(31)変態
誰もいない小学校の教室で、担任の目を盗みながら小学生の阿藤はノートを広げていた。「らくがきちょう」とひらがなで書かれたノートの中には、拙いイラストが勝手気ままに描かれていた。
外に遊びに行くのは嫌いで、男友達には知られたくない、幼い阿藤の小さな一人遊びは、先生達に隠れて毎日行われていた。廊下に人の気配がしたらすぐに身を隠さなければいけないが、それはそれでスリリングで楽しい遊びだと思っている。だが、足音が自分を見つけずに通り過ぎて行くのは少しだけ寂しかった。
その日も黙々と鉛筆を握って描き殴る。国語の教科書に載っていた狐のキャラクターを見ながら落書きに熱中していると、不意に頭上が音もなく陰った。
「絵、じょうずだね。だいちくん」
驚いて顔を上げると、クラスでも友達が多い方グループにいる、クラスメイトの雨谷がいた。阿藤は両手で目一杯に大事なノートを隠しながら威嚇した。
「かってに見ないでよ!」
「ご、ごめん。でももったいないじゃん」
「なにが?」
「だいちくんの絵、きょうかしょにのってるのと同じぐらいじょうずだよ! しょうらいは画家になれるんじゃない!?」
真っ直ぐな賞賛の言葉を家族以外に貰うのは初めてで、阿藤はその時、世界が華やいでいくのを感じた。
絵を描くなんて女々しい、とどの男子も馬鹿にしたのに、この人だけは認めてくれた。
「あのさ、描いてみる?」
「い、いいの?」
「ノート、貸してあげる」
「ありがとう!」
雨谷は椅子を持ってきて阿藤の机に向かい合うと、自分の鉛筆を持ってにっこり笑った。
その日から二人はこっそり昼休みの教室に残って、義務化されている外遊びに目もくれずに絵を描き合った。毎日毎日、早く昼休みが来てほしいと願ってしまうぐらいに阿藤は二人の時間が大好きだった。
家でも明るくなった阿藤を見て、両親は嬉しそうに微笑みながらこう言った。
「まるで好きな人ができたみたいね」
「すきな人?」
「そう。白馬の王子様が来たってこと」
母の口から“白馬の王子様”と聞いて阿藤はハッとした。
姫と白馬の王子様の昔話を聞いた時から、いつも阿藤はお姫様になりたいと思っていた。男の子なら王子様だろ、と周りに馬鹿にされてからその思いは口にしないようにしていたが、雨谷が来たから、もう救われていいのだ。
雨谷は白馬の王子様のように、自分を城から連れ出してくれるんだ。
「自分だけの王子様……」
阿藤は棚の奥にしまっていた絵本を胸に抱きしめて、うっとりと呟いた。
女々しい自分を受け入れてくれる、そんなあなたが大好きだ。
絶対にあなたを離さない。
…
……
………
ベンチの上でのんびりジュースを飲んでいたおかげで、ようやく吐き気が治まってきた。絶叫マシンの恐ろしさは散々この身で体験してきたが、今日は特別強烈だったように思う。
しかしこの負け戦も無駄ではなかった。あの不審者女に屈せず、愛する推しのために自分の責務をやり通したという達成感で、阿藤の心は頭上の空の如く晴れ晴れとしていた。
阿藤は飲み切ったペットボトルを握り潰してゴミ箱に放り込むと、早速スマホでGPSの位置を調べた。雨谷はジェットコースターの隣にある観覧系アトラクションに乗っているので、反応はまだ建物の中にある。あの不審者女も何故か二人について行かずに木陰で休んでいるから、中でアクシデントも起きないだろう。
阿藤がのんびりしながらGPSがここに帰ってくるのを待っていると、ザザ、とイヤホンが音を拾った。先のジェットコースターの後でダウンする前に雨谷のポケットに滑り込ませた盗聴器が上手く機能しているようだ。
『珍しいよね。雨谷ってこういう所来たがるように思えなかったんだけど、そっちから誘ってくるなんて』
これは、小見原の声だ。館内のサウンドエフェクトがやたらデカいが、くっきり肉声を記録できている。
『僕も、友達に言われるまで遊園地って選択肢なかったんだ。けど一度行ってみたかったからさ。実は、今日来るのが初めてなんだよね』
『そうなの? じゃあもしかしてジェットコースターとかも?』
『えっと……うん。さっきのが初体験』
阿藤は無言で録音ボタンを再生し、反対側の耳で『初体験』という単語をリピートした。後でダビングしておこう。
『最初なのにいきなり強烈なの乗せちゃったね。気分はどう? 悪くない?』
『大丈夫だよ。意外と乗り物酔いしてないみたいだし。まぁ、僕より後ろにいた人の方が大変そうだったけど』
『ああ、大きいバッグ持ってた男の人ね』
雨谷に後ろに座っていたのは阿藤である。自分の話題になって否応なしに心臓が飛び跳ねた。
ターゲットに印象を持たれるのはまずい。残念だが出待ちはやめて少し離れた場所から合流した方がいいかもしれない。
すでに他の被写体でピント合わせも済ませていたカメラをしまって、阿藤は盗聴が途切れない程度に出入り口から慎重に距離を取った。
『あんまり顔見てなかったんだけど、誰かに似ていた気がするんだよなぁ』
『私も。前に見たことがあると思うんだけど』
やはり離れて正解だな、と阿藤が安堵のため息をつくと「あの」と唐突に背後から声をかけられた。多少驚きはしたものの、瞬時に猫をかぶってその声に振り返る。
そして阿藤はピシリと固まった。
「えっと……ドチラ様デショウカ?」
片言になるのも仕方がない。そこに居たのはあの不審者女だった。こっちでも正体がバレた? いやいや、こいつにバレたところで何も問題はない。なにせ赤の他人だ。
阿藤が高速で頭を回転させて冷静になろうとしている間、彼女はサングラス越しに目を泳がせると、遠慮がちに質問してきた。
「あの、カメラ、持ってますよね」
予想外の踏み込みに、自然とカメラを握る手が汗ばむ。
「ええ。持ってますが」
「そのカメラで写真を一枚撮ってもらってもいいですか?」
「なぜ? このカメラは見ての通りスマホと連動していないので、貴方に写真を渡せませんけど」
思ったままを率直に言ってみると、女は明らかに狼狽した。
「あ……でもほら、現像したら渡せますよね? れ、連絡先渡しますので、後日渡してもらうとか!」
「はぁ……?」
新手のナンパかと思いたかったが、不審者女に限ってありえない。ここまでカメラにこだわる理由はなんなのか。阿藤は不審者女の全身にざっと目を通して、右手に握られたままの可愛らしいスマホに視線を止めた。
「ああ、なるほど? データ欲しいの?」
手に持ったままのカメラをゆるりと振って、阿藤は歩的に口元を歪めた。
だってそうだろう。雨谷の写真ばかりを収めているのはこの女も気づいていたはずだ。その上でわざわざカメラにこだわり連絡先交換までせびるのだから、写真を共有してもらうチャンスが欲しかったのだろう。
だが残念だったな。マナーを守れないファンはこっちからお断りなんだよ!
不審者女は大きく目を見開くと、顔を赤くしていきなり大声を出しながら掴みかかってきた。
「そ、そんなんじゃない!」
「じゃあなんだよ。本気で自分の写真撮ってもらいたいわけ? わざわざ赤の他人に? どうして?」
「え、た、たまたま! いいカメラ持ってる人があなただけだったから!」
「もっと周り見てからいいなよ。あそこのおばさん、孫にカメラ向けてるじゃん。俺より最新スマホ連動式」
視線で教えてやった先には、着ぐるみに抱きつく孫を色んな角度で撮影するアクロバティックなおばあちゃんがいた。あんなに目立つ人がいて声をかけないのなら尚更おかしい話である。
「もうさぁ、ここまで来ると連絡先交換したかったからって理由じゃなきゃ押し通せないんじゃない? ねぇおねーさん」
「……うよ」
「んー? なんて言ったの?」
「そうよ! 連絡先! 交換しなさい!」
「……うん?」
おっとこれは、まさかの背水の陣である。引くに引けなくなった不審者女は顔を真っ赤にして阿藤に掴みかかった。
「連絡先交換したらもう他人じゃないよ? だから写真撮ってもらってもおかしくない! どうよ!」
「え、ああウン。ソダネ。じゃあ写真撮ろっか」
「え」
「なに、そんなに強請っておいて嫌なのかよ。まぁ嫌って言っても関係ないけど」
カシャっと適当に惚けた女のドアップを撮ってやって、阿藤はにっこり微笑んでやる。至近距離での顔写真を合法的に手に入れた。これさえあれば彼女の住所だって特定できるだろう。
「はい撮れた。オネーサンどこ住み? 現像なら今日帰ってできるから明日から渡せるけど?」
「あ……っ!写真! 見せて!」
「ちょ」
いきなりカメラを強奪されたが、阿藤はすぐに奪い返そうとしなかった。なぜなら、
「あれ? ない、ない!」
「いやあるでしょ」
「違う私のじゃなくて、あれ?」
やはり女は自分の写真に興味を持たなかった。最初からカメラの中を見る口実が欲しかったのだろう。
しかしこの不審者女の慌て様、もしや阿藤の戦利品を見たかっただけなのか。自分のスマホに収められなかったからせめて敵から供給、と言った感じか。雨谷のファン仲間としてなら良い傾向だが、まだデートの邪魔をしようとしたことは許せない。
それに、いくらそのカメラを探したところで彼女が目的のブツを見つけられるわけがない。なぜなら、雨谷を取るときだけは別のSDカードを差し替えているからである。真っ新なSDカードでないと容量が溢れてしまうだろうが。
「そろそろ返してもらえる?」
「あ……ハイ」
ずごずごと引き下がった女からカメラを返してもらって、阿藤はさらに畳み掛けた。
「で、どこ住み?」
「え、言わないとダメ?」
「そりゃそうでしょ。君が大阪住みだったら、写真を貰うためにまた東京まで八時間か九時間ぐらいかけて来ないとだろ。俺はまぁ構わないけどさ。あ、なんならおねーさんの住所に郵送しようか?」
「い、いやダメ! 住所はダメ!」
「じゃあどこ」
「……東京」
「ふーん。じゃあ東京駅待ち合わせね。仕事先そこだし」
敢えて思わせぶりな社会人発言をしておく。阿藤が高校生だと向こうが思ったら絶対大人というマウントを取ってくるに決まってる。
「へー。まぁ私も似たようなものよ。東京には大事な仕事先があるし」
「ふ、ふーん?」
思ったより相手が動じていないどころかカウンターをもらった。これ以上話を引き伸ばすのはまずい。
「じゃあ連絡先」
「はい」
事務的に手際よく伝えて、画面に浮かんだ名前を阿藤は凝視した。
『秋葉』というのは、はたして偽名かどうか。ちらりと秋葉という名前らしい女性の顔を盗み見るが、サングラスが邪魔でよく見えない。もう少しだけ近づいてみれば、嘘かどうかも分かりそうなものだが。
「あ!」
突如聞き覚えのある声が背後で聞こえて、ビクッと阿藤と秋葉は肩を震わせた。蒼白になりながらそちらを振り返れば、小見原が雨谷と腕を組みながら人差し指をこちらに向けていた。
いや、まだバレてないかも知れない。後ろの景色を見て目を輝かせているに違いない。
「やっぱり阿藤とちーちゃんじゃん! 何してるの? こんなところで」
「チーチャン?」
ギギギ、と油を刺し忘れた機械の如く阿藤が不審者女を振り返ると 、彼女は乾いた笑いを漏らしながら観念したように帽子とサングラスを外した。中々に綺麗で勝ち気そうなお姉さんである。
阿藤はまた小見原と雨谷の方へ振り返って、問いかける。
「お知り合い?」
「「うん」」
では不審者女は雨谷のファンとかではなく、お友達として二人のデートを見守っていたと。カメラを構えていたのは、後で揶揄うためとかそういう、こちらよりずっと健全な理由だったのでは。
その前にだ。ここで自分の存在がバレたということは二人きりのデートが台無しになってしまったというわけで、一介のファンとしては許されざる失態を犯してしまったことになるのではないか?
責務を、全うしなくては!
カオスの捩れまくった脳内で結論を出した阿藤はズザッとその場に膝をついた。呆気に取られている雨谷の前で、指を揃えて、アスファルトに思い切り額を叩きつける。
「デートの邪魔して……誠にすいませんでしたァ!」
「「「えええええ!?」」」




