帰りたいときはだめだよ?」
近づいてきたアリスの瞳にはピンク色の海が写っていた。
「もう、しょうがないなぁ。次は夜に来て良い?」
「うん。待ってる。またね、カエデ」
「また後でね」
アリスの薄青の折りたたみ傘が傾くと、唇が触れ合った。




