2−1
漆黒の闇の中をひとり歩いていた。
ただ、ひたすらに足を前へと運ぶ。
何故自分は歩いているのか、とか。
いったい何処へ向かっているのか、とか。
自分でもよく分からなかった。
惰性で歩いているだけのかも知れない。
でも、足を止めてしまうと闇に包まれて自分という存在が消えてしまいそうで。
ただただ怖くて、踏み出す足を止められずにいた。
気が付くと周囲を何者かに囲まれていた。
自分に向けられる不快な視線に、無遠慮に纏わりつく腕。
顔や姿形はハッキリしない影のようなのに、その感覚だけは妙にリアルだった。
それらを全てかわして払い除けていると、今までの『揶揄』が鈍い自分にも判る程の『敵意』へと変わっていく。
『奇遇だね。私もあなた達みたいなのは嫌いだよ』
「ふああぁ…」
いつものように二つに分けた長い髪を黙々と編みながら思わず欠伸が漏れる。
何だか無性に眠かった。
(昨日もわりと早めに布団に入ったハズなのになぁ)
気持ち身体も重たい感じがする。全然疲れが取れていない。
(身体、冷やしたかな?)
布団を蹴飛ばしたりしていたのだろうか?朝起きた時には、きちんと掛かってはいたけれど。
それに…。
(何か、夢を見ていた気がする…)
内容までは覚えていないけれど。
時計を見ると、あと五分でいつも家を出る時刻だった。
紅葉は小さく息を吐くと編み上げた髪を素早くゴムで留め、気合を入れるように立ち上がった。
いつものように全身が映る大きな鏡の前へと立つと、出掛ける前の最終チェックをする。
だが、すぐに違和感を感じて固まった。
「あ…。眼鏡…」
大事なものを忘れるとこだった。
(ぼけっとしてたらダメだって…)
慌てて机の上に置いてあった眼鏡を手に取り、それを掛けると傍に置いてあった鞄を手にして部屋を後にした。
ずっと街を仕切っていた極悪グループ『ファントム』が撃退されたというニュースが出回り、皆がホッと胸をなで下ろしていたのも束の間。巷では、早くも新たなグループが幅を利かせて悪さを始めたとの噂が持ち上がっていた。
紅葉が通っている高校でも被害に遭った生徒が出ているとのことで、あまり遅い時刻に外を出歩かないようにと再三学校側からも注意喚起があった程だ。
それはファントムが全滅したと噂になっていた、あの日から丁度二週間が経過した頃のことだった。
皆が不安を感じていた通り、簡単に平穏な街へと落ち着くことはなかったようだ。
「前より割と早い時間から柄の悪そうな奴らがウロウロしてるんだ。塾帰りも気を抜けないよ。ホント…住みにくい街になったもんだよね」
隣を歩く圭が深刻そうな表情を浮かべる。
「もしかして圭ちゃん、そういう人たち見掛けたことあるの?」
「ん?あるよ。夜の駅前は本当にそんな奴等ばっかりだよ。僕は自転車で大通りをサッと走り抜けちゃうけど、ちょっと裏道や細い道に入ると危険が一杯って感じなんだ」
「へぇ…。怖いね…」
「グループ同士の縄張り争いみたいなのも起きてるのかな?集団での喧嘩も見掛けたことあるよ。あれだけの人数、いったい何処から集まってくるんだろうって感じでさ。そんな所にうっかり出くわしたら本当に大変なことになるよ」
「そんなになんだ…」
話を聞いている内に、次第に圭の身が心配になってくる。
「圭ちゃん、週に三回塾行ってるんだっけ?…本当に気を付けてよ」
「うん、ありがと。気を付けるよ」
そう頷いて返してくる目の前の笑顔に紅葉も大きく頷いた。
だが、その時。不意に何かを思い出し掛けて紅葉は思わず足を止めた。
何者かに周囲を囲まれる危機的状況。
向けられる明らかな『敵意』。
一触即発のピリピリとした空気感。
(え…?これって…?今朝見ていた、ゆめ…?)
あまり穏やかとは言い難い。けれど、そんな夢を見たような気がする。今の今まで忘れていたけれど。
(でも、何で今突然そんなこと…)
思い出す、そのタイミングがイマイチ良く分からない。
「紅葉も気を付けてよ。本当に」
不意に前方から圭の声が聞こえて来て、そこで紅葉は我に返った。
圭が足を止めてこちらを振り返っている。
紅葉は慌てて笑顔を浮かべると傍へと歩み寄った。
「ありがと、圭ちゃん。でも私は大丈夫だよ。夜に出掛けることなんて殆どないもの」
だから心配しないで。そう普通に返したつもりだったのに、何故だかじっ…と無言で見つめられてしまった。
「?…圭ちゃん?」
その、何故だか意味ありげな視線に思わず首を傾げる。
すると圭は真っ直ぐこちらを見つめたまま、ゆっくりと口を開いた。
「紅葉、こないだも聞いたけど…。毎日ちゃんと眠れている?」
「え?なん、で…?」
確かに今日はイマイチ疲れが取れていない気がするけれど。それを見透かされてしまったのだろうか。
(…もしかして疲れが顔に出ちゃってる、とかっ?)
慌てて目の下を覆うように頬に両手を当てる。
圭は、そんな紅葉の反応を不思議そうに眺めながらも続けた。
「例の症状は出てる様子、ない?」
「例の…?」
そこでやっと圭が自分の夢遊病のことを言っているのだと気が付いた。
「えっと…。どうだろう?自分的には最近は落ち着いているものと思ってたけど…」
特に自覚症状はなかった。
でも、こればっかりは本当のところは分からない。いつだって自分は普通に眠っているつもりなのだから。
歩きながら記憶を辿っている紅葉に、圭は「そうか」とだけ呟いた。
「でも、圭ちゃんがそうやって聞いて来るってことは、何か思う所があるんでしょう?もしかして、私…外にいたりした?」
傍から聞いていたら、きっと変な質問ではあるが。
「う、ん…。実は…。前に紅葉に似た人を駅前で見掛けたんだ。塾の帰りに」
「駅前…」
「でも後ろ姿だけだったから、いまいち自信はないんだけど。でも本当に、すごく紅葉に似ていて…。慌てて後を追い掛けたんだけど、その時は見失ってしまったんだ」