7 黒猫令嬢の恋
「失礼いたしますわ!!」
執務室の扉を開けて一人の女性が入ってきた。リリーが向けた目の先にいたのは黒髪を複雑に結い上げた令嬢だった。落ち着いた赤のドレスが彼女の豊満な体型とキツめの顔立ちによく似合っている。夜会ならばその胸の谷間も蝋燭の明かりで映えることだろうがここは執務室。彼女に似合っていようがいまいが仕事をするこの部屋にふさわしくない格好ではあった。
「アレクサンダー様!また私の邪魔をなさったのね!!」
ただでさえきつい眦をつり上げた令嬢はもしもリリーがその視線を向けられたら泣いてしまうのではと思うほど圧が強かった。
(お美しい方だけれど怖いわ)
「おやおやシシィ。どうしたんだいそんなに興奮して」
「父から聞きましたわ。私の縁談に横槍を入れてこられたって!!」
「そんなことは」
「殿下。先日後回しにされた書類が婚約許可証でした」
アレクサンダーの後ろに回ったトリスタンがこっそり彼に耳打ちをした。がリリーのいる場所にまで聞こえているのだ令嬢に聞こえていないわけがない。
「なんだって!!」
アレクサンダーは大げさに驚いてみせたが精霊の呪いがなくてもひと目で嘘だと分かる猿芝居だった。だがその驚きようも優美な美貌の彼がやれば絵になる。リリーは実務をこなすための簡素な部屋が一瞬にして楽団が舞台下で控える歌劇場になったように感じた。
「シシィ。済まなかった。こんなにたくさんの書類を毎日みているんだ。君の書類が紛れてしまったんだと思う。わざとじゃないんだよ」
悲しげに眉を寄せてアレクサンダーが令嬢に近づこうとすると彼女は後ずさり距離をとった。
強い視線でアレクサンダーが近づかないように牽制をしている姿はある動物を思わせる。
「3ヶ月も待たされたとお相手が怒ってしまわれました!!もう私には時間がないのです!!いいかげんあきらめてください」
「だから誤解だってシシィ。話を聞いてくれよ」
「嫌です!!アレクサンダー様なんて大嫌いです!!」
頭を振って叫んだ令嬢にリリーは息を止めた。
歩み寄ろうとするアレクサンダーにつかまらないように令嬢は踵を返す。そのまま令嬢にあるまじき勢いで部屋を出ていった。
アレクサンダーはシシィが出ていった扉をしばらく見ていたが不意にリリーの方へ振り返った。
「猫みたいで可愛いだろう?」
優しい瞳になんと答えるべきかリリーは一瞬まごついた。
甘い空気をまとったアレクサンダーは中庭でリリーを抱きしめた男にそっくりで胸がおちつかなくなる。
「さぁ仕事にもどろう」
何事もなかったかのように皆は仕事をはじめた。
春の嵐のような令嬢はシシィというアレクサンダーの従姉妹だということをリリーが知ったのはその日の仕事が終わる頃だった。
自室に戻り男装を解きながら今日の出来事を思い返す。
(そうかシシィ様は王太子殿下が大好きなのか。そしてアレクサンダー殿下も彼女を)
精霊の呪いが教えてくれなくても部屋にいたもの皆が分かっていたであろう事実ではあったが口を開かずに耐えた自分を褒めながらドレスへと着替えるリリーであった。