7話
そこにいたのは最後に見た時よりも随分とやつれた姿のヴァレリオ様だった。かなり痩せたように見えるし、寝不足なのか隈も酷く痛ましい。
「お前かぁ、次の長候補ってのは」
「ジュリアを離せ!」
「おっと、動くなよ。動いたらこの女を殺すぞ。まぁどっちにしろ殺すが……なるべく苦しむように殺す」
その言葉と共に血が肌を伝う感覚がする。それを見てか悔しそうに歯噛みしたヴァレリオ様はそれ以上動くことは無かった。かわりにワラワラと青い顔の側近達が遅れて集まってくる。
「頼む、彼女だけは……っ」
「その必死さを見るに番ってのは本当らしいなぁ?」
「違う……ジュリアは番じゃない!」
「はいはい。イムレ様に報告だな」
ヴァレリオ様が来た時はどうしようかと思ったが、彼のわたくしを渡すまいという態度が逆に番という確証になったようだ。
……しかしイムレという名は記憶が正しければ、かつてエドアルド様と対立していた黒竜の長の名ではなかっただろうか。
「本当に違うんだ……彼女は……」
「殿下! お気持ちは理解出来ますが……どうか落ち着いてください」
「そうです。ジュリア様には誠に申し訳ありませんが……」
「お前達まさか……!」
必死に訴えかけようとするヴァレリオ様を周りが制する。このままわたくしを番だと勘違いさせていた方が、ラウラ様の身を守れるだろうという事だろう。それはわたくしも望むところの、むしろその為に来たと言っても過言ではない正しい判断で、けれどヴァレリオ様はそれを受け入れられないかのように彼らを睨みつける。
……かつてのヴァレリオ様なら、そのまま彼らを傷つけずに行動不能にするだけの力があった筈だ。けれど今のやつれた姿から察するに、恐らくラウラ様と殆ど接触していないのだろう。ラウラ様がまだ幼いので契りを結ぶのは数年先になるとはいえ、そばにいるだけでも神力は上がるはずなのだ。逆に番に出会ったにも関わらず接触を断てば神力は低下し相当な苦痛を伴うと聞く。
彼は今でも──にも関わらずこの命を投げ捨てようとするわたくしは最低な人間だ。逆の立場ならば絶対に生きていて欲しいと願うくせに。
「お、来た来た」
聞き慣れた竜の羽ばたく音に、崩壊した天井の隙間から見上げると、そこには空を覆い尽くすのかと思わんばかりに大きな黒い竜がいた。
「イムレ様〜遅いじゃないですか!」
「おー。あのクソ野郎とやりあってたら時間かかったわ。で、ブラッツ。番は見つかったか?」
誰も声を出すことすらかなわない。エドアルド様は神力がとんでもなく高いとはいえ、穏やかな方だ。威厳はあっても相手を威圧するようなことはなさらないし、こんな──全方位に殺気を放つようなことはしない。どちみちこの命は差し出すつもりだったが、それでも恐怖に足がすくみそうになる。それにクソ野郎、とはまさかエドアルド様のことだろうか? だとするとエドアルド様は今……? 自らの想像にゾッとする。わたくし一人が命を差し出したところで、結局皆殺しされてしまうような気さえした。それでは……何のためにここに来たのか。
「勿論ですよ〜この女が、」
ブラッツという名らしい黒竜が、誇らしげにそう言ってわたくしの首を掴んだまま掲げるように持ち上げる。息苦しくて生理的な涙が滲んできた時。
「ッグァ……!」
ブラッツの腕が切り落とされた──ヴァレリオ様ではなく、イムレという黒竜の魔法によって。突然の仲間割れに理解の追いつかぬまま、わたくしは糸の切れた操り人形のようにドサリと落ちる。
「はー……ありえねぇ。マジでありえねぇ。女神のヤローふざけんなよクソ女が……」
不服そうな声でそう何事かをボヤきながら、その竜は何故か嫌いであろう人間の姿をとった。白竜と同じ金の瞳なのに髪はやはり真っ黒で、見慣れぬ闇のような色に恐怖心を抱く。
「その女はアイツの息子の番じゃない」
バレた。動揺を隠しきれずに目を見開いてしまう。ヴァレリオ様もエドアルド様も、誰もがわたくしを番だと思い込んでいたのに何故彼は一目見ただけで番ではないと分かるのか。
……その疑問の答えはすぐに、信じがたい事実として突きつけられた。
「で、でも、」
「──この女は俺の番だ。だから触んな。減る」
目の前にやってきたかと思えば、地面に倒れ込んでいたわたくしをまるで壊れ物でも扱うかのようにそっと抱き上げ……そんな衝撃発言をした。
「は……?」
「え……っ?」
頭が真っ白になったかのように、言っている意味が理解出来ずに間抜けな声を出してしまう。しかしそれは彼の言葉を聞いたブラッツや、ヴァレリオ様達も同じだったようで。しん……と辺りが静寂に包まれた。
そんな事実を受け入れられない周囲のことなど知らぬ様子で、イムレは天を仰いで長いため息をつく。
「あー……よくもこの俺の番を人間とかいうゴミカス種族にしやがったな……」
彼は彼でその事実を飲み込めない……というよりは飲み込みたくないようだ。その姿にじわじわと現実をつきつけられる。何故わたくしが。このイムレという竜がエドアルド様と対立していた黒竜の長ならば、二千年は生きている筈。なのに今更、彼からすれば産まれたばかりのわたくしが番……?
「まあいい。人間だったのは最悪だが、漸く俺にも番が手に入った。これでもうアイツに遅れはとらない……!」
イラついた様な表情から一転、勝ち誇ったような笑みを浮かべたイムレ。
「安心しろ人間、お前は番だからちゃんと大事にしてやる。俺の力が完璧に高まったらティルナノーグの人間全員ぶっ殺して住めるようにしてやるからな。一旦戻って子ども作るぞ」
その金色の瞳がわたくしを見つめる。まるでヴァレリオ様がそうするように甘い熱を孕んで。わたくしは何があろうとヴァレリオ様だけを想っているが、そうでなくとも言われた言葉の恐ろしさに首を縦にも横にも振れないで固まってしまう。……けれど、そんな中でもあるひとつの事を思いついた。
「きゃっ……!」
浮かんだ考えを決心に変える前に、ふいに魔法で天高く飛ばされたかと思うと、竜の姿に戻ったイムレの背中にドサリと落ちる。
「っ待て!」
ヴァレリオ様も竜の姿になり追いかけようとしてくる──が。
「……なんだアイツ? 番いんだろ? 何であんな弱ってんだよ」
「それは……」
その羽ばたくスピードは目に見えて遅く、どんどんわたくし達とヴァレリオ様の距離が離れていく。今にも墜落しそうな彼を見ているだけでハラハラして心臓が握りつぶされるようだ。イムレの背から落とされぬよう気をつけながら、何か出来ることはないかと考えていると。
「てっきり番を得て勝てねえくらいになっていると思っていたが……あんなに弱ってんなら殺せたな。つーか今殺すか」
不意にくるりと向きを変えたかと思えば、ヴァレリオ様の方へ飛んでいきながらそんな恐ろしい事を言うので慌てて説得を試みる。
「ま、待ってください! ちゃんと貴方のものになりますから……彼やティルナノーグに手出ししないで頂けませんか?」
「いくら番の頼みだろうとそれは聞けねえな。白竜はいいとしても人間は全滅させねーと」
「……何故そんなに、人間が嫌いなのですか?」
それは説得というよりは純粋な疑問だった。
「あー……お前はガキンチョだから知らないだろうが、ここができる前の人間は白竜のことは神様だなんだって信仰したくせに、俺達黒竜のことは邪竜だっつって滅ぼそうとしていたんだ。ま、糞雑魚だから大抵は相手にもなんなかったがな……俺の好きだった雌は人間に騙されて殺された」
わたくしが知っていたのは黒竜が竜至上主義だから、竜に人間の血が混じるのを嫌って白竜と対立したという話だけ。だからその話は初耳で……そして思ったより正当な理由で口を噤む。
「それに黒竜と白竜で番同士ってこともあるのは知ってるか?」
「え、ええ……」
「アイツらがここに隠れてる限り番を得られねー奴がいる。その上人間相手も有り得ると来たもんだ。俺だってあのクソ野郎の結界が弱まってるうちに無理矢理入ってこなきゃ、お前に会えなかった」
もっと理解出来ないような理不尽な理由ならば良かったのに。どう反論するか、もしくは協調しつつ懐柔するか考え言葉に詰まっていると、不意に横から殴りつけるような強風が吹いてバランスを崩してしまった。
「っ、きゃ……!」
「っと、悪ぃな。はぁ、不服だが……」
嫌々そうに巨大な竜が、眩い光と共に人型の青年に変わる。支えを失い落下していくわたくしをイムレは軽々と片腕で受け止めた。
「どっちみち人型じゃねーと交尾出来ねぇしな」
そう言って蠱惑的な笑みを浮かべるイムレ。背中がゾクリとすると共に、本能で理解した。……彼が、わたくしの番であると。番かどうかなんて、人間のわたくしには分からないと思っていた。ただヴァレリオ様が好きだから、ヴァレリオ様も番だと言ってくれているから、そうだと思い込んでいただけで。
本当は、人間でも感じ取れたのだと実感する。
「っ待て、」
そうこうしているうちにもヴァレリオ様がわたくし達に追いついてしまった。彼も竜から人の姿に戻っており、人肌ではその顔色の悪さが顕著に感じられる。
「ホントしつこいな。コレは俺の番なんだからどうだっていいだろ?」
「良くない……番かどうかなんて関係なくジュリアしかいらないんだ……頼む……」
「ハァ? お前正気か? この俺ですら人間でも愛しくてたまんねーのによ」
心底驚いたように、イムレはそう漏らした。確かにここまで人間を嫌う彼が無条件で愛するくらいなら、そんな因縁もない相手が番のヴァレリオ様はそれ以上の衝動があってもおかしくないのに……。
「まぁいい、好都合だ。死ね」
そう言って無慈悲にも力を込めようとする腕を慌てて掴む。
「お願いです、彼を殺さないでください……っ!」
「それも聞けねぇ。コイツをほっときゃ二度とここには入れなくなる。俺は人間を絶滅させて人間が番である可能性を消し去りてえ。そして昔みたいに白竜も黒竜も一緒の世界に戻す。……いくらお前が人間でも、もう千年以上この為に生きてんだ」
ああ、彼は彼なりに事情があるのだ。それでも、彼にとっての悲願がそれであるように、竜にとって番が大事であるように、わたくしにとっても譲れないものがある。
──だから。
「っやめろ! やめてくれ! ジュリア!!!」
わたくしが何をしようとしているのか、いち早く察したのはヴァレリオ様だった。けれどもう止める手段はない。
「限界突破」
「おい! 死ぬぞ!!」
続けてイムレも気づいたらしい。
魔力は底をつくと気絶してしまうし、必要量が身に持つ魔力を上回る魔法は失敗する。……が、一つだけ沢山の魔力を得る方法がある。命を代償にするのだ。そうすれば人間でも神力並の力を得て大抵の魔法を使うことが出来る。
例えば、そう。ヴァレリオ様をさっきの街に転移させるくらいのことは簡単だ。
「発動」
「ジュ──」
さっき思いついたのは、わたくしが死ねばイムレは番を失うショックで神力が下がるということ。そうすればこの危機も、暫く凌ぐことが出来るだろう。
ヴァレリオ様に死んで欲しくないと願うくせに、自分はこうして彼を置き去りにする。きっと酷く恨まれることだろう。
「……ごめんなさい、ヴァレリオ様」
折角莫大な魔力が使えるのだから、ティルナノーグの平和を願うならばイムレへ攻撃した方が良かった。……けれどそれは、どうしても出来なかった。彼に同情したからだろうか、それとも彼が番だからだろうか。ただどうせ番を失うことで、最悪死なずに済んだとしても力を殆ど使えなくなる。だから自分の罪悪感の有無を優先したのは間違いない。ティルナノーグにとっても、黒竜にとっても酷い女である。分かっていて改善できないのだから、我ながら質が悪い。
「なんだよ……こんなもんただの呪いだ──」
出会ったばかりの、しかも大嫌いな人間の女が死んで、ボロボロ涙を流す哀れな黒竜にも謝ろうとして……その前に意識は途絶えた。
──そうしてジュリア・ザハとしての一生は幕を閉じたのだ。