(18)二人の空
春風は小学生のころ、なかなかクラスに馴染めずにいた。
いじめられてはいなかった。ただクラスメイトと話すのが人よりも難しくて、特別仲が良い友達のいない子なだけだった。だがグループの中に入れないという状況が、春風にはつらいことで、昼休みは居場所のない教室から逃げるように校舎裏に隠れて座っていた。そこはグラウンドからも遠く、隣の幼稚園の様子が見れる開けた場所で、フェンス越しに見下ろせばコンビニや寂れた神社を見ることが出来た。
楽しそうな同級生の声が遠のくここは、春風にとっての秘密基地で、唯一の安らぎの場所だった。
その日も、春風は校舎裏で静かに鳥の図鑑を眺めていた。しばらく無心で硬いページを右から左へ倒していると、がさごそと茂みの方から大きな音がした。時々遊びに来る野良猫かと思って顔をあげると、そこには見知らぬ少年が立っていた。
「ひっ」
思わず本を抱き締めながら縮こまると、少年は慌てながらしーっと人差し指を口に当てた。春風は本で口元を隠しながら立ち上がり、少年からジリジリと距離を取る。
「あの、なんの用?」
「逃げてきたんだ。少しだけ匿ってくれない?」
「か、匿うって……」
ここはフェンスと小さな茂みがあるだけで、隠れる場所はほとんどない。春風はすぐにこの少年の追っ手がここまで来て、せっかくの楽園が踏み荒らされるのを想像した。
「ど、どこか別の場所に行ってよ! 邪魔しないで!」
「そんなこと言わないで。もうここしかないんだ……」
泣きそうな顔で訴えてくる少年は、春風が見捨てたら今にも消えてしまいそうなぐらい儚く見えた。それで敵意を忘れて、恐る恐る聞いてみた。
「何が、あったの?」
「親から逃げ出してきたんだ」
「親が学校に来てるの?」
親が学校に来るときは大抵、子供が叱られるようなことをした時だ。春風はこの大人しそうな少年が一体何をしてしまったのか心配になった。
「うん。部屋から抜け出して勝手に学校に行ったのがバレちゃったから、見つかったら帰らないといけないんだ」
「え、学校に来ちゃダメってこと? ふつう逆じゃない?」
予想していたものと随分違う答えに春風は目を瞬かせた。春風ならただ辛いだけの学校を行かなくていいと言われたら、喜んでそれに従うだろう。逆に言いつけを破ってまで学校に来た少年の行動は春風には信じられなかった。
だが少年は、心底うんざりした様子で空を見上げた。
「母さんが、学校に行くよりもやらなきゃいけないことがあるからってずっと部屋に閉じ込めるんだ。一週間もずっとだよ? もう家にいたくないよ」
確かに、一週間ずっと自分の部屋に閉じ込められるのはつまらない。家でやりたいことにもすぐ飽きて、抜け出したくだってなるかもしれない。なんだか大変そうだ、というぐらいの同情を春風は抱きつつ、そこまでして親が夢中になるやらなきゃいけないことが気になって仕方がなかった。しかしさっきから質問ばかりしていて、これは会話になっているんだろうか、と心配になってきて黙り込んでしまう。
だが少年は喋らなくなった春風を不思議そうに見るだけで、隣に来て警戒心もなく座ってしまった。
「君も座りなよ」
「う、うん」
春風は大きな図鑑を両手で抱きしめながら、少し離れた場所に座る。お気に入りの場所は走り回れるほど広いのに、今は窮屈に感じられた。長い沈黙が流れて、数分ぐらい同じ時間が過ぎていく。
頭上で流れる雲が太陽を薄く隠して、周りが暗くなったころ、春風はようやく口を開いた。
「あの……学校に行くよりも大事なことって、なに?」
一度会話を途切れさせたせいで、すごく居心地が悪い。少年も同じ気持ちなのか、膝をもじもじさせながらそっぽを向いてこう言った。
「大したことじゃないよ。曲を作ること」
「へぇ! 曲作れるの!?」
小学生の春風にとって作曲とは音楽の教科書に載っているような偉人のすることだ。それを同い年ぐらいの少年がやっているなんて、いきなり有名人が学校に来たような衝撃だ。
純粋に目を輝かせながら春風が距離を詰めると、少年は驚きながらも照れ臭そうに笑ってくれた。
「うん。本当にちょっとだけなんだけどね。でも母さんはもっと作れって言うんだ」
母親が話題に出るや否や、折角笑ってくれた少年の顔が曇ってしまった。少し強い風が吹いて、隠れていた太陽がまた顔を出して暖かな日差しが降ってくる。春風にはまだ、少年が日陰にいるように見えた。
「大変そう、だね。辛い?」
「え?」
「その、昼休みに先生が外で遊びなさいって言ってくる時、すごく嫌な気持ちでしょ? それと同じかなぁって、思って」
これで相手に理解してもらえたかな、と心配しながら様子を伺ってみる。少年はしばらく膝に顎を乗せて考えた後、目を伏せながらゆっくりと頷いた。
「……うん。辛いかも。もっと学校に行きたいし、みんなと遊びたい。音楽以外の好きなことしたいな」
「音楽以外?」
「うん。友達がやってる釣りとか、ゲームとか、色々ね」
「へぇ」
いかにも男の子が好きそうな遊びばかりだ。どれも春風にはやったことがないものばかりだったが、周りが当たり前のようにやっていることを自分だけできない辛さなら分かっているつもりだった。
もし自分が男の子で、釣りやゲームが趣味だったら、この会話をきっかけに友達になれたのかなと、男の子たちを羨ましく思う。小学校では男の子は男の子、女の子は女の子同士で遊ぶのが当たり前だから、女の子の春風はこの少年とは友達になれないと諦めた。
でも、少年はまるで友達のように会話を続けてくれる。
「そっちは何読んでたの?」
「あ、えっと、お魚図鑑……図書室から借りたの……」
「魚好きなの?」
「そこまででもないけど」
見ているだけでワクワクする図鑑が好きなだけで、数ある中から魚を選んだのも青い表紙が気に入っただけだ。そんなものを相手に見せるのはなんだか忍びなかったのだが、少年はむしろ目を輝かせて覗き込んできていた。
「一緒に見ていい?」
「い、いいよ」
大きな図鑑とは言え、二人で読もうとすれば膝や肩をくっつけあわなければならない。友達がいない春風には信じられない距離感で、肩から伝わる高い体温と耳にかかる吐息にどきどきが止まらなかった。
「わぁ、このウミウシっていうの、初めて見た」
「う、ウミウシ見たことないの?」
「うん。こんな生き物いるんだね」
春風がウミウシを見た時と全く同じ感想で少年に親近感が湧く。そしてつい、先週に行った水族館の説明文を思い出しながら自慢したくなった。
「いっぱい種類があるんだって。あか、あお、きいろ、他にもたくさん」
「そんなにあるの? すごいね」
「色と形で名前も違うんだよ。私は水色の子が好きなの。ミゾレウミウシっていうの」
「みぞれって、雪と雨みたいな?」
「多分、そのみぞれだと思う」
「へぇ、見てみたいなぁ」
図鑑の中のウミウシコーナーは、残念ながら右端に小さく乗っているだけで、アオウミウシの写真が一枚載っているだけだった。後ろのページまで探してもきっとミゾレウミウシはいない。だけど春風はどうしても少年に見て欲しくなった。
だから、勢いに任せてこんなことを言った。
「……こ、今度の遠足、水族館だって。そこで見れると思う、よ?」
断られるかもしれない、という後ろ向きの考えはすぐに少年の笑顔で霧散した。
「本当!? じゃあ一緒に見に行こうよ。あ、でも君って何組?」
「えっと、二組」
「そっか! 僕三組だから、同じ時間に行けるよね」
「ほ、本当にいいの?」
「いいに決まってるじゃん。君となら絶対楽しいと思う!」
夢のようだった。今まで遠足は、班分けでいつも春風だけ余っていて、いやいやながら別のグループの子が入れてくれるだけ。班で一緒になっても最後尾を歩いて会話に混ざることもできず、ただ時間が過ぎるのを待つしかない地獄だった。そんな自分の隣を歩いてくれる人がいると思うだけで、遠足が何よりも待ち遠しいものになった。
「そうだ、僕、雨谷優樹って言うんだ。君の名前聞いていい?」
「は、春風……叶恵……」
「はるかぜかなえ? かなえって友達が他にいるから、かなちゃんって呼んでいい?」
「あ、う……」
いわるゆあだ名だ。欲しかったものがいきなりたくさん手に入って、春風は顔が熱くなってまともに顔を上げられなくなった。
「嫌? じゃあ僕のことゆう君って呼んでよ。みんな僕のことゆう君って呼ぶから」
いきなり相手のこともあだ名呼びするのはかなりハードルが高い。だが嫌われたくないのと、呼んでみたいという思いに後押しされて、春風は恐る恐る名前を紡いだ。
「ゆ……ゆ、ゆう、くん」
「うん。えへへ、かなちゃんに呼ばれるとなんか嬉しいな」
本当に嬉しそうに笑う雨谷を見ると救われた気持ちになる。踏み込んだ分だけ受け入れてくれる彼の優しさが純粋に嬉しい。そして雨谷の方からも、春風の方へ当たり前のように歩み寄ってくれる。
不意に小指が目の前に差し出されて、その後ろでいたずらっぽく雨谷が笑う。
「僕の名前これで覚えたでしょ。遠足の時、絶対呼んでね。約束」
「う、うん!」
小指を絡ませて約束すると、今まで感じたことがないほど幸せな気分になった。だらだらと眺めてきた景色が一瞬で鮮明な色を見せてきて、花や草の香りがより強く感じられる。息が詰まるだけの学校で始めてまともな呼吸ができた気がした。
「ゆ、ゆうくん! 明日もここに来てくれる?」
「もちろん!」
結ばれたままの小指に力がこもって、それから名残惜しく解ける。春風は何とかつながりを保ちたくて必死に喋った。
「あの、ゆうくんの曲、聞いてみたい」
「え、僕の?」
「一曲だけでいいの……嫌?」
「ううん。恥ずかしいから……わ、笑わない?」
「笑うわけないよ」
真剣な面持ちでそう言うと、雨谷はほっとしたように肩から力を抜いた。
「じゃあ、今度聞かせてあげるね」
「本当!? ありがとう!」
遅れてかなり大きな声を出してしまったと気づいて、春風は慌てて口を閉じた。雨谷はそれを見てくすくすと笑うと、どこか大人びた表情で空を振り仰いだ。春風もつられて空を見ると、校舎の屋上の上にのっかった晴れ空が眩しかった。点々と浮かぶ雲は島の形に似ていて、そういえば雲の上に住むのが幼稚園の夢だったと変なことまで思い出してしまった。
それから、深く考えずに春風は聞いてみた。
「ゆうくんは、どうして曲を作ってるの?」
「ん? んー……楽しいから、かなぁ。いろんな音を組み合わせて、長さとか、テンポとか変えて聴くのが好きなんだ。教室から聞こえるみんなの声とか、チョークの音とかを楽器に当てはめて、曲にして作り直すんだ」
「へぇ……すごいね。楽しそう」
「でしょ? それを教室のピアノで弾いてみたらさ、みんなすごいって言ってくれて、昼休みに毎日聴いてくれるんだ。別のクラスの子も廊下まで来て、すごく小さいコンサートみたいで」
「そうなんだ……」
春風はいつも昼休みになってすぐに外に行ってしまうから、そんな事があったなんて全く知らなかった。少しでも教室を出るのが遅かったら、隣のクラスから聞こえる雨谷のピアノが聴けたかもしれないのに惜しいことをしたと思う。そんな風にがっかりしていると、雨谷はニコニコしながら言った。
「今気づいたんだけど、やっぱり僕作曲家になりたいんだと思う。みんなに僕の曲聴いてもらい」
「ゆうくんなら絶対なれるよ」
「そう? そうだといいなぁ」
「わ、私がゆうくんのファンになるから! ずっと応援する!」
「えー、僕の曲って分かるかなぁ」
「分かるよ! だって、ゆうくんは有名になるんだから!」
両手を握りしめながら力説すると、雨谷は口元を手で覆いながら春風から目を逸らした。
「じゃあ……頑張る」
「うん! 待ってるからね、ゆうくんが教科書に載るの!」
「教科書には載らないんじゃないかなぁ」
ふにゃふにゃと雨谷は笑いながら、春風の方に身を寄せた。日向よりも暖かい体温が心地よくて、春風は目じりを細めながら明日のことを話そうとした。
その時、
「優樹!!」
突然女性の怒鳴り声が聞こえて春風は大きく飛び跳ねた。驚いて雨谷の後ろを見ると、化粧が濃くいかにも高そうな服に身を包んだ派手な女性がいた。かつかつとヒールを鳴らしながら近づいてきた女性は乱暴に雨谷の腕を引っ張って無理やり立たせ、ものすごい剣幕で罵倒した。
「このクソガキ! 家から出るなって言っただろ! 早く帰るよ! まだあの曲完成してないんだから!」
「痛い! 離して!」
「こんな小汚いところで座りやがって……あーあー、服が汚れてる! 誰が洗うと思ってんの!?」
パン! と鋭い破裂音がして、雨谷の頬がはたかれた。見る見るうちに頬が赤くなって、雨谷の両目からぼろぼろと涙が溢れる。
「泣くんじゃない! 鬱陶しいんだよ!」
もう一度振りかぶられた腕を見て、春風は図鑑を投げ捨てて飛び出した。
「やめて!」
春風は雨谷の腕を掴む女性の手首に飛びつくと、思いっきりそこを齧った。
「いったぁ! なにすんのよ!」
すぐに標的がこちらに代わり、思い切り髪の毛を掴まれた。今まで感じたことのない強い暴力が全身をすくませて、春風は暴れながら大声で泣いた。
「うわああああああん!」
「な、泣くんじゃないよ! 泣くな! 黙れクソガキ!」
「母さんやめて!」
春風に迫っていた大きな手の前に雨谷の腕が伸びてきて、また痛そうな音が響き渡った。赤く腫れていく雨谷の腕を見て春風はますます大きな声で叫んだ。
「うあああああああああああ!」
掴まれた髪の毛に構わず春風は暴れて女の手から逃れると、雨谷の腕を引いて逃げようとした。だがすぐに襟首をつかまれて、地面に引き倒されてしまう。雨谷も一緒に後ろに倒れてしまい、繋いでいた手もその拍子に離れてしまう。雨谷がすぐに心配して顔を覗きこんでくるが、話す間もなく女に引き離されてしまった。
「邪魔するんじゃないよ! ほら優樹、帰るわよ!」
「かなちゃん! 酷いよ母さん! なんでこんなことするの!」
「お前が約束を守らないからだ! いいから歩きなさい!」
恐怖で春風が動けない間に、だんだんと二人の声が遠くなっていく。
「かなちゃん! 明日絶対に来るから! 遠足も一緒にいくから!」
「黙りなさい!」
また叩く音がして、雨谷が弱々しく泣く気配がする。春風は起き上がることもできず、両腕で目を隠して泣くことしかできなかった。二人が完全にいなくなった後は、身体のあちこちが痺れるような痛みに苛まれて、余計に涙が溢れてきた。
やがて昼休みの終わりを告げるベルが鳴ったが、先生が探しに来てくれるまで春風は動けなかった。保健室で擦り傷の手当てを受けて、初めて親に車で迎えに来てもらって、呆然としているうちに一日が終わった。
次の日の昼休み、今度はウミウシがたくさん載っている図鑑を借りて春風は校舎裏に向かった。雨谷が来るまで図鑑は開かないと決めて、ずっと色あせた空を見上げて待っていた。
雨谷は来なかった。次の日もその次の日も来ることはなく、一週間してやっと、隣のクラスでいきなり転校した生徒がいるという話を聞いた。




