裏側 歯車は回り出す
小見原唯は、小学校のころからパソコンで遊ぶのが好きだった。もちろん外に出て友達と遊ぶことも多かったが、家に帰ったらすぐにパソコンに齧りつく毎日だった。
きっかけは、母がくれた勉強用フリーゲームだった。マウスを動かして答えをクリックすると、紙芝居のようにストーリーが進んでいくという、よくある子供向けの内容だ。
小見原は問題よりもストーリーにつられてゲームを続けていた。次々と変わっていく背景やキャラクターの表情を見ながら、自分が実際にこの世界に入ったらどうなるのだろうと夢想するのが好きだった。
その思いがいつの間にか、自分でこのような世界を作ってみたいというものに変わった。ゲームを真似て紙芝居を自分で作ったり、それを両親に見せて褒めてもらったり、自分でストーリーを作り上げていく喜びをじわじわと噛みしめて成長していった。
そうして小学校高学年になったころ、ついに自由にパソコンを使えるようになったので、フリーゲーム制作ツールで簡単なゲームを作り始めるようになった。
これがあれば自分が想像したゲームが作れる。そう思って気軽に始めたのだが、フラグの管理や一つ一つの場所移動の設置が面倒だったり難しかったり、思い通りにいかなかったりで、何度か挫けそうになった。
意地になって完成させたゲームは、初めてやった勉強用ゲームソフトよりもチープなものだった。だが、自分でもこんなものが作れるのだと感動して、もっと自分の世界を作りたいと思うようになった。
そんな時、子供から大人まで使っている有名動画サイトのウィーチューブで、素人が作ったという曲に出会った。たまたま暇だったのでその動画を開いてみると、その曲は素人とは思えないほど完成度が高く、概要欄には初投稿とまで書かれていた。
曲を聴き終えた後、小見原の感情は大いに荒れ狂った。自分よりももっと凄い人間がいることが悔しくなったし、それ以上に尊敬し、作曲者の虜になってしまった。
作曲者の年齢は同い年だろうか。どんな人なんだろう。どんなイメージでこんな凄い曲が生まれたんだろう。
次第に小見原の頭の中では、完璧な人格を持った作曲者の人物像が出来上がった。その完璧な人間の作る曲は、これでもかと小見原の妄想を刺激して、さらなる想像の世界を広げてくれた。
当時フリーゲーム制作をまだ続けていたこともあって、小見原は一度、その人の曲から生まれた世界観をゲームで再現してみたくなった。
だから、大胆にも、作曲者であるYUIIに直接メールを送ってお願いしてみた。あなたの曲でゲームを丸々一つ作ってみたいから、一曲作ってみて欲しい、と。
子供だったから、お金のやり取りや必要な契約なんて全く分かっていなかった。なのに相手は契約書もなしにすぐに了承してくれて、二週間後に一つの曲を送ってくれた。
題名は“白白明”。
YUIIはなんと、小見原のハンドルネームの”Akatuki”に合わせて命名してくれたのだ。
まだ試作品だが、と前置きがされていたが、小見原は題名もそのメロディもいっぺんに好きになった。少し悲し気なピアノで静かに仕上げられたそれは子守歌にも似ており、音色が泣いているようだった。その静謐さが堪らなく愛おしく、朝から夜まで毎日のように聴き続けた。
小見原は即座にYUIIへ返信した。
素晴らしい曲を作ってくれてありがとう。それと、この曲からゲームを作り上げるので、完成したらシーンごとに合う曲も追加で作って欲しいとも頼んだ。随分と図々しいお願いだっただろうに、YUIIはまた快諾して、ゲーム完成まで待つと言ってくれた。
そうして完成したゲームをYUIIに送ってみると、なんと彼は五つもあるルートを一日で全部クリアして、ゲームの細かなシーンやキャラクターのテーマまで、合計十一ものBGMを半年かけて作り上げてくれた。しかもすべての曲が世界観に調和していて、小見原が再現したいと思っていた雰囲気をさらに引き立ててくれるものだった。
BGMがつけられた自分のゲームをプレイして、小見原は初めて嬉し泣きをした。その後にYUIIから応援のコメントをもらって、半日も号泣した。
『僕のYUIIとして作ってきた音楽の世界を実現してくれてありがとうございます。あなたのような人にゲームを作ってもらって嬉しかったです。このゲームは僕の一生の宝物です』
そう書かれたコメントが、小見原にとってどれ程嬉しいものだったか。
小見原は必死に長文のコメントを打ち込んで、震える手で精一杯の感謝を伝えた。そうして返信が来ると、今まで感じたことがない喜びで胸が高鳴った。
その後、小見原はYUIIと一緒にゲームを一般公開することにした。
名前は『金星と歌姫』。
王道ファンタジーで、主人公と歌姫が、とある事件を境に行動を共にすることになり、世界各地を巡って歌で人々を癒していくという、よくあるものだった。『金星と歌姫』は徐々にフリーゲーム界隈で有名になり、実況動画がウィーチューブに上げられてからは爆発的に人気になった。今ではフリーゲームのおすすめサイトで当たり前のように掲載され続けている。
しかしこれでも、小見原は満足できなかった。
もっとYUIIの世界を広げたい。自分が作れるような簡単なゲームでは、あの人の曲の世界を再現しきれない。
曲とくれば、歌だ。歌であれば自分でもできる。
小見原はすぐに歌の練習を始めた。YUIIは以前にも誰かのために歌付きの曲を作ったことが何度かあった。であれば、自分が誰よりも歌が上手くなってYUIIの歌を歌えば、ゲームのとき以上に、もっとみんながYUIIの才能に気づいてくれるに違いない。
YUIIの曲に相応しい歌手になるために、小見原は毎日毎日、学業と時間が許す限り歌い続けた。両親も小見原の歌手の夢を応援してくれて、ボイストレーナーまで雇って一緒に時間を割いてくれた。やがてカラオケで高得点を出すのは当たり前になり、歌番組からも一度出てみないかと誘われた事がある。だが小見原はそれをすべて断った。
自分が有名になるために歌い始めたわけじゃない。全てはYUIIのためだ。時に涙が止まらなくなる辛い夜もあったが、小見原は決して立ち止まらなかった。
だがYUIIは、小見原がどんなに成長しても昔と変わることなく同じ場所に立っていた。じわじわと増えていくYUIIの動画の再生回数。三か月に一度の投稿。SNSでも冴えないつぶやき。
小見原は自分が進歩していくにつれて、いつの間にかYUIIを追い越して、むしろ置いて行っているような気がしてきた。他人からの評価を受け取るためにSNSで歌声を上げている小見原のフォロワーは五千人を超え、イメージイラストまで描いてくれる人が現れた。対してYUIIは、千人のフォロワーが残っていたが、ゲームを公開した最盛期はもっと人が多かった。誰がどう見ても、YUIIは落ちぶれていた。
小見原はSNSで何度かYUIIのことを喧伝したが、やがてそれもしないようになった。自分がどんなに応援しても、YUIIは自分に追いつこうとしてくれない。Akatukiのアカウントでメールを送れば応えがあるが、曲にもう熱意がないことは、言葉の端々から伝わってきた。
ゲームであれだけ人気になったのに、YUIIは一つも変わらないどころか、燃え尽きてしまったようだ。ゲームだけが評価されて、この人は置いて行かれたままだ。
小見原は裏切られた気分になって、ついにYUIIをフォローから外した。それでも諦めがつかず、毎日わざわざ検索までしてYUIIのつぶやきを見に行ってしまうのだから、本当にやりきれない。
中学校の卒業式が終わって、高校の入学式が目前になっても、YUIIは変わってくれなかった。
高校に入ったら、もうこの人のことは忘れてしまおう。
小見原は何度もそう心に決めて、桜が満開の入学式を終えた後に、今度こそ見るのは最後だとYUIIのつぶやきを覗いてみた。
そこには、珍しく写真が投稿されていた。新しい季節、という一文で、黒い袖に乗った一枚の桜の花びらを写したそれは、なんの面白みもないものだった。
そのはずなのに、小見原は食い入るように写真を凝視していた。YUIIが来ているであろう黒い袖が、仕立てたばかりの学ランに見える。ピントのズレた背景のアスファルトと正門らしき黒い鉄の形が、入学したばかりの高校によく似ているような気がする。
もしかしたら、YUIIも自分と同じ高校に入学したのかもしれない。
勘違いかもしれないのに、小見原はそうと思い至った瞬間心を燃え上がらせた。
いてもいなくてもいい。一眼だけでもYUIIに会いたい。
決めたらあとは早かった。小見原は授業が始まる初日からクラスメイトの顔と名前を全て覚えて、YUIIらしき人間を探し始めた。
情報が少ない中、SNSの個人を特定するのは困難なことぐらい小見原も分かっていた。だが、もし学校の日常風景の一つをYUIIがSNSに上げたらと思うと、クラスメイトの監視も手を抜けるわけがなかった。
一日、二日、三日と過ぎて、ついに一週間が経過しても、YUIIの投稿内容に合致する生徒は現れなかった。YUIIの性格や行動を予想して的を絞ったのに、どれもハズレに終わった。
もう別のクラスに的を絞ったほうがいいのかもしれない、と小見原が諦めかけたころ、国語の授業でノートの回収が行われることになった。一番後ろの席の人が、前にノートを提出するついでに前に座っている生徒たちのノートを回収しなければならない面倒な時間だ。
こういう時、窓際の一番後ろの席は快適じゃないとつくづく思う。先生は前の席よりも意外と後ろの席ばかりを見ているし、何かあったときは大体一番前の人か後ろの席の人ばかりが駆り出される。ノートのメモも途中で切り上げなくてはいけないから、小見原は早く席替えをしたくてたまらなかった。
座席で一番楽な場所は、小見原の前の席にいる、雨谷とかいういつも寝ている男子の席だ。目立たないしノートの回収もない。窓が近いので風に当たれる。どうせ雨谷は授業中にほとんど寝ているのだから、いっそ席を変わってほしいぐらいだ。
はっきり言って、小見原は雨谷のことが好きではなかった。
自己紹介の時も雨谷は自分の名前を軽く言っただけ。積極的に周りに話しかけようともしないでスマホばかりいじっているので、まだ学校が始まって数日だというのにクラスの中で彼は浮いていた。しかも、真面目に授業を聞き出したかと思えば、次の瞬間には寝ているなんてこともしょっちゅうだ。
こんな努力を知らないどうしようもない人間が自分のすぐ前の席にいると、小見原は自分の努力を嘲笑われている気がしてイライラした。ただでさえ、YUIIにつながる手掛かりがなくてなんの成果も得られていないから、日ごろの憎しみは雨谷へと集中していた。
ノートの回収のために席を立った小見原は、今日も机に突っ伏したままの雨谷を上から睨みつけた。雨谷が机に突っ伏しているせいでノートを回収できない。だが、こいつなんか起こす価値もない。
小見原は雨谷の腕の下からノートを乱雑に引っ張って勝手に回収した。
だがその拍子に、雨谷の腕に隠れていたもう一つのノートがあらわになった。
「……え」
そのノートには、びっしりと細かな楽譜が書かれていた。定規で引かれた直線に書きなぐられた四分音符は、筆記体のように滑らかだ。明らかに楽譜を書き慣れている筆跡である。
小見原は自分の机の横に下げられた鞄から素早くスマホを取り出し、みんなのノートを教卓に提出してから、帰り際にそれを写真で取った。
周りが雑談をしてくれて助かった。小さなシャッター音はかき消されて、誰にもバレることなく、小見原のスマホの中に楽譜が保存された。
何事もなかったかのように装いながら小見原は着席した。緊張で乾ききった口の中で舌が上顎に張り付いている。慌てて生唾を飲み込んで、こっそりと先ほどの写真を確認した。
小見原は歌の練習をしていると言っても、譜面の音符を見ただけで音が分かるほどではなかった。確かめるには楽器がいる。スマホにピアノアプリが入っているが、イヤホンもない状態で弾くわけにはいかない。
でも、YUIIの手がかりかもしれないのに。
このまま早退してしまいたかったが、高鳴る心臓をどうにか深呼吸で押さえ込んだ。できるだけ冷静になるよう自分に言い聞かせながらその日の授業を全て受け、ホームルームももどかしく終えて急いで家に帰る。友達に呼び止められた気がするが、気にする余裕は全くなかった。
駅まで全力疾走して、改札に定期を叩きつけて駅を抜け、一つ早い電車を使って帰宅する。家にはすでに母が帰ってきていたが、ただいまと叫びながら小見原は自室に飛び込んだ。
ベッドの上に放置されていたイヤホンを引っ掴んで、震える手で何度も失敗しながらスマホに差し込む。そして写真を頼りに慣れないアプリの鍵盤で弾いてみた。
リズム通りに弾いてみると、たった一フレーズですぐになんの曲なのか分かった。
「白白明だ……」
YUIIが、自分のために作り上げた曲。忘れるわけがない。辛いときには必ず聴いて励まされてきた、一番大好きな曲。
「――――ッ!」
小見原は枕に顔を押し付けて、声なき歓喜を上げた。スマホを握りしめる両手が震えて止まらない。全身を駆け巡る興奮はなかなか収まらなかった。
すぐ近くに、幼いころから憧れた人がいる。しかも自分と同じクラスの、前の席に。
理解した瞬間、喜びから一転して、今度は胸を締め付けるような悲しみに襲われた。
憧れの人の、あんな姿を見たくなかった。
休み時間の間はずっとスマホを見て、にこりともしない。
授業態度も適当で、まるでいいところが見つからない。
あんなダメダメな人なら、曲の人気が出ても努力しようとしないのは当たり前だ。
完璧ですごい人間が作ったのだと幼いころから勝手に想像していたせいで、小見原はその落差に深い失望を覚えた。
その日は夕食も喉を通らなかった。両親にかなり心配されたが、部屋から出ることもしないで、歌の練習もせず、ベッドで丸まってずっとイヤホンの中に耳を傾けていた。流れてくるのは今までYUIIが作ってきた曲の数々。その中には小見原がAkatukiとして作ったあの『金星と歌姫』のBGMも入っていた。
考えているうちに、小見原の頭の片隅で疑問が浮かび上がった。
彼は本当にYUIIなのか、楽譜だけで決められないんじゃないか。ただYUIIの作った曲から楽譜をノートに書き起こした、ただの一般人の可能性もある。だったら彼はYUIIではない。
確かめるには、彼に曲を一つ作らせてみればいい。
本物のYUIIならば、小見原を今まで感動させてきた曲と同じメロディの癖が出るはずだ。
小見原はベッドから起き上がると、スマホをスクロールしてYUIIの弱点になりうるメッセージを探した。そしてAkatukiとの個人的なメールのやり取りの中に見つけた。
『僕は両親に隠れて曲を作ってるんだ。できれば一生バレたくないよ』
世間話の中にぽつんと出てきた、どうしてお互いが匿名でネット活動を続けているのかという話題。
個人のプライバシーに関わるもの。しかも小見原を信頼していたからこそ漏れ出たYUIIの本音だ。それを、自分は悪事のために利用しようとしている。
でも、相手が雨谷なら別に構わないだろう。雨谷はいつも俯瞰したような態度で、小見原はそれが嫌いだった。どんなに雨谷のことを思い返してみても、一つも良いところが見当たらない。人の目を見て話さないし、授業で指名されても声が小さい。努力もしないで、才能があるのに自信がなさそうで。
「大っ嫌い!」
小見原はスマホの電源を落とすとベッドに叩きつけ、全力で枕を殴りつけた。
次の日の放課後、小見原はまだ冷めやらぬ怒りに任せて、教室に一人残っていた雨谷に初めて声を掛けた。
「ねぇ、雨谷君。ちょっと一緒に来て」
そうして見上げてきた時の彼の目は、夕日に照らされて泣き腫らしたように赤かった。
彼がYUIIだなんて、絶対に認められなかった。