(37)反則
探偵役に任命された雨谷と阿藤が任された仕事はたった一つ。
母親からボロを出させること。
てっきり事務所に迷惑をかけた責任を取って本格的な調査をさせられるものだと思っていた雨谷は、家庭内だけで終わる規模の内容につい耳を疑ってしまった。阪口が求めているのは、写真を撮影し脅迫文を送ってきたと思われる共犯者の情報であって、すでに身元が割れている雨谷の母親に再び探りを入れるのは無意味なように思えた。
だが、雨谷がそのことを口にすると、阪口は口の前で両手を組んだまま、テーブルに肘をついて微かに首を傾けた。
「君のお母さんは雇い主ですし、脅迫がこれからも続くと考えればまだ共犯者たちとの連絡を絶っていないと思われます。会話から引き出しても良し、スマホから履歴を探っても良し、ともかく雇われた探偵の身元に繋がりそうな形跡を見つけてきてください。証拠さえあれば、あとは私たちで共犯者を見つけ出せますから」
という、頼もしいような空恐ろしいような回答を得られたので、雨谷はひとまずそれで納得しておくことにした。だがしかし、もう一つだけ気になることがあった。
「あの、母を探るだけなら僕一人の方が怪しまれないような気がするんですけど、どうして大地も一緒なんですか?」
途端、小見原と阿藤がガバッと勢いよく顔を逸らした。地雷を踏み抜いてしまったような不穏な様子に雨谷がぽかんと口を開けていると、阪口はデフォルトの仏頂面にほんのりといたずらっぽい表情を乗せた。
「それは一緒に行けば分かります。大丈夫です、彼はこういうことに関してはとても頼りがいがありますよ」
「は、はぁ……」
「さて、もうすぐ六時になるから子供は帰りなさい。今日は私もやることがあるので車で送れませんが、阿藤君、二人をお願いしますね」
含みのある言い方で阪口が一瞥すると、阿藤は椅子から立ち上がって勢いよく頭を下げた。
「はいっす。お疲れさまでした! 雨谷一緒に帰ろうな!」
「あ、うん。お疲れさまでした?」
「お疲れ様です」
阿藤の勢いに呑まれながらも雨谷と小見原は阪口にお辞儀をして、荷物をまとめて個室から出ていった。狭い部屋の中で長時間も重い話をしていたせいで、広い廊下に出た瞬間にどっと疲れが押し寄せてきた。しかもこれから母親のいる家に帰らねばならないとなると、余計に暗鬱とした気分に見舞われる。夏休み前の期末テストやライブの準備も重なっているせいで、雨谷は小見原の顔も見れずに自分のことでいっぱいいっぱいだった。
夏休みが始まってから一週間後、雨谷たちはCD販売記念に白雨キユイの初ライブを予定していた。そのため期末テストで単位を落とすわけにはいかず、舞台に立つために歌と振り付けの練習もして、母親の機嫌をとって、さらに共犯者の情報を探って……これだけやることが山積みだと、どこから手をつければいいか分からなくなりそうだ。それに最近は抜き打ちテストの如く勝手に母親が自室に入ってくるので、新曲に着手したいのに集中も睡眠もできない。昨日は特に酷く、八時半に父親が帰ってくるまで延々と意味の分からない文句を言われて勉強すらできなかった。
こんな状態でライブは成功するのだろうか。そもそも期末で赤点を取ったらライブの練習どころではなくなってしまうんじゃないか。そうなったら、どうしたらいいのだろう。
「雨谷」
傍らから名前を呼ばれたので、雨谷は暗い思考から目を逸らすように顔を上げた。すると、阿藤がスマホのカレンダーを開きながら集中しきった顔でこう続けてきた。
「またお前の家に放課後行くから、行っていい日教えてくれ」
きっと探偵もどきの任務を始める日程だろう。自分よりも乗り気な阿藤に引きずられて雨谷も若干気を持ち直し、鈍い思考を働かせた。
「ええっと、それなら、明後日で。明日は大地が事務所に呼び出されてるし」
「オーケー。ちなみに雨谷の母さんはずっと家にいる?」
「いや……時々どこかに遊びに行ってるよ。帰ってくる時間はバラバラで、たまに僕より遅い日があるかな」
「なるほど……よし、行けるな」
カレンダーに素早く日時をメモした阿藤は、たった今交わした情報だけで勝利を確信したような笑顔を浮かべていた。その顔はいつもの穏やかなものと全く逆の、悪徳業者のような腹黒さが滲み出た凄みのあるもので、雨谷は急に不安になってきた。
「だ、大地……?」
「ん? ああ何にも心配しなくていいよ。速攻でおれが終わらせる。だから雨谷、その……とりあえず家まで送る」
不自然に話を切り上げて、阿藤は貼り付けた笑顔で歩き出した。その後ろを追いかけると、小見原が雨谷より一足早く阿藤との距離をつめるや、彼の肘を潰れそうなほどの勢いで鷲掴みにした。
「阿藤、分かってるわよね……?」
「わ、分かってるよ! 何にもしないって!」
「じゃあ今日は私と一緒に雨谷を家まで送りましょうね? 二人きりになんてさせないから」
「ヒェッ!」
主語の抜けた会話では一体なんの脅しか想像もできなかった。先程阿藤を話題に出した時も二人の様子がおかしかったので、雨谷はおずおずと小見原へ声をかけた。
「ねぇ小見原さん、大地と何かあった?」
「さぁどうかしら。ねぇ、阿藤?」
「ナンニモナイデス。キニシナイデ」
阿藤は片言で、全力で雨谷から目を逸らしながら颯爽とエントランス方面へ歩いていく。雨谷は小首を傾げながらも、二人が喧嘩したわけではなさそうなので深くは聞かないことにした。
それから、二日後。
事前に約束していた通り、阿藤は事務所にUSBデータを提出した翌日に雨谷の家に再び訪れていた。
どこから調達したのか知らないが素人目でも分かる超高性能盗聴器とハンドカメラを見て雨谷は驚愕し、それを熟達した手さばきでどんどん家中に設置していく阿藤にさらに絶句した。事務所のメンバーの中で最も不法行為に疎そうな阿藤がバリバリにできる男だったとは、脳みそが理解を拒むほど信じられないことだった。
「これでよし。雨谷は試しに向こうの部屋で話してみてくれ」
「え、あ、うん」
一通りのセッティングが終わり、汗を拭った阿藤に背中を押され、雨谷は夢遊病患者のごとく足元をふらつかせながらリビングから廊下を挟んだ洗面所へと移動した。日当たりが悪いそこは小窓から差し込む夕日に染まって全体的に赤らんでおり、ドアを入ってすぐの鏡には目の下にクマを作った自分の容姿が写っていた。雨谷は鏡に向かい合いながらピースにした指先で口角を持ち上げて下手くそな笑顔を作ってから、深々とため息をついた。それから洗面所の真ん中に顔を向け、普通に会話する程度の音量で躊躇いがちに声を発した。
「あ、あー、聞こえる?」
数秒後、聞こえてる、とリビングの方から返事があったので洗面所を出た。洗面所に仕掛けた盗聴器はコンセントに差し込むよくある形状で、しかも洗濯機の裏側にあるので簡単には見つからないだろう。着々と自分の家が暴かれていくのは少し怖かったが、同時に雨谷は阿藤の卓越した手腕に舌を巻いた。
これならきっと上手くいく、という自信と、素直に喜べない行為になんとも言えぬ表情をしながら雨谷はリビングへ入った。ドアをくぐってすぐにあるソファでは、阿藤がテーブルの受信機を何やら黒いスポンジと一緒にぐるぐると黒いガムテープで巻き付けているところだった。
「何やってるのそれ」
「今回は受信機にそのまま録音ができればいいからさ、音が外に漏れないようにしてるんだ。これでボタンを押せば……」
脇に置いてあったミニリモコンのボタンを押すと、受信機の電源ライトがガムテープの隙間から緑色に点滅した。
「ってな感じで、タイミングが来た時にいつでも録音できるんだ。これは雨谷が持っててくれよ。あとこのリモコンは設置した盗聴器の三ヶ所別にボタンのセッティングしておいたから。これが色と配置のメモな。ああ、あと洗面所のは録音に入れないから安心してくれ」
と、まるで営業マンのように滑らかな説明をされてしまい、雨谷は感嘆のため息をついた。
「す、すごいね。どこかでこういう仕事やってたの?」
「あー趣味、ゴホン、素人が調べてやったみたいな……いや、証拠取り終わってから、いやいや、全部、終わってから話そう」
明らかに挙動不審になった阿藤に首を傾げた後、雨谷は微かに笑みを見せた。
「そう? 秘密にしておきたいなら深くは聞かないけど」
「いや……話すよ。話さないと……」
思い詰めたように顔を俯ける阿藤を見て、雨谷はうっすらと開いた口から無意識に何かを言おうとした。だがそれより早く、ガチャガチャと玄関の鍵が開かれる音がした。途端、阿藤は顔を上げてテーブルに残った備品をガサツに鞄に流し込み、ソファに座ったまま前屈みに臨戦体制を取った。
「帰ってきたな。雨谷、頼んだぞ」
「え!? ど、どうしよう」
「大丈夫だ雨谷。手筈通りにやるだけだから」
「う、うん」
先程リモコンと一緒に阿藤に渡された手紙には、事細かに受信機の使い方とボタンの役割が書かれている。これも事前に阿藤からきっちり教えてもらっていたので、必死に読み込まずとも流し目で理解できることばかりだ。後は母親に如何にしてボロを出させるかだが、それも軽い台本を作ってあるのでそれに沿って話すだけだ。メインの話題から逸れてしまっても、第二第三のプランがある。
大丈夫。こんなに準備したのなら失敗するはずがない。雨谷は自分にそう言い聞かせて深呼吸をすると、友人を家にあげてまで一体何をしているんだと苦笑してしまった。
玄関が開かれ、母親が靴を脱ぐ気配がする。
「ごめんね、こんなことに大地は巻き込みたくなかったんだけど」
まだ聞こえないであろう距離で雨谷がそう謝ると、阿藤は片頬を持ち上げるようにして不敵に笑った。
「気にしないでくれよ。おれもそれなりに覚悟は決めてきたつもりなんだからさ。気負わずいこーぜ」
「……ふふ、なんか今日の大地は決まってるなぁ」
「な、ばっ!」
阿藤が顔を真っ赤にしたところでガチャリとリビングの部屋のドアが開けられ、隙間から香水の香りがなだれ込んできた。遅れて厚化粧に覆われた女性の顔が入ってきて、きらびやかに着飾られた服装もあらわになる。
「また友達? 全く、自分が特別だって自覚あるの? 友達は選びなさいって何度も言ってるでしょ」
開幕から喧嘩腰の母親の反応は想定内である。雨谷はぐっと傷つきそうになる精神を誤魔化して、ヘラヘラといつも通りの作り笑いを浮かべて何も言わなかった。母親は何も言い返さない雨谷を満足そうに一瞥した後、隣のソファを陣取る阿藤を見てギョッとした。
「あ、あんたこの前の下品なガキじゃない!」
キンキンと響く怒鳴り声を聞いた途端、事前に身構えていたというのに雨谷の背筋にどっと冷や汗が滲んだ。母親が怒っているだけで、どうしてもタンスに閉じ込められていた時の恐怖がフラッシュバックする。だが、まだ躾をされるほど拗れていない。
冷静に母親の動向を分析しながら、雨谷は台本に近い内容で台詞を紡いだ。
「あの、大地は今日遊びに来たんじゃないんだ。前母さんのこと怒らせちゃったから、謝ってもらうために連れてきたんだ」
「謝るぅ? だったらそんな汚い男をソファに座らせんな! 外に立って待たせなさいよ!」
落ち着くどころか一気にヒートアップしていく母にヒヤヒヤしていると、阿藤がヘラヘラとしながらソファから立ち上がった。
「いやいや、おれは喧嘩をしに来たんじゃなくて謝りに来たんですって。ほら、先日酷いこと言っちゃったじゃないですか。あの後冷静になって、友達の母親に何て酷いことをって思いまして」
見下ろす側から見下ろされる側になった母は、さっきまでの威勢を萎縮させながら口をつぐむ。阿藤はその隙を逃さず、ゴソゴソと鞄から丁寧に包装された菓子の箱を取り出した。
「って事でこれがお詫びの品です。今後とも雨谷とも貴方とも仲良くしたいと思っていますので、よろしくお願いしますね?」
金や人の物にがめつい母は、その箱が少し高めのチョコレート専門店のものだと見るや素早くそれを奪い取った。ここで突っぱねれば良かったものを、迂闊に贈り物を受け取ったせいで相手をこれ以上無下にできない。そうと気づいた途端、母は決まりが悪そうに顔を顰めて、モゴモゴと口の中で言葉を転がした。
「……身の程をわきまえてるのね。なら特別にこの子と関わるのは許してあげるわ。でもこの子の自室に上がるのはやめなさい。あそこは神聖な場所なの。あんたみたいな無能が入ってきていい場所じゃないんだから」
「勿論ですって。じゃあ謝罪も済んだ事ですしおれはこれで! どーもお邪魔しましたー!」
白々しい笑顔で手を振った阿藤は、そのまま荷物を抱えて玄関へと消えてしまった。雨谷は見送りに出ようと追いかけたが、すぐにその腕を母が引き留めた。
「いいわよ。勝手に帰らせなさい」
「……うん」
見送りを諦めるのと同じタイミングで、阿藤が玄関の外へ出て行く。母は邪魔者がいなくなり、手元に残ったチョコレートの箱でご満悦である。雨谷の腕を引いて隣り合うようにソファに座らせるほどに油断している。
ここまでは計画通りだ。ここからは阪口が用意してくれた台本を参考に、雨谷が上手く母親の口を滑らせなければならない。油断している相手から情報を引き出すには、まず相手の功績を褒め称えて自分が味方であることをアピールし、さらにこちらが格下であることを印象付ける。警戒心が完全に拭われれば、あとは向こうから勝手に喋りだすだろう、というのが阪口の作戦だった。
そのために、最初に切り込むべき部分は……。
「母さん、あの、沖釜空歩っていう俳優、知ってる?」
「もちろん知ってるわよ。何、その人がどうかしたのかしら?」
やはり母も事務所の方がどんな反応をしたのか気になっていたらしく、いつものようにくだらない話をするんじゃないと頭ごなしに否定することはなかった。雨谷は確かな手ごたえを感じながら、長い前髪で表情を隠す様に顔をうつむけた。
「その人のところに、脅迫文が送られたらしくてさ。僕とペアを組んでる女の子とのツーショット写真が入ってて、僕の事務所ともめちゃってて。このままだと僕の評判に傷がついちゃうから、事務所からも女の子と別で活動した方がいいって進められてて」
もちろんこれは嘘である。沖釜と雨谷のそれぞれの事務所は一部が険悪なだけで、全面的にはこちらと協力してくれている状態だ。そもそも、沖釜の事務所には橘監督がいるので敵に回すことの方が難しい。だが、そんなことを知らない母は雨谷の話を全く疑いもせずにチョコレートを口に咥えながら口角を吊咥えながら
「そう。なら事務所の言うとおりに別れちゃいなさい。あんたは一人でいたほうがもっと上に行けるんだから。あの女がいたせいで出世が遅れたようなものだし、迷惑料も払ってほしいところねぇ?」
「あ、はは……うん。事務所にはそう言っておく。でも、その女の子なんだけどね……」
台本通りに、言わなくては。だがこれから口にする台詞はあまりにも酷い、小見原への信頼を踏みにじるようなものだった。阪口も辛いならやらなくていいと言ってくれたが、それでもこの台本を渡してきたということは、これが最善であるから、これが最短だから。
「その女の子が……僕と離れたくないからって、しつこいんだ。だから何とかして離れさせたいんだ。弱みとか握っておけば、向こうも折れてくれると思うから。母さんなら、そういう人とか知ってそうだなって思って、もし知ってたら、教えてほしいんだけど。別れられたら、僕一人で活動できるようになるし」
阪口の台本ではもっと大嫌いだとか早く別れたいといった過激なことを求められていたが、これが雨谷の精一杯の小見原への貶しだった。たとえこれが本心でなくとも、実際に言葉にするのは胸を裂かれるように辛いことだった。苦痛で口を歪めているのを見せないように雨谷は顔を伏せたまま口を覆う。母親はそれを見て、愛おしげに肩を抱きよせながら寄り添ってきた。より強くなった香水の香りにこめかみが絞られるように痛み、手が震えそうになった。もう少しだ、母親が笑う気配がする。
「そうなの。じゃあとっておきの人を紹介してあげるわ」
「ほ、本当?」
わずかに顔を持ち上げながら、背中に隠していたリモコンのスイッチを押す。これで受信機が録音を始めたはずだ。早く言え。そしてこの苦行から早く解放されたい。
「──でも、その話は明日にしましょ。今日はちょっと疲れちゃったから」
「……え、じゃあ名前、連絡先とか教えて。そのあとは自分でやるから」
「いいから、今は煩わせないで。あとで全部わたしがやってあげるから、ね?」
どん、と少し強めに母親は雨谷を突き放すと、テーブルの上のチョコレートを食べて嬉しそうに唸った。一瞬盗聴がばれてしまったのかと思ったが、この様子ではただ面倒になっただけのようだ。だがこれ以上話しかければ敵意を向けられてしまうかもしれない。そうなったら、せっかくのチャンスを不意にしてしまうリスクの方が高くなる。
雨谷はここで粘るか逡巡した後、もう一つの作戦を思い出して深呼吸をした。
「わかった。じゃあ僕は風呂入れてくるよ。疲れたんでしょ?」
「あら、気が利くじゃない」
こちらを見ないまま母はこれ以上話はしないと言わんばかりにひらひらと手を振った。雨谷はそのまま母から背を向けて数分前に出たばかりの洗面所へと入っていった。夕日が落ちて暗くなった鏡の前を経由して風呂場に入り、お湯を入れてから洗濯機の横に仕込んだ盗聴器と、ポケットに入れていたもう一つの受信機を取り出す。
ここの盗聴器はあくまで証拠のためではなく、母が風呂にいると確認するためのものだ。身に着けているものをすべてを外しているこのタイミングであれば、母のスマホから履歴を探れるはずだ。ますます犯罪か浮気調べっぽいな、と雨谷は力なく笑いながら、手元の受信機が拾う風呂場の水音に耳を傾けた。




