4話
その日の目覚めは最悪だった。寝ている間にも泣いていたのか目尻が濡れていて、意味は無いと知りながらも指で拭う。
「ヴァレリオ様の番は、わたくしではなかったのですね……」
口に出すと実感がわいて、どんどん溢れてくる涙を止めることが出来なかった。誰も見ていないから、泣くのはこれで最後にするから、どうか今だけは心のままに感情を吐き出すことを許して欲しい──なんて。自分自身誰に許しを乞うているのかも分からないまま、朝日がカーテンの隙間から差し込むまで膝に顔を埋めてすすり泣いた。
「おはようございます、ヴァレリオ様」
「おはよう、ジュリア。……少し目元が赤いね。大丈夫?」
そう言って心配そうにわたくしの顔を覗き込んできた彼……ヴァレリオ・バローネ様は、竜王エドアルド様の五十番目の御子にして第二十七王子で、わたくしの婚約者である。
竜の血を引く証である雪のように白い髪は癖もなくサラサラで、瞳孔が縦に長い金の瞳はゾッとするほど美しく、そのかんばせは文句のつけ所もないくらいに整っている。その上人柄もよく、誰からも愛される優しく聡明な王子様。幼い頃のわたくしは、自分がこんなに素敵な方の番だなんて夢みたいだと喜んでいた。
……本当に夢だったのだけれど。
「ヴァレリオ様に番が現れるのではないかと不安で、なかなか眠れませんでしたの」
「そうか……でも大丈夫。こんなに愛おしくてたまらないんだから、絶対にジュリアが私の番だよ」
そう言って優しく抱き寄せ、わたくしの額にキスを落とす彼。ああ、愛されている。わたくしもこの方を本当に、心から愛している。それでも──彼ら竜族にとって、番であるかどうかより大事なことなどないのだ。それが次期竜王候補筆頭と言われるヴァレリオ様ならば、尚更。ヴァレリオ様が番と子をなせば、きっとエドアルド様をも超える神力量になるだろう。そうすれば、この先もティルナノーグは安泰だ。
……だからわたくしの恋心なんて、世界の前には些細な事。
「まぁそもそも私としては、ジュリアがいるから番召喚の儀なんてする必要ないと思うのだけれどね」
番召喚の儀は、竜の血を引く者が十八歳になって迎える最初の朔日に行われる。私のように番だとほぼ決定づけられ、婚約者として据えられている存在がいても、必ず。万が一番でない場合があった時の為だろうが……今までそんな例はなかった。まさかその一番最初の例に自分がなろうとは。
「……わたくし達は赤子の頃からずっと一緒にいたんですもの。家族愛を番への愛と勘違いしておられるかもしれませんわ」
そんな事を口に出しながらも、本気でそう疑えたらどれ程良かったかと思う。ああ、あれはただの家族愛で親愛だったのだと。初めから愛されてなどいなかったのだと裏切られた気持ちになれたら良かったのに。
疑いようもないほど、確かに愛されていたから。その幸せな記憶が、きっとこれから先ヴァレリオ様のそばにいられないわたくしを酷く傷付けることだろう。
「まさか信じて貰えていなかったなんて残念だ。……儀式が終わったら、私がどれ程君を想っているか聞かせてあげるよ」
甘い言葉と共に頬に手を添えられ、口づけの予感に目を閉じる。きっとこれが最後だろうと思うと涙が出そうになるから、後ろでこっそり手の甲を抓って心の痛みを誤魔化した。泣くな、泣くな。泣いたら駄目よ、この方を困らせたくないの。
──どれ程受け入れ難い事実でも、今日の番召喚の儀でヴァレリオ様の本当の番は現れるのだから。
番召喚の儀の為に作られた塔の一室に、当人のヴァレリオ様と暫定婚約者のわたくし、それからご両親である竜王陛下と王妃殿下、宰相や大臣などの重鎮にヴァレリオさまの側近、そして儀式の補助を行う魔法士達が集まった。
窓はないが光魔法で明るく保たれており、皆がどうせ番はわたくしだから現れないだろうと気楽な表情をしているのがよく分かる。本当は違うのだとため息をつきたくなるのをグッと堪えた。
最初はもっと早く番召喚を行ってくれていれば傷も浅く済んだのに、と恨めしい気持ちで儀式を見守っていた……が。なんと直径が両手を広げた長さ程もあろうかという召喚陣を全てヴァレリオ様の血液で書き上げるらしく、その為にずっと血を流し続ける彼の姿に段々と心配になってくる。いくら人間よりもずっと丈夫な竜族とはいえ、成程これでは子どもの頃に召喚を行うのは難しいだろう。
「準備はこれで整いました……陛下」
「ああ。ではヴァレリオ、始めなさい」
人間の身からするととても千年以上生きているとは思えない……精々二十代後半だろう若々しい姿の竜王陛下だが、その声には何者も逆らえないような神威が感じられた。わたくしの背筋も自然と伸び、儀式に対して不満げだったヴァレリオ様も、表情を引き締め畏まりましたと恭しく頭を下げる。
……いよいよだわ。
ああ、あれが予知夢ではなく、ただの夢だったならいいのに。
召喚陣の手前に立って彼が陣に神力を流す姿を、祈るように両手を組んで見つめる。番が見つかれば召喚陣は光を放ち、見つからなければ黒ずんで消えるのだが──。
「光りましたぞ!」
「何!?」
祈りは届かず、わたくしが見た予知夢の通りにそれは白く光を放ち周囲をどよめかせた。
「ジュリア嬢が殿下の番ではなかったのか!?」
「まさか……あれで素の神力量だと?」
「番を得たら一体どれほどの……」
「これは次の竜王はヴァレリオ殿下で決まりだな」
発動から召喚までに少し時差がある。毎月朔日のこの時間は番召喚が行われると周知されている為、未婚の男女は僅かな可能性とはいえ一応予定を開けている筈だが、番の元にも召喚陣が現れてから慌てて体裁を整えたり、周囲に知らせる時間くらいは与えられるというわけだ。
その間その場にいた面々は驚きを隠せないように、口々にヴァレリオ様とその番への期待を言い出した。……が、ただ一人ヴァレリオ様だけは膝から崩れ落ち、受け入れ難いと言いたげに首をふるふると横に振っていた。けれどそばに駆け寄ってその背を撫でることも、もう許されない。竜族は、番以外の異性から触れられることを酷く嫌うのだ。
「う、そだ……」
その視線が縋るようにわたくしへと向けられる。
「いらない……私は、君じゃないなら、番なんかいらない……!」
金色の瞳が滲み、ポロポロと大粒の涙がその滑らかな頬を滑り落ちていく。
ああ、駄目ですわヴァレリオ様。番を求めるのは竜族の本能なのでしょう? 出逢えば愛さずにはいられないというからきっと大丈夫です。これから千年共に生きていく相手に会うのに、そんな酷い顔をしていてはいけないわ。
それに──今ここで駆け寄っていつもの様に抱きしめようとしてはくれない、それが答えでしょう。
「……どうかお幸せに」
心がこもっていないからか、思ったよりも小さな声しか出せなかった。けれど彼の耳には届いたらしい。その顔が絶望に染まっていく。
何か言いたげにヴァレリオ様が口を開きかけた時──光が目もくらむほどの強さになって、一人の少女の声が響いた。
「──まぁ! その服もしかして王子様なの? ってことは……私、お姫様になるの!? 嬉しい! 私はラウラ。ラウラ・ブロットよ!」
夢で見た通りの金髪に、恐らくまだ十代前半だろう幼い見た目だが意志の強そうな碧い瞳。一字一句違わない最初の言葉。ヴァレリオ様が涙に濡れた目で彼女を見上げ……。
私はこれ以上この場に留まる事が出来ず、逃げるように部屋を出た。