裏 最後の火
沖釜空歩の脅迫事件は、表沙汰になることなく無事に終わったらしい。阿藤から事の顛末を聞いた秋葉は、実感がないままお疲れ様とだけ返事をした。
結局、自分が小見原のためにしてあげられたことはあっただろうか。あの写真は有効活用できたらしいが、阿藤がこちらを慰めるために嘘を言った可能性だってある。秋葉の前で本音をズバズバ言うようになったあの男に限ってそんなことはない、とは思うが、秋葉はこの仄暗い思考を止められなかった。
ライブからも厄介ごとからも解放されたのなら、ライブのチケットを渡してくれなかったことを後腐れなく聞けるのは今しかない。
けど、変に波風を立てる必要はあるだろうか?
そんなマイナス思考がまた秋葉の意思を引き留めてくる。
自室でもだもだと悩んでいた秋葉は、ベッドの上でバタバタ足を動かすのをやめてぐっと身を起こした。
「……よし、ちょっと聞くだけ。メールでほんのちょっと……」
いざメールを作成しようとした瞬間、一階のリビングから母親の声が響いてきた。
『そろそろ降りてきなさーい! 唯ちゃん来てるわよー!』
「ぅえ!?」
まったく予想していないところから小見原の名前が聞こえてきて、秋葉はベッドの外へ飛び上がった。事前に小見原から家に遊びに来るなんて連絡は来ていなかったし、夏休みに入ってからはほとんど連絡も取っていなかったのだ。それがどうして急に。
秋葉は困惑しながらもさっと自分の格好を見下ろす。幸いすぐに人前に出られる格好だったが、髪の毛は寝癖でボサボサだ。急いでキャビネットからヘアゴムを取り出す。
「大丈夫だよね、これで変じゃないよね?」
『ちょっとー! 早く降りてきなさいよー!』
「もう少し待ってて!」
せっかちな母親に大声で応えながら、鏡の前で何度も髪を確認した後、秋葉は勢いよく自室から飛び出した。どたどたと足音を立てて一回に降りてみると、リビングのソファにはちょこんと小見原が座って待っていた。
「お、お待たせ」
「ううん。ごめんね、いきなり押しかけてきちゃって」
「いいよいいよ。暇だったし」
秋葉は愛想笑いをしながら小見原の向かいに座って、テーブルの端にあったお菓子入れを真ん中へ寄せた。そこからチョコレートクッキーを取ると、小見原も勝手知ったる顔でクラッカーの袋を掴んだ。幼い頃からよく互いの家に入り浸っていたから、今更お菓子ひとつにいただきますを言う必要がない。こういう関係性を見ると、秋葉はまた性懲りもなくあんしんしてしまうのだった。
秋葉はほんの少しだけ緊張を和らげつつ、クッキーを半分咀嚼してから小見原へ話しかけた。
「お昼食べてきた?」
「食べた。そっちは?」
「少し前に食べたところ。ちなみに素麺」
「実は私も」
会話は良好。学校にいるときよりも壁が薄い気がする。秋葉は手応えを感じながらも、いつライブのことを切り出すべきか頭を悩ませた。
すると、先にクラッカーを食べ終えた小見原が、指先をティッシュで拭きながらこんなことを言ってきた。
「ねぇ、ライブの感想聞いていい?」
「……え?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
小見原は秋葉の反応を見て困ったように笑いながら、二つ目のクラッカーの小袋を手にとった。
「やっぱり図々しいかな。それとも…来てくれなかった、とか?……」
「い、いや……チケット貰ってないし、そもそもライブのこと聞いてなかったから」
言い終わってから、しまったと秋葉は口をつぐんだ。どストレートに伝えすぎて、今度こそ嫌われたかもしれない。だがこれもまた秋葉の予想に反して、小見原は大きな目をキョトンとさせていた。
「夏休みに入る前に言わなかったっけ。チケットはちーちゃんのお母さんに渡しておくから、時間があったら来て欲しいって」
「そ、そんな話した!?」
「したよ? テスト終わりに。そのあとすぐ、ちーちゃんが私を置いて帰っちゃったけど」
テスト終わりで、秋葉が一人で帰った日。それはちょうど小見原の事務所の様子を見に行って、例の怪しい男と雨谷の母親の密会を目撃した日だ。あの日は上の空で小見原の職場を見ることだけ考えていたから、きっとライブの件を聞き流してしまったのだろう。
ということは、小見原は意図してライブのことを知らせなかったわけではなかった。嫌われていなかったのだ。こんなことなら、ちゃんとメールでやり取りをすればよかった。
じわりと胸の内に後悔が滲むのを感じながら、秋葉は食べかけのクッキを置いて謝った。
「ご、ごめん唯。でも、それならお母さんがチケット渡してくれるはずじゃ……」
と、秋葉がキッチンの方へ視線を巡らせると、なにやら物思いに耽っていたらしい母がパチンと両手を叩いた。
「あ! あのチケットもう日にち過ぎちゃったの!? やだー、てっきり来週かと思ってたのよー!」
「こ、このっ……お母さんのバカーーーーーッ!」
秋葉は思い切り椅子を蹴飛ばしながら立ち上がり、キッチンの母に飛びかかった。べしべしと背中を叩かれても母はニコニコしているだけで、全く反省していなかった。
「だぁって、あんたがライブのこと何も言わないから、まだ先の話なんだろうなって思っちゃってねー」
「普通チケット見るでしょ! 調べるでしょ! お母さんのバカ! 嫌い!」
「もう終わっちゃったんだし、今更言ったってしょうがないでしょ? それより、折角のライブ見逃しちゃったわねぇ」
「あ……」
秋葉は頭から血の気が引いていくのを感じながら小見原を振り返った。小見原は母に入れてもらった麦茶を飲みながら、気丈にも人当たりの良い笑顔を浮かべていた。
秋葉は慌てて彼女のそばに駆け寄り、あわあわと手を彷徨わせてから正直に真実を告げた。
「ごめん唯。さっきちゃんと言えばよかったんだけど、本当は観に行ってたんだよ、ライブ」
途端、小見原はガバリと顔を上げて、キラキラした瞳を秋葉へ向けた。
「ほ、本当!? でもチケットよく買えたね。阪口さんは完売したって言ってたのに」
「実は阿藤に譲ってもらったの。一枚余ってるからって。……だから、ちゃんと観たよ、キユイのこと」
たどたどしく言葉を紡ぎながら、秋葉は視線を斜めに下げた。視界の端では、小見原の満開の花のような笑顔がうっすら見える。
その顔を見る資格なんか、自分にはない。
そう秋葉は思い込んでいた。だが、
「よかった。私一番にちーちゃんに観てもらいたかったから、すごく嬉しい」
惜しげもなく素直な感想を言われて、秋葉はつい彼女に向けまいとしていた目を上げてしまう。そしてパチリと、小見原と秋葉の視線が重なった。
「ちーちゃんは一番最初に私たちのこと応援してくれたし、こっそり曲も聴いてくれてたの知ってるよ。それで、ライブどうだった? 最初よりもちゃんと上手くなってたかな」
少し甘えた調子で尋ねてくる小見原は、今まで通りの幼馴染だった。舞台で勇ましくマイクを握っていたキユイとは思えないぐらい、可愛らしい妹分がちゃんとそこにいた。
阿藤が散々言っていたのは、こういうことだったんだ。
秋葉はひどく納得して、いつの間にか笑っていた。
「ふふ、あはは!」
「どうしたのちーちゃん?」
首を傾げる小見原がますます子供っぽくて、秋葉は込み上げてくる感情が目尻に溜まるのを感じた。こっそり人差し指でそれを拭いながら、秋葉は朗らかに言った。
「ふふふ、笑っちゃうぐらい最高のライブだったよ」
「それ褒めてる?」
「褒めてるよ。ステージの唯ったら、全然雰囲気が違くて驚いたんだから。後半なんかみんなと一緒に頭振ったりぴょんぴょん跳ねて……」
「うわー! それは思い出さないで!」
大声で遮る小見原の横で、今度は成り行きを見守っていた母がちょっかいを出し始めた。
「ねぇねぇ、ライブ行ったんならDVDとかあるでしょ。今度買ってくるからどのシーンかちょっと教えてくれない?」
「いいよ。五曲目からの唯の動きが本当にすごくてさ……」
「もうやめてぇ! あの時はテンションおかしかっただけなの!」
顔を真っ赤にして悶え始める小見原を、秋葉は母と結託しながらからかい続けた。ますますキユイのイメージとかけ離れていく幼馴染を見て、秋葉はようやくひとりのファンとして白雨キユイを応援できる気がした。




