煙のようなあなたへ
「じゃあ、また来るから。」
そう言って立ち上がる。
少ししびれた両足は、名残惜しさの象徴のようで嫌になる。
9月だというのに太陽は、真夏みたいな面をしてふんぞり返るもんだから、行き場を無くした蝉たちが、あちらこちらでミンミンと、届かない愛を叫んでいる。
あの日と同じ、照りつけるような日差しから逃れるように歩き出した。
じんわりと身体にまとわりつく汗に顔をしかめながら、近くの喫煙所へと向かう。
寂れた公園のその端の方、柵に囲まれて、周りからは見えなくなっている。
外界から隔離されることでかろうじて存在を許されているような空間に
ぽつんと佇む灰皿と、手入れなんてされたことが無いだろうベンチ。
それら全てが、都合が良かった。
喫煙所に着くと、先客がいた。
すらりと長い足をベンチから投げ出し、うつむき加減でスマホをいじっている。
微動だにせず画面を眺めている姿はまるでマネキンのようで、耳にいくつも付けられたピアスが、木漏れ日を受けてキラキラと輝いている。くわえた煙草から燻る煙だけが、彼女が生きていることを教えてくれていた。
こんな場所で人と会うこと自体珍しいのに、それが女性だなんて。
驚きと多少の気まずさに、近づいて良いのかしばしの間考え込んでいると、
僕の気配を感じたのだろう、顔を上げたその人と目が合った。
一瞬、時が止まった。 すぐに目をそらし、煙草を取り出す。
が、ライターが無い。 さっきの場所に置きっぱなしにしたままかも知れない。
身体の至る所をまさぐっていると、横から手が伸びてきた。
「火、貸してあげよっか?」
「―ありがとう、ございます。」
細く白い指からライターを受け取り、煙草に火を付ける。
深く息を吸い込み、肺に充満する煙の存在を確かめながら、静かに吐き出した。
「ねぇ、知ってる? 高校生が煙草吸っちゃ駄目なんだよ?」
「それを言うなら、君もじゃない?」
「高橋さん?」
毎日教室で顔を合わせているはずなのに、今まで見たことの無いような表情を浮かべた彼女が、そこにはいた。
―――――――
「ふぅん、遠藤くんがまさか、不良だったとはね。」
「やめろよ、そんなんじゃない」
「明るくてスポーツマンで、皆の人気者の遠藤くんがね。」
「だからやめてくれ、高橋さん。」
「いつもみたいに美玖ちゃん、って呼んでくれないんだ。」
渋い顔をする俺を見て、高橋さんはまたニヤニヤと笑う。
「ねぇ、なんで一回無視したの?」
「―気まずいだろ、お互い。」
「それだけ?」
「他に何か理由があるか?」
「私の姿に幻滅したんでしょ?」
「驚いてはいる。」
「やっぱり。」
「でもそれだけだ。誰だって人に見せない顔ぐらいある。」
「―張本人が言うと説得力あるね。」
「うるさいなぁ。学校でもそれくらい話してくれればいいのに。」
「嫌だよ。そんなカロリー使いたくない。」
「毎回無視されてるこっちの身にもなってくれ。」
「私、陽キャって苦手だもん。押しつけがましいし、気持ち悪い。」
『氷の姫』 そう呼ばれるほど彼女は冷たく、人に心を閉ざしている。
いくらフレンドリーに接しても、帰ってくるのは凍てつくような視線だけ。
だから余計に、目の前の彼女とのギャップに驚いているのだ。
「遠藤くんも、今みたいに学校で過ごせば良いのに」
「嫌だよ。俺は自分の学校生活、結構気に入ってるんだ。」
「演じた『誰か』で生き続けるのって、しんどくない?」
そう問いかける彼女の瞳は、何かを探っているようだった。
「―演じてるわけじゃ無い。両方俺だから。高橋さんだって、そうだろ?」
目を丸くした高橋さんは、すぐにまたニヤけ顔を作った。
「なんか決め台詞って感じでキモいね。」
「ただ事実を言っただけで、なんて仕打ちだよ。」
「でも安心した。『俺の前ではホントの姿でいなよ』なんて言われてたら…」
「言われてたら?」
「もう二度と、遠藤くんとは関わらなかったと思う。」
周囲の温度が下がったかと錯覚するほど冷たい声色に、やっぱり言った通りじゃ無いか、なんて口に出しかけて、急に馬鹿らしくなった。
二本目の煙草に火を付け、ライターを返す。
手遊びみたいにライターをくるくる回しながら、また高橋さんが問いかける。
「ねぇ、なんで煙草吸ってるの?」
「―なんでもいいだろ、色々あったんだよ。」
「良いじゃん教えてよ、ほら、煙草は人を開放的にするんでしょ?」
「なにそれ。 誰が言ってた言葉だよ。」
「私の好きだった人。」
けほ、と思わずむせる。 何を言い出すのかと横を見れば、彼女は真剣な顔をして、どこか遠くを眺めていた。
「好きな人に近づきたくて、私は煙草を吸い始めたの。」
――――――――
塾の講師と生徒。最初はただそれだけの関係で。
でもだんだんと仲良くなって、塾以外でも会うようになって。
家も学校もつまらなくて、でも彼の前だけでは、自分が自分でいられるような気がして。
自分でも気づかないうちに、好きって気持ちは大きくなっていた。
『煙草吸ってくる』っていつも申し訳なさそうに言うから、つい『私も一緒に吸っていい?』そう、聞いてしまった。少し驚きながらも、『じゃあこれからは、煙草吸ってる間も話が出来るな』なんて言って笑ったあの人はきっと、良い大人では無かった、と思う。
でも、少し癖のある髪の毛も、くしゃりと笑うその顔も、優しく頭を撫でてくれるゴツゴツした暖かい掌も、その全てが好きだった。
『俺の前では無理しなくても良いよ』そんな言葉に、馬鹿正直に甘えていられた。
だから、信じられなかった。あの人が結婚する。その事実を。
呆然とする私に、『お前も幸せになれよ』なんて微笑むから、余計に胸が苦しくなった。
最後に頭を撫でてくれた掌はやっぱり温かくて、煙草の苦い匂いがした。
結局あの人にとって私は、どこまでいっても生徒でしか無くて、ただの一度も女としては見てくれなかったんだろう。
手元に残ったのはひび割れた恋心と、ぐしゃぐしゃになった煙草だけだった。
―――――――
「最初っから私が一人で空回りしてただけ。馬鹿みたいでしょ?」
いつの間にか付けられた煙草の、細い紫煙を睨むようにして、彼女は言う。
「あぁ、確かに馬鹿みたいだ。」
「笑ってくれても良いんだよ?」
それならもっと面白そうに話してくれれば良いのに、いつまでも辛そうな顔をするから。
「いや、笑えない。」
だから、俺も彼女に、話さなきゃ、なんて思ってしまった。
「俺の好きだった人も、煙草を吸ってたんだ。」
―――――――
物心ついたときから、俺たちはずっと一緒だった。
二軒隣に住んでいて両親同士も仲が良い、いわば幼馴染み。
でも8個も年の離れたあの人を、名前で呼ぶのは何だか少し気恥ずかしくて、
俺はずっと、姉さんと呼んでいた。
内向的だった俺とは対照的に、姉さんは快活で、暇さえあれば外に連れ出され、疲れ果てるまで遊び回った。
俺にとっての姉さんは憧れで、強くて美しい人で、世界中の誰よりも大好きな人だった。
姉さんが仕事を始め、煙草を吸い始めたときも、特段嫌だとは感じなかった。
『煙草はね、幸せを吸い込んで、悲しみを吐き出すものなんだよ』
そう言って夜空に煙を燻らせる姿は本当に綺麗で、煙草に手を伸ばした俺を叱る姉さんは本当に可愛かった。
ある日の夜、いつものように姉さんの部屋に行くと、姉さんはベランダで煙草を吸いながら、静かに泣いていた。思わず駆け寄った俺に、『煙が目に入っただけだから』と微笑む姉さんは儚く、今にも消えてしまいそうだった。
黙って横に立ち、煙草を奪って、見よう見まねで火を付けた。
激しく咳き込む俺を、しょうがないなという風に見つめながら、姉さんも黙って煙草を吸っていた。
転勤が決まり、遠く離れた県に移り住む前の最後の夜も、二人並んで、ベランダで煙草を吸った。
やっぱり咳き込む俺を見て、『煙草なんか吸ってると、ろくな大人になれないよ』と姉さんは言った。
ろくな大人にならなくても、姉さんのようになれるなら、それでいいとは、最後まで言い出せなかった。
―――――ー
「それが、姉さんと過ごした最後の夜だった。」
「その人も、誰かと結婚しちゃったの?」
まだわずかに肺に残った煙を、ゆっくりと吐き出す
「―亡くなった。二年前の今頃の事だ。」
カラン、と、ライターの落ちる音がした。
「だから俺が煙草を吸ってるのは、姉さんへの仕返しみたいなもんだ。」
「仕返し?」
「煙草吸ってても、友達に囲まれて、仕事もそれなりにこなして。姉さんの分まで生きてやるんだよ。」
「それのどこが仕返しなの?」
「そんで俺が死んだ後、天国で言ってやるんだ。どうだ、ろくな大人になっただろう、って。」
「遠藤くんって、良い性格してるね。」
「その言葉、そのまま高橋さんに返すよ。」
お互い顔を見合わせ、ふっと笑う。
「交換しようよ、煙草」
高橋さんはそう言って、自分の持っているそれをずい、と差し出してきた。
一つのライターで火を付ける。
初めて吸う他の銘柄の煙草は、きつくて大人の味がした。
「こんな強いの吸ってんだ」
「遠藤くん、これ薬みたいな味するんだけど。」
「_メンソールだよ。」
そうして煙草を吸いながら、俺らは再び見つめ合った。
でもきっと、互いのことなど少しも見えてはいなかった。
煙草をくわえるその姿に、吐き出された煙の中に
もう二度と届かない誰かの面影を重ねていたから。
―――――――
「私たちって、煙みたいなものなのかもね。」
まだ燻る煙草をもみ消しながら、高橋さんはつぶやく。
「いろんな姿に形を変えて、どんな場所でもただ揺蕩うだけ。それで最後はさ、何も無かったみたいに消えていっちゃうの。」
「随分と、詩的な言い回しするんだな。」
「遠藤くんのカッコつけ、移っちゃったのかも。」
「言ってろ。」
「ねぇ、これから何処行こっか。」
「昼ご飯にしよう 腹減った。」
「じゃあ美味しいラーメン屋があるの そこ行こう。」
「ラーメンの後の煙草は、美味いだろうなぁ。」
9月だというのに太陽は、真夏みたいな面をしてふんぞり返るもんだから、行き場を無くした蝉たちが、あちらこちらでミンミンと、届かない愛を叫んでいる。
あの日と同じ、照りつける日差しの中を、俺たちは2人、並んで歩き出した。