プロローグ 田村映一、燃える夏休み三日目
夏休み初日の校舎は人気が少なくて、少しだけ異世界感みたいなのが、あると思った。
俺と町田は互いに大荷物を抱えて、市川センセのデカい背中の後ろを歩く。目指す美術室の手前にある音楽室の中からは、我が秋南高校の吹奏楽部員がめいめいに奏でる個人練習の音が聞こえて来ている。そこを通り過ぎようとしたとき、不意にドアが開いて、華奢なシルエットの女性が現れた。選択教科の、確か音楽の先生だ。
「あ、おはようございます。美術部も朝から活動ですか?」その音楽の先生が、綺麗な声で市川センセに挨拶する。市川センセは抑揚の少ないダミ声で、
「おはようございます。まあ、そんな所です。……おい、君らも挨拶しなさい」と言った。
「おはようです」「おはようございます」
俺と町田も挨拶する。
「おはよう。えーと、二人とも一年生? 5月くらいに入ったって言う、新入部員ですか?」
「はい。田村っす」
「町田です」
「私は音楽の国枝です。夏休み中はだいたい、ここで吹奏楽部の相手をしてますから、美術部で何か困ったことがあったら来てくださいね」
「いやいやいや、国枝先生。折角ウチに入った貴重な部員を、そうもストレートに引き抜きにかからんでもらえますか」
市川センセが無精髭に手を当てて軽く笑いながら言った。
「そんなつもりは……あんまりありませんよ。でも同じ文化部としては、男子部員の希少価値は変わりませんから」
国枝センセも悪戯っぽく笑って言った。あ、この先生可愛いな。吹奏楽部に入って貴重な男子部員としてチヤホヤされるってのも悪くないのかも知れない(実際は鬼みたいに練習がキビシイと後で聞いた)けど、今は状況が状況だ。一秒でも早く美術準備室に向かいたい。
「それにしても、ずいぶん重そうな荷物ね。画材ですか?」
「はい。それに資料とかっス」
俺は一瞬だけ躊躇したが、そう答えた。嘘は言ってない……よな、うん。
「やっぱり男の子は力があっていいですねぇ」
「いやまあ、創作活動に励んでくれるんなら、男子でも女子でも、ウチはもっと欲しいとこですがね」
「先生こそ、ウチの部員狙ってます?」
「双方掛け持ちでよければ、こいつら貸しますからそっちの絵心ある連中を回してもらえたりしますか?」
「それは……そうですね、この子達次第でしょうか」国枝センセが、少し赤みがかった髪を直しつつ、俺と町田の目を交互に見て言った。
「はははは……」
俺たちは大人同士の冗談だか本気だか分からない駆け引きを適当に笑ってごまかす。すると先生方もそれ以上、その話題を引っ張るのはやめたようだった。
「じゃあ、失礼します」
そう言って国枝センセは階段の方に去っていき、俺たちは再び美術準備室を目指す。
「よいしょ…っと」
準備室に着くと、町田は肩に掛けていたデカいバッグを机にゆっくりと置いて、その中からミドルサイズのデスクトップパソコンを引っ張り出した。俺は俺で、キーボードやマウス、ジョイパッドやケーブル類、それにデカいファイル数冊を、下げていたバッグから取り出し、一つずつ町田に手渡す。
「昨日、あれから上げた絵はあるのか?」市川センセが自分のパソコンを起動して、パスワードを入力しながら言った。
「俺は練習兼ねたラフを4枚と、昨日までのラフを仕上げたのが2枚っス。町田はラフ何枚だっけ?」
「昨日は1枚だけ。あとはプログラムばっかり進めてたから」
「んじゃあ、まとめて渡してくれ。こっちは起動済んだから、田村、使っていいぞ」
「了解っす。借りますね」俺はそう言うと学校備品の白いミニタワー型デスクトップパソコンの前に座り、ドット打ち用のCGツールを起動した。
「プログラムはどの辺いじったんだ?」俺が聞くと、
「……まあ、見てよ」町田が、少しは自信あるよといった風に答えた。その眼鏡の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。こいつまた、まともに寝てねーな……。
「うっし、じゃあ見せてみろ」俺は立ち上がり、町田の隣に回ってジョイパッドを受けとった。市川センセも無言で俺の後ろに立つと、腕を組む。
「実行するよ」
町田がF5キーを叩く。見慣れた、仮のキャラ選択画面が起動。そこには、昨日までいなかったキャラの名前がある。
「おお! やっと出来たか5体目!」
俺は迷わずその名前を選択。町田もキーボードを操作し、同キャラを選択。途端に画面はワイプアウト→ワイプインを経て、対戦の開始を告げる伝統の「Ready」&「Fight!」が表示される。その後ろに立つのは、昨日までツール上でしか見ていなかった、記念すべき5体目となるスピード重視キャラのドット絵が向かい合わせに2体。
「どこまで出来てる?」
「必殺技はまだ。通常移動と通常技だけだよ」
「上等!」
俺は前ジャンプからの通常連携を試す。ジャンプの軌道が鋭い。小足、立弱P、立強K。おおっ! 動く、動く!
市川センセは無言だ。ってことは、とりあえず悪くないって事だろう。指導を受けるようになってから2ヶ月ちょい、成果が出てるってことか?
「……立ち技の足運びが甘いな」
「ですよね。横方向の移動増分を調整します」
……まあ、まだまだこれからかな。
「……よーし、じゃあだいたいこんな所か。流石はボス町田! 初お目見えにしては、予想以上に良かったぜぃ!」
俺が本心からそう言うと、町田はいつも通り、少し照れて困ったような笑顔を見せた。
「うっし、じゃあ俺も作業進めるわ。見てろよ、今日中に前後ダッシュの全モーション仕上げちゃるけぇの!」
俺はシャツの袖を巻くって、再びCGツールの画面に向き合うのだった。