(4)ピッチ誤差
小見原から曲のリクエストをある程度聞き出したお陰で、彼女のために作る曲もはっきりとイメージできるようになった。普段であれば曲の全体の構成を掴むために数日かかるのだが、今はアイディアが溢れ続けて頭がパンクしてしまいそうだった。
そんな浮かれ気分でカラオケの会計を済ませようと、雨谷は一足先にレジに向かった。
財布を開いてはたと気づく。
自分の手持ち金額は百円玉がたったの一枚。到底カラオケの代金を払えるものではない。
小見原は会計前で不自然に硬直した雨谷の異変にすぐに気づいて財布をひったくり、その中身を見て愕然としていた。
だが彼女は元から全部払う気だったらしく、雨谷を罵倒しながら気前よく店員に一万円を渡して勘定してくれた。
あれだけかっこつけた癖に割り勘もできない自分が恥ずかしくて、その日雨谷はまともに彼女の顔を見れなかった。今日という日は、いろいろな意味で忘れられないだろう。
それから帰宅して早速、雨谷は二階の自室に飛び込んでソフトを起動し、忘れないうちにギターで音色を作りながら楽譜に音符を書き始めた。
すでに主旋律や全体のイメージは決まっている。
彼女らしく弾けた出だしで、だが抑えるところは抑えて、強弱がはっきりとした曲にしたい。
題名は候補が多すぎてまだまだ決められないが、とりあえず頭の中に溢れ続けている音色を落とし込むことに集中した。
歌ありきの曲を作るのは一年ぶりだが、今の雨谷は自信で満ち溢れていた。今まで自分の作曲は趣味の一環で、時々依頼を受けてお小遣いを稼ぐ程度のものだった。
だが小見原の歌声を聞いて、彼女が歌手になりたいと言ったのを見て、自分の中で曲に対する姿勢が明確に変わった。
趣味ではなく仕事としてでもなく、ただ、自分の曲で誰かを導いてみたいと真摯に思ったのだ。
親が家にいないことをいいことに、雨谷はギターを遠慮なくかき鳴らして、一心不乱に歌と楽譜を組み合わせていった。
「よし」
一通りできたら、今度は自分で歌ってみたものを録画し、ソフトに取り込んで、他の楽器と混ぜてベースを組み立てながら作業を進める。音階を操作する指先はピアノのマエストロのように滑らかに動いて、数時間もかかる作業を一時間と少しで終わらせてしまった。
無我夢中で制作したものを、一旦自分で聴き返してみる。
イヤホンから伝わる重低音が、思っていた以上に心地よい。強弱の表現が思いのままに完成されているから、自分の曲だというのに鳥肌が立ちっぱなしだった。
今すぐにでも、小見原にこの曲を聴かせてみたい。彼女の純粋な反応を見てみたい。
だが、まだダメだ。
雨谷はもう一度聴きたいという欲求をどうにか押さえ込んで、彼女の要望と照らし合わせるように慎重に調整作業に入った。
彼女のための曲だから、彼女が好きそうなものを取り入れつつ、自分らしさを薄れさせて曲の主体を入れ替えていく。
そうして積み上げていくだけでも、歌詞のフレーズが止めどなく脳裏に流れてきた。無くさないように一つ一つ、忘れないうちにメモに書き殴る。
あっという間に、曲も、歌詞も完成した。
後は小見原に一度聴いてもらって最終調整をして、最後に彼女に歌ってもらえば終わりだ。
命令された当初は一か月以上かかると思っていたのに、インスピレーションとやる気だけで半分以上の工程をすっ飛ばした気がする。
「はぁ……」
背もたれに寄りかかって息をつくと、久しく呼吸を忘れていたからか緊張していた視界が一気に開けていった。
埃っぽい自分の部屋でも空気がおいしく感じられるし、窓から見える夕暮れの住宅街も、大自然の雄壮な一面を切り取ったもののように見えてきた。
その景色にポツポツと家の明かりが浮かんでいることに気づく。集中しすぎたあまり、日が暮れていたのに全く気づかなかった。
雨谷は手探りでリモコンを探り出し、部屋の電気をつけた。
パソコンに照らされていた室内がぱっと明るくなり、楽譜やらメモやらギターケースやら、物が散乱した部屋の姿が露になる。凄惨な散らかり具合で流石に罪悪感に駆られたが、それ以上の達成感が、清々しく自分の身体を吹き抜けていった。
明後日の日曜日には、小見原と相談しながら微調整を重ねる予定だ。その時までに彼女にメインボーカルの音程を教えられるよう、自分も歌えるようにしなければ。
幸い明日の土曜日は何も予定が入っていないので歌の練習時間には事欠かない。今日もまだ日が暮れたばかりなので、父が帰ってくるまでに何回か歌えそうだ。
せっかくだし、と雨谷は歌詞が書かれた紙をパソコンの画面に立てかけた。椅子に座り直してギターを太ももに乗せ、マイクの位置を調整する。
「あー、あー」
緩く鳩尾に力を入れて発声練習をした後、弦の上に指を置いた。深呼吸をして、ベースの一音一音を確かめながら軽快に歌い出す。
「風光る霞に走り出した 赤い尾を引くわたしは走り出した──」
雨谷の脳裏では、夕暮れの教室の風景と初めて声をかけてきた小見原の姿が鮮明に焼きついている。
暗い図書室で小見原に脅されたときは、どうして自分がこんな目に、と悲観した。他人から強制された曲なんて、真面目に作るつもりもなかった。
どうせ相手は素人だろうし、真剣に作る義理もない。それどころか自分の唯一の趣味を奪おうとしたのだから、恨むべき相手だった。
なのに、たった一日、しかも放課後の短い時間だけで、小見原の印象がガラリと変わってしまった。
いや、自分の人間関係が一気に変わったからそう見えただけかもしれない。なにせ、雨谷の人生で一番大勢の人間に話しかけられた一日だったのだから、きっと雰囲気に流されて、小見原の性格が変わったように見えただけなのだろう。
だが、そうやって自分を説得しようとしても、雨谷は小見原のことを考えるのを止められなかった。
小見原の行動の一つ一つの感情は分かりやすいのに、どんな理由で動いているのか雨谷には全く理解できない。自分以外の人に作曲を頼まなかったことも、昼休みに大きな声で動揺したことも、体育の授業で怒っていたことも、全て分からない。だから、彼女を表現してみたくなったのかもしれない。
もちろんこの一曲だけで小見原のすべてを表現できるとは思っていない。しかし小見原との関係はこの一曲だけで終わるだろう。そういう契約だ。
それでも、自分は隠れて彼女の曲を作ってしまうかもしれない。こんなに思い通りで満足のいく曲を作れたのは、全部彼女のお陰なのだから。
執念深すぎる、と雨谷自身も思う。
もしこのことを小見原が聞いたら「キモい」とまた言ってくるに決まってる。以前は彼女の刺々しい言葉も受け流せたが、こればかりは無理かもしれない。だからこれは、小見原にも話さない一生の秘密だ。
「赤い約束を続けたいの ずっと ずっと 月が 昇るまで」
歌い終わってすぐ、雨谷は床にギターを置いてベッドにダイブした。枕を顔面に押し付けて、燃えるように熱い頬を隠すようにごろごろとシーツの上を転がりまわる。
改めて歌詞を見返すと、私情がダダ漏れすぎる。小見原との別れのことを考えておきながら、別れたくないだなんて女々しいにもほどがある。
こんな歌詞で完成したと息巻いていたなんて、恥ずかしい、恥ずかしすぎる。
明日彼女に見せるものだから、早く描き直さないと。
ペンを鷲掴みにしたところで、スマホのアラームが鳴った。父がいつも帰ってくる時間に合わせて設定したアラームだ。
まずい、見られたら消されてしまう。
雨谷は急いでギター以外の作曲関係のものをベッドの下や押し入れに隠した。楽譜は小見原の要望が書かれたルーズリーフと同じファイルへ挟んで、できるだけ丁寧に机の引き出しに入れた。ついでに念には念を入れて、机の上に誤魔化し用の参考書を広げておく。
「これでよし!」
ひと段落して軽くストレッチをはさんだ後、雨谷は椅子に座り直した。それから参考書ではなく、ノートの隅っこにペンを置いて、歌詞に使えそうなフレーズを諦め悪く書き始めた。
…
……
………
ついに日曜日が来た。
普段から休日にランニングに出かける習慣があったおかげで、家を出ても父親からは不審に思われなかったと思う。母親はそもそも別居中なので問題はない。
今日ばかりはほとんど会話をしない父親との関係に感謝した。
雨谷はギターケースを肩に背負いなおしながら駅まで走る。黒い帽子を目深にかぶってマスクまでしているせいで不審者のような格好だが、こうでもしないとまた小見原が不機嫌になってしまう。それに日曜日となれば駅でクラスメイトに見つかるかもしれないし、小見原との関係を知られたら雨谷も困るのだ。今日ばっかりは、職務質問されないことを祈るしかない。
数分かけてようやく見えてきた駅周辺は、休日の若者から老人まで大勢の人間が行き交っていた。バス停付近の桜はほとんど散りかけて、緑の葉っぱが枝野先端の方から頭を出し始めている。日陰に位置している桜はようやく満開を迎えた頃だが、天気予報ではもうすぐ雨が降ると言っていたのですぐに散ってしまうのだろう。
雨谷は惜しむように桜を眺めつつ駅の改札口へ向かった。人込みをかき分けて邪魔にならないように壁際に寄って、小見原が乗ってくるであろう九時五十五分の電車を待つ。
気晴らしにイヤホンを挿して曲を聞いてみるが、歌詞の内容があまり入ってこなかった。
クラスメイトに見つかるんじゃないかとびくびくしているのもあるが、これから小見原に自分の曲を聞いてもらうと思うと緊張で吐きそうになる。
これまで雨谷が受け持った依頼は、ほとんどがネットのやり取りですべて終わるような関係だった。アカウントの名前を変えたり、連絡先を変えてしまえばあっさりと縁を切れるような相手だったから気負わずにいられたし、表情も見えないのでありのままで話しかけることもできた。
しかし、小見原の場合は、実際に会って顔も見えて、しかも同級生だ。こんな奴が曲を作っているのかと幻滅されたらこちらのメンタル的にもショックであるし、学校に通う限りほぼ毎日顔を合わせるから余計に辛いものがある。本気で吐きそうになってきた。
どうせ黒歴史になるなら教師へのうっぷんを連ねた曲も作ってやろうか。
雨谷が目をぎらつかせながら不穏なことを考えていると、改札の向こう側がにわかに騒がしくなった。
ついに小見原が来てしまったか!
ガバッと顔を上げた拍子に、腕に引っかかったイヤホンが耳珠を抉りながら取れた。
鈍い痛みを親指でぐりぐりと逃がしてやりながら今度こそ顔を上げると、ちょうど改札口を通ってこちらに来る小見原が視界に入ってきた。
紺色のミニスカートにふんわりとした白いシャツが風に揺れる。細い手の先には黒色のクールなハンドバッグが下がっており、上品な印象を醸し出していた。
ヒールの高いサンダルが心地よい足音を駅に響かせる。彼女に見とれた通行人が足を止めるので、彼女の前には自然と道が出来上がっていた。
やがて小見原は雨谷を見つけると、真っすぐこちらに歩いてきた。
「待たせたわね」
目の前で足を止めた小見原は、不敵に笑いながら暑そうに髪を後ろに払った。まるでシャンプーのCMのように滑らかに波打つ黒髪に意識が吸い寄せられて、雨谷はまともに挨拶もできなかった。
一方、小見原は腰に手を当てて雨谷の格好を上から下まで観察すると、ちょっとだけ嫌そうな顔になった。
「マスク取って。ただの不審者じゃない」
「取っていいの?」
「なんでダメなのよ」
「ほら、クラスメイトに見られたら、あれでしょ?」
少し要領を得ない受け答えをしてしまったが、小見原は察してくれたようで、ふんと鼻を鳴らした。
「いいわよマスクぐらい。帽子と私服で十分アンタも別人に見えるし」
「そうかな」
「それに不審者を隣に歩かせたくない」
「ひどくない?」
「いいから、早くカラオケに行くわよ」
小見原は勢いよくこちらに背を向けて、サウンドエコーのある方向へ歩き出した。
自動ドアを潜り抜けると、受付には金曜日と同じ店員が立っていた。あちらも雨谷たちの顔を覚えていたようで、なにやらニヨニヨとした奇妙な笑みを浮かべながら部屋番号を渡してくれた。さらには別れ際に、
「頑張ってね」
と耳元でささやかれてしまった。
なにやら勘違いされている気がしないでもないが、わざわざ訂正する必要性も感じられなかったので雨谷はスルーしておいた。しかし小見原の方は顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
こんな男と彼氏だなんて勘違いされれば、小見原にとっては屈辱だろう。雨谷はほんの少しだけ申し訳ない気持ちになった。
気まずい沈黙を保ったまま貸し出された部屋へと移動する。今日はほかの客もいるからか、金曜日よりも狭い部屋をあてがわれた。多少音漏れしてしまうかもしれないが、両隣の部屋には誰もいないのでギターを鳴らしても平気だろう。
小見原はメロンソーダをストローで吸い、雨谷はジンジャーエールをがぶ飲みしながらギターケースを開けた。ケースの中には楽譜や歌詞の紙なども一緒に入っており、それらを一枚一枚テーブルに並べて小見原に見せた。
「これが歌詞?」
小見原は手前に置かれた歌詞の書かれた紙を手に取り、じっくりと目を通し始めた。昨日のうちに私情満載の部分は書き直しておいたので、雨谷の羞恥心はまだ抑えられている。それでも自分が考えたポエムが載っていることに変わりはないので、恥ずかしいものは恥ずかしい。
雨谷は火照った顔を誤魔化すように、壁の方を向きながら説明をした。
「歌詞は形だけだし、後で君が思うように変えてもらっていいよ。一応、一通り曲も完成したから今日は確認だけしてほしいかな」
「早いわね。そんな簡単に作れるようなものなの?」
「……今回はね。自分でもこんなに早く完成したのが信じられないぐらいだけど」
雨谷は肩をすくめながらスマホをポケットから引き抜くと、イヤホンを差しながら完成した曲をタップした。序盤だけ最初に聞いて問題なく曲が流れ出したのを確認し、雨谷はスマホを小見原へ差し出した。
「この中に入ってるから、聞いてみて」
小見原はスマホからぶら下がるイヤホンを見ながら、思いっきり顔をしかめていた。その顔を見てようやく雨谷は自分がやらかしてしまったことに気づいた。
「あー……イヤホン、自分の持ってたら差し替えていいよ?」
「……いい」
小見原は乱暴にスマホを奪い取って、雨谷に背を向けながらイヤホンを装着した。彼女の小さな耳には雨谷のイヤホンは少し大きかったようで、後ろから見ても分かるぐらいにはみ出ている。
曲は大体三分弱ほどの長さだ。
小見原が聞き終わるまでの間が手持無沙汰で、雨谷はタッチパネルで曲を検索したり歌詞を眺めたりと、適当に時間をつぶした。だが頭の中では小見原に却下されたらどうしようとか、罵倒されたら次はどんな曲調にしようとか、引け腰な思考ばかりで埋め尽くされていた。
やがて小見原がごくごく小さな動きでイヤホンを外し、背を向けたまま囁いた。
「やっぱり歌上手いね」
「そ、そうかな?」
それなりに音程を取れる自信はあったが、褒められるのは初めて……いや、二年前の曲も含めて二回目である。それに、いつも否定ばかりな小見原に褒められると喜びも一入な気がした。
雨谷はいまだに振り返ろうとしない小見原へ、おずおずと声をかけた。
「どう、だった?」
「すごい、凄くいい。だけど一つだけ気になるの」
「な……どこを変える?」
無意識に身をこわばらせていると、小見原は歌詞の紙をテーブルに乗せて、細い人差し指で最後のフレーズを指さした。
『一人でも走り続けるの ずっと ずっと 暁の元へ』
土曜日の午前中を丸ごと使って必死に訂正した部分だ。元々は赤い約束を続けたいのだのなんだの、私情が溢れた酷い歌詞だった。自信があった部分は拒否されなかったようだが、修正された部分を指摘されると、それはそれで複雑な気分になる。
「ここの歌詞がどうしたの?」
「なんかこう、気に入らない。もっと別のにしてほしいんだけど。アンタのことだから歌詞に使える候補とかいくつか作ってあるでしょ? それ見せて」
「あ、うん……」
今度こそ羞恥心が沸き上がってきたが、我慢してもう一つの紙を小見原に手渡した。その紙には没になった単語やフレーズが上から下までびっしり書かれており、その中には私情満載のあの一文も含まれている。
どうかそこには興味を持ちませんように、と雨谷は内心で祈りながら、その紙を真剣に眺める小見原の横顔を見つめた。
こうして静かにしているのを見ると、普段の小見原の強気な態度が演技に見えるぐらい、清楚な顔立ちをしている。長い上まつ毛は美しい弧を描いているし、眉毛も綺麗に整えられている。よく見ると目や口元に化粧をしていたようで、口紅の乗った唇が艶やかに液晶画面のカラフルな光に照らされていた。
「これ」
小見原の視線が一つの部分に集約された。雨谷は気を取り直して、彼女が指し示すフレーズへ目を通す。
『赤い約束を続けたいの ずっと ずっと 月が 昇るまで』
最初に決めた歌詞だ。
ドンピシャな選択に雨谷の心臓は天井知らずに飛び跳ねる。
小見原はハンドバックから筆箱を取り出して、ピンクの蛍光ペンでその部分を大きな丸で囲った。
「これ以外許さないから。いいわね」
「……うん。でも本当にそれでいい、の?」
もしかしたら小見原はこの歌詞の意味を理解せず、聴き心地が良いという理由で選んでいるのではないだろうか。でなければ、まるでこの関係を続けていきたいというような意味がありありと伝わるこの歌詞を、選ぶはずがない。
期待したくない。小見原も自分と同じ考えだなんてうぬぼれたくない。
雨谷の煮え切らない態度に小見原は口をつぐみ、じっとこちらの目を見つめてきた。何かを訴えかけるように彼女の優美な眉が顰められ、薄茶色の瞳が星屑を散りばめたように煌めいている。
「私が選んだの。これは私のための曲。そうでしょ」
言い返せずに黙り込むと、小見原はその歌詞を指差しながら雨谷のスマホを返してきた。
「この歌詞でもう一度歌って。私に教えるために、そのギター持ってきたんでしょ」
「……うん」
「じゃあ、ちゃんと教えて」
ほんの少しだけ拗ねたような甘えたような声で、小見原は雨谷に顔を近づけてきた。太ももに手を添えられて、キスをしてしまいそうなぐらいの距離で、たまらず雨谷は天井を仰いだ。
「わわ、分かったから、近いって!」
叫んだ途端、小見原はきょとんとして、次いで雨谷の太ももに乗せられた自分の手を見下ろした。
そこでやっと状況を理解したのか、一気に小見原の顔が真っ赤になった。彼女は猫のように壁際まで飛び退って、床にしゃがみ込みながら丸まってしまった。
「今のは違う! 変な意味じゃないから! 変な意味じゃないから!」
「分かってる! だから、そのえっと、練習……しようか?」
事態を収めるべく理性的なセリフを言ったつもりなのだが、小見原は見る見るうちに首から下まで真っ赤にして、顔を覆う指の隙間から憤怒に染まった両目でにらみつけてきた。
「え、なんで?」
「この……おバカ!」
「なんで!」
パァン! と小気味良い音で平手打ちをされ、雨谷は硬いソファの上に吹っ飛んだ。