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(25)藍レモン

 『猛りくらげ』がバズる数日前、『ときめきレモンソーダ』の予告を発表する予定に合わせて、雨谷たちは収録スタジオに来ていた。


「では改めまして、皆さん本日はよろしくお願いします」


 小さな拍手とともに始められたオープニングテーマの収録は順調だった。雨谷が持ってきたテープはすでに収録スタッフの手に渡っているので、後は小見原がスタンドマイクの前で歌うだけだ。キユイとYUIIが匿名希望なだけあって、スタジオにいるスタッフは最低限だったが、橘監督が手を回してくれたおかげが特に大きなハプニングも起きずに済んだ。


 深いブラウンのフローリングの滑らかな表面は、暖色系の照明とそこに立つ人々の顔が反射するほど傷一つない。橘監督がお気に入りというだけあって、このスタジオの設備はどれもこれも手入れが行き届いている。キャスター付きの椅子やデスクの下も埃一つなく、雨谷は少し歩くだけで緊張で息が詰まりそうだった。そういう場所を平然と動き回り、仕事をこなすスタッフたちには見惚れるしかない。


「準備終わりました」


 ポップガードのついたマイクで発声していた小見原がこちらへ合図した。ガラスで切り離された小見原との距離感に雨谷は少し寂しいと思いつつ、サマになっている姿には感動せざるをえなかった。今、小見原はマスクで顔を隠せないので最低限の抵抗として伊達メガネを掛けているのだが、それもなんだか芸能人がやるような変装に近い。だからだろうか、雨谷はアイドルを見る気分で彼女をじっと見つめてしまった。


 すると、視線に気づいた小見原が口だけで「見すぎ」と言ってきた。恥ずかしそうに目を泳がせるところも可愛い。


「はーいイチャイチャしないでください。五秒後に始めますよ」


 今日会ったばかりの男性スタッフに茶化されて、恥ずかしさを誤魔化す暇も与えられずカウントダウンが始まってしまった。小見原はわたわたとマイクの前で立ち位置を調整してから、ヘッドホンへ意識を集中するように瞼を下ろした。


 やがて、聴き覚えたメロディが流れ始める。


『――風光る霞に走り出した 赤い尾を引くわたしは走り出した』


 何十回も聞いた『eve』のイントロだが、やはり飽きることはない。いつもと違い音質の良いスタジオのマイクを使っているから、彼女の透き通った声がよりはっきりと聞き取れる。


「やっぱり歌上手いですね、キユイさんって」

「そうでしょう。僕の自慢の相棒です」


 隣にいた藤咲が目を輝かせながらこそっと呟くのを聞いて、雨谷はついマスクの下でにっこりしてしまった。もっと褒めちぎりたいところだが今は静かにしなければいけないので、喋りたい気持ちをこらえて小見原さんを見つめるだけに留める。


 今でも彼女が自分の恋人になったなんて、雨谷は信じられなかった。まだ恋人らしくデートに行ったり小見原の家に行ったりはしていないが、二人きりの時には手を繋ぐように努力しようとはしている。実際に手を繋げたことはないが。

 そも、雨谷と小見原が二人きりになる時には必ずキユイとYUIIの一面が出てきてしまって、どうしても音楽の話題を真剣に語り合ってしまう。とてもそういう雰囲気にはならないし、なったとしても気恥ずかしくてまた音楽の話題に逃げてしまうのだ。流石にそろそろ慣れないといけないので、今日の帰りにまた『憩いの切り株』に誘おうと雨谷は計画を立てる。


 不意に、スタジオのドアのほうから音がした気がした。何とはなしにそちらを見てみると、以前顔合わせの時に突っかかってきた俳優が立っていて、雨谷は声を上げそうになった。確か彼の名前は沖釜空歩(そらふ)だったか、キラキラネームと強烈なイケメンさはよく覚えている。


「空歩くん、今日はオフの日じゃなかったっけ」


 すかさず年配のスタッフが小声で話しかけに行くと、沖釜は不機嫌そうに顔を歪めながら言った。


「オフだからわざわざここに来たんだよ」


 沖釜はちらりとガラス越しに小見原を見た後に、視線をスライドさせて雨谷をにらみつけた。そしてなぜか、威圧感を放ちながらズンズン近づいてくる。雨谷は他人のふりをするのを諦めて大人しく挨拶をすることにした。


「ええっと、お久しぶりです。沖釜さん」

「よぉ、YUIIだったっけ、おまえの名前。ったく女々しい名前つけやがって」


 いきなりの罵倒に雨谷は目を瞬かせる。そういえば小見原と初めて話した時もいきなり罵倒されたな、とどうでもいいことを思い出しながら、雨谷はスタジオの壁際まで沖釜を誘導して、改めて向かい合う。


「僕に何か用ですか?」

「正確にはおまえら二人に用があったんだが……あの女はもういい。問題はおまえの方だ」

「……僕が、何か?」


 あの女発言にちょっとキレそうになりながら雨谷が問うと、ちょうど『eve』が終わりスタッフの方からお疲れさまでしたと聞こえてきた。最後の盛り上がりを聞き損ねてしまった。またぞろ怒りのボルテージが上がるが、目の前の男は全く気付いた様子もなく、腕を組んで雨谷を睥睨したままだ。


「おまえの連れ、キユイっつたか、確かに歌はうまい。この先でも絶対に成功するっていう独特のオーラがある。けどおまえは違う」

「だから、その、なんですかいきなり」

「だから……そのどもり癖といい、ナヨナヨした立ち方と声! 将来絶対あの女の足引っ張るぞ! なんであの女がおまえを選んでるかしらねぇが、たかが曲を作れるだけでうまくいくと思うなよ。今はもう曲を作るだけじゃなく作曲者まで歌う時代だ! あの女にだけ歌わせてるお前は時代遅れなんだよ!」

「それは、そうでしょうけど、でも貴方に言われる筋合いは……」

「分かってて、じゃあ何で努力しないんだよ? おい藤咲!」

「ひゃ、ひゃい! なんでしょう!」


 突然飛び火して藤咲が裏返った声を上げる。気づけばスタジオ内の注目すべてを集めてしまっていたようで、スタッフの後ろで般若顔になっている小見原の顔も見えた。視線で何があったのかと訴えている気がするが、それに答える前に沖谷にいきなり襟首を後ろからつかまれ、猫のように前に吊りだされた。


「こいつに一曲歌わせてみろ。それでだめだったらお前の事務所に直談判してやる!」

「なんでそこまで?」


 スタッフの方から困惑した声が上がると、沖釜はガラの悪い声色で宣った。


「はぁ? 俺の舞台にへっぽこ野郎がいるのが気に食わねぇんだ。人の足引っ張る奴は特にな!」


 あまりにも横暴な言い分に場の空気が静まり返ったのち、小見原が藤咲の横から飛び出して沖釜に食って掛かった。


「ちょっとアンタ、この人のどこがへっぽこだって言うのよ!何も知らない癖に偉そうな口きいて、私にとってはアンタのほうが足引っ張ってるんだけど!」

「うっせえ、とにかくコイツ次第だ! コイツがダメ男なら、この女はおれが貰う!」


 予想だにしない沖釜の宣戦布告でスタジオ内に大きなざわめきが巻き起こる。だが、雨谷の耳には全く入ってこなかった。


 山本に殴られた時のような胸のムカつきによく似ている、不快な感情が頭の芯まで雨谷を燃え上がらせる。外から野次を飛ばすだけならまだ無視できたものの、小見原に手を出すなら話は別だ。


 雨谷は乱暴に沖釜の手を振り払うと、振り返って男の顔を睨みつけた。


「わかった」

「ちょっと雨谷」

「いいよ。彼の言うことはもっともだし、僕もここまで言われて引きたくない。小見原さんのことだから絶対」


 子供っぽい理由で結構。周りの大人の視線を無視して、雨谷は藤咲の方へ大股で歩み寄る。その時、横を通り過ぎた小見原の顔が真っ赤だったことには気づかなかった。


「藤咲さん、巻き込んで申し訳ありませんが、もう一度『eve』を流してください」

「い、いいんですか?」

「今回は仕方ないです。彼女以外の人間に歌われるのは自分でも嫌だけど、小見原さんのことが掛かってるので」


 マスクをずらしながら仕切りガラスの中へ入ろうとすると、後ろから橘監督に呼び止められた。


「待ってーYUII君」

「はい……」


 まさかこの期に及んで止める気か、と敵意をむき出しにしかけたところで、橘監督は雨谷を背にして沖釜へ向き直った。


「今の話ね、彼だけが不利益を被るのはどうかと思うんだよねー。そこで、もしYUII君が相応しい男だったら、沖釜君、キミにも罰を与えよう」

「ば、罰、ですか」

「そう。そうだねぇ……もしYUII君を認めたら、沖釜君には俳優一、キユイとYUIIを応援する大ファン役に徹してもらおうかなぁ、一か月ぐらい!」

「は!? それってこいつらの広告塔になれってことですよね!?」

「そりゃそうでしょー。だってさっきの発言って彼らの名誉に泥を塗るようじゃない? へっぽこだとかダメ男だとか、ね?」


 若干低くなった声質には言い知れぬプレッシャーが含められている気がした。それを真正面から当てられた沖釜は少し顔色を悪くしながら、しぶしぶ首を縦に振った。


「分かりました。でもそいつが本当にダメ男だったら、ちゃんとそこの女はこっちが引き取りますからね!」

「いいよいいよ好きにしちゃってー」


 勝手に交渉されて雨谷の心はささくれ立っていたが、橘監督の飄々とした態度を後ろから見ているうちにどうでもよくなった。というよりは、無類の信頼を寄せられているから、期待に応えるためにイライラしていられなくなったのだ。


「あ、そうだYUII君、さっき確認したんだけどねぇ、このデータの中にもう一曲『eve』じゃない曲があるけど、これ何?」


 橘監督が振り返りながら脱線した話題を振ってくるので、雨谷は一瞬だけ反応が遅れた。そういえば今日提出した音楽データの中に、うっかり別の曲も入れてしまっていたのを思い出す。


「ああ、それは次の新曲です。一応すべて完成しているので、この収録が終わったらウィーチューブに投稿しようかなと。題名はまだ決めてないんですけどね」

「これ、まだ声入ってないでしょ? ちょっとここで歌ってみてくれない?」

「え!?」


 すっかり『eve』を歌う気でいたので雨谷は驚きすぎて大声を出してしまった。その反応を見るや、橘監督は普段緩んでいる顔立ちをさらに緩ませて、すりすりとわざとらしく手のひらをすり合わせた。


「頼むよー。キミがキユイ君以外に歌わせるの嫌だって分かってるけど、キミの歌声も聞いてみたいんだ、ね、頼むよ!」

「……小見原さん」


 縋るように小見原を見ると、彼女は即答した。


「私はいいわよ。それに、まだ貴方の声でお手本聞いてないし」

「じゃあ……一回だけ、ですよ」


 どうせ沖釜を見返せれば、それでいいのだ。橘監督から太鼓判をもらった『eve』ではないので、どんな評価があの新曲に下されるかは未知数だが、小見原が絶賛してくれた曲なのできっと大丈夫だろう。


 雨谷は今度こそガラスで仕切られた小部屋に入ると、マイクの前でぐっと伸びをした。初めてスタジオで歌うのに、不思議と緊張はしていない。沖釜への憤怒がまだまだ身を焦がしているが、ちゃんと頭は冷静だ。今から歌う曲は切なさをテーマにしているので、うまく感情を押し殺さなくてはいけない。


 目を閉じ、深呼吸して、瞼を持ち上げる。


 視界の中にはガラス越しにこちらを心配そうに見つめる小見原がいる。彼女を見るだけで荒んだ気持ちが凪いでいった。


「行ける。準備できました」

「カウント始めます。五、四、三、二、一……」


 傍らにギターはない。代わりに大型スピーカーから愛用のギターの声がする。弾き語りのために添える指先はマイクの艶やかな首に置き、いつも小見原に聴かせるように、喉を広げ、腹を震わせる。


『瓶底から見つめた二人の空を 滲んだ君は覚えてるかな――』


 この曲の歌詞は、水族館の真っ白な展望台から見下ろした水平線と、Akatukiに恋焦がれていたころの想いを綴ったもの。自分の幻想ばかりを詰め込んだ代物で、自分が歌うのはものすごく恥ずかしいのだが、だんだん曲と自分が一体化していくにつれて不純な感情は昇華されていった。


 三分半ばかりの曲を最後まで歌い終え、ふと顔を上げてみる。


 すると、小見原と藤咲、橘監督しかいなかったはずのガラスの前が、ほとんど全員のスタッフで埋められていた。沖釜もガラスにへばりつく勢いで、全員が全員、上気した頬のままじっとこちらを見つめていた。これではまるで小見原がこのガラスの小部屋にいるかのような反応で。


「えっと?」


 好感触すぎる反応に混乱しながら雨谷が無意味な声を出すと、橘監督がどたどたと走ってきてドアを乱暴にこじ開け、雨谷の両手を取って顔を近づけてきた。


「な、なになになに!」

「今の曲ドラマのエンディングね! 決定ね!」

「ドラマって……ああ」


 一瞬何の話か分からなかったが『ときめきレモンソーダ』のエンディングに使いたいということだろうか。もう別の曲で決まっていたような気がするのだが、橘監督が言うなら気のせいだったのだろうか。

 まだ理解が追い付いていないまま、雨谷はぼんやりと口を動かした。


「まぁ、別にいいですけど、でもこの曲は小見原さんに歌ってもらわないと」

「いーや、君じゃないとだめだ!そうだ、キミも歌手として彼女とコンビを組んだらどうだい!」

「え、ええ!? 僕が歌うんですか!? っていうかいきなりすぎますって! コンビって何です!?」

「YUIIとして歌うのが嫌なら別のネーミングをつけよっかぁ! そうだ作曲者と歌ってる人が別人と思わせて、後からバラすのはいいんじゃないかなぁ!? 世間がそれでぐっと心つかまれたら絶対に特番組まれるぞーこれはぁ!」

「あのー監督聞いてます!?」


 手をぎゅっと握りしめて離さない橘監督に大声で呼びかけても、彼は無視を決め込んで「あっ」とガラスの方へ振り返った。


「沖釜君! さっきの約束、忘れてないだろうねぇ!」


 そう声を掛けられて、沖釜はずっとガラスに張り付いた体制からはっと身を起こした。今の今まで上の空だったらしく、本人もそれを自覚して顔を真っ赤にしていた。沖釜は物凄く悔しそうに端正な顔立ちを歪めた後、腕を組みながら思いっきりそっぽを向いた。


「……っはいはい! 広告塔でもなんでもやらせてもらいますよ!」

「言質取ったからねぇ! じゃあ、早速本番行ってみようか!」

「だから、監督! 話聞いてください!」


 何度雨谷が訴えても橘監督は話を聴いてくれず、結局、今日の収録は延長されて、エンディング曲もスタッフの謎の連携で当然のように採用されることになった。予想外なことが立て続けに起こりすぎて、その日の帰りに小見原を『憩いの切り株』に誘うことも、雨谷は家に帰るまですっかり忘れてしまっていた。

沖釜 「まさかあんなに上手いと思うか普通……」

小見原「あまり私のYUIIを舐めないでよ」

沖釜 「くそ、ライバルが増えるのは大歓迎だが、あんなへっぽこ野郎がなんでっ!」

小見原「まだ言う気?」

沖釜 「……キユイ、もしあいつに愛想が尽きたらおれんとこ来いよ。おれも歌はそれなりだし、デュエットならおれと一緒の方が絶対人気出るし」

小見原「残念でした。私はあの人以外には絶対になびかないから!」

沖釜 「クソォッ! 爆発しろ!」

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