(16)ズル休み
「はぁー……怖かったぁ!」
顔合わせと一通りの説明が終わった後、小見原は胸元を押さえながらビルの外でへたり込みそうになった。
都心の大手ビルが立ち並ぶ場所なだけあって、周囲にはテレビで見た事のある形の建物が密集していた。近くには高級ホテルや飲食店があり、道行く人までどことなく格式ばったような雰囲気を纏っていた。都心から外れた場所に暮らして小見原にとっては、都会を絵にかいたような光景は圧巻である。この道を大物芸能人が当たり前のように出入りしていて、今立っている場所も、テレビで見た事のある人が立ったことがあると思うと感激した。
「すごいなぁ、まさかこんなところまで来れるなんて……」
雨谷は広々とした入り口から真上を見上げて圧倒されていた。驚きすぎて口が開きっぱなしだ。もう少しこの間抜けな顔を近くで見ていても良かったが、今日は見てまわりたいところが沢山あるのだ。
「私観光したい。付き合って」
「いいけど、いいのかなぁ。一応僕ら、ズル休みしちゃってるんだけど」
橘監督との顔合わせの日取りが平日だったので、二人はやむなく学校に適当な理由をつけて休みの連絡をしておいた。もちろん親公認なので、学校にも怪しまれることはないだろう。今ごろ小見原たちのいない教室は二時限目が半分終わったぐらいだろう。
雨谷はズル休み特有の背徳感で、このまま遊んでいくのは気が引けるらしい。小見原にはそんな律義さなんて関係なかった。
「帰ったって勉強しろって言われるのがオチでしょ。みんな学校なら人目も気にしないでいいんだし」
「……それもそうだね。じゃあ、どこに行こうか」
「あっちの方! 有名なパンケーキ専門店があるの! 一度行ってみたかったんだ!」
表通りから脇道に入った先にある『憩いの切り株』という名の喫茶店がある。そこの定番である、切り株の形を模したスフレパンケーキは毎日長蛇の列ができるほど美味しいらしい。小見原は一度そのパンケーキの写真を見た事があるのだが、死ぬ前に必ず一度でも食べに行くと熱意を燃やすほど一目で恋に落ちてしまった。
今日は平日、しかも午前十時を越えたばかり。この時間帯ならいくら有名店でも空いているに違いない。小見原は早速スマホの地図の通りに進んで『憩いの切り株』へ立ち寄った。
『憩いの切り株』の店頭が目に入った瞬間、スフレパンケーキと等しく小見原は心を奪われた。店の前に置かれた切り株の模型には可愛らしいドワーフが座っており、その横にはよくある黒板のメニューボードが立てかけられていた。周囲は手入れが行き届いた白やピンクの花が並べられ、アンティーク調の小さな風車が、その一帯に西洋の田舎のような雰囲気を作り出していた。
小見原は目を輝かせながらガラス張りの店内を眺めた。やはりこの時間はかなり空いているようで人がまばらだ。厨房では手際よくおしゃれなデザートを作り上げる店員の姿も見える。
「雨谷! 早く早く!」
「あはは、そんなに急がなくても」
白樺のオーニングの下をくぐってドアベルを鳴らすと、エプロン姿の店員が笑顔で出迎えてくれた。窓際の席に案内されて、意外と分厚いメニューを手渡される。表紙には小見原が求めてやまなかったスフレパンケーキが大きく載っていて、お腹が小さく鳴ってしまった。
「お決まりでしたら、そちらの呼び出しボタンを押してください」
そう言って店員は奥へ戻り、スローテンポなバックミュージックが小さく聞こえてきた。窓際に置かれた席からは店の前に並べられていた花壇やノームの置物がよく見えて、白く照らされたアスファルトが本当に異国の風景に見えてきた。
小見原はふと、テーブルの日差しの反射が雨谷の輪郭を染めていることに気づいた。黒い髪から透かして見える白い目元や伏せられたまつ毛が木漏れ日のような影を残して、雨谷の大人びた顔立ちを際立たせている。小見原はメニューから手を離し、頬杖を付いて雨谷の顔をじっと見つめた。
「小見原さんが食べたいのってこれ?」
「……あ、うん」
普段より落ち着いた低い声が鼓膜に触れ、小見原はソワソワしながら開きっぱなしのメニューへ視線を落とした。だが写り込む写真や文字が頭に入ってこない。ぼんやりとしたまま最初のページの継ぎ目を見つめていると、雨谷がテーブルから身を乗り出して心配そうに聞いてきた。
「どうしたの? 眠い?」
「ち、違うわよ。悩んでただけ!」
小見原は咄嗟に分厚いメニュー表で壁を作ってそこに顔を隠した。反対側で雨谷が困惑している気配がするが、構ってやれる余裕はない。
せっかく二人っきり。デートのような今の状況で、浮かれているのはきっと自分だけだ。フォーマルな格好で大人びた雨谷は笑う時も、なんだかいつもよりクールに見える。逆に、目元を隠す長いニュアンスパーマは柔らかそうで、気を抜いたら犬を撫でる感覚で手を伸ばしてしまいそうだ。そしてメニューを見ながらチラチラと忙しなくこちらを伺う姿も、庇護欲が湧いてくる。
今手を握ったらどんな反応をしてくれるんだろう。そんな思考までよぎって、小見原はその発想を追い出すように軽く首を振ってメニューを置いた。
「私は決まったわ。アンタは何を頼むの?」
「色々あるから悩んでるんだ。滅多にここには来れないって思うと決められなくて」
「どれと迷ってるの?」
「えーっと、こっちのブラックチョコシフォンと、このスフレ」
ページをめくりながら雨谷が指差したものを見て、小見原は肩をすくめた。
「スフレは私が注文するから、こっちとシフォンで半分ずつ交換すればいいじゃない。それならどっちも食べられるでしょ」
「え、い、いいの?」
「いいに決まってるじゃない。私もシフォンケーキ食べたかったし」
口ではこう言ったものの、小見原はこの店のメニューの一ページ分ぐらいは一人で食べられる自信があった。しかし体重を維持したいのもあるし、日々の栄養バランスを考えてくれる母を裏切ってしまうし、何より雨谷に引かれたくない。ケーキ二つぐらいが小見原のギリギリの妥協点だった。
「そっか。ありがとう。じゃあ、頼んじゃうね」
「ええ」
やっぱりもう少し頼みたい、という欲求を振り払うように小見原は短く返事をした。
ぽちっとボタンが凹むと、店内にポーンと高い音が響いてすぐに店員が来た。すぐに決めていたものを伝えて店員が引くと、雨谷ははにかみながら、こんなことを言った。
「あの、さ。食べ終わってまだ行けそうだったら、追加で頼んでいいかな」
「っいいに決まってるじゃない!」
願ってもない話につい目を輝かせてしまい、小見原はすぐさま咳払いをした。
「こっちは気にしないで好きなだけ食べなさいよ」
「う、うん。でも小見原さんはいいの? 僕だけ食べ続けてるの見てても楽しくないだろうし」
「そんなの気にしなくていいわよ。どうせ私も食べるんだから」
「そう?」
雨谷が食べるのなら自分だって食べてもいいはず。同じぐらいの量ならドン引きもされないだろうし、あわよくば半分こして、できるだけたくさん食べたい。お互い半分ずつ食べたらカロリーも半分。なので脂肪を気にする必要はない。ないったらない。
妥協した当初の理由をまるっと忘れて小見原は満面の笑顔になった。上機嫌な小見原を見た雨谷もなぜだか嬉しそうに微笑んで、去っていった店員を追うように店のカウンターの方を見た。
「……あれ?」
不意に雨谷がカウンターの奥にある別の席を見たまま動かなくなった。変なものでも見つけたのだろうかと小見原もそちらを見ると、一組のカップルが同じようにこちらを見つめていた。
一人は海外モデルかと目を疑うほど、座っていても分かるプロポーションの女性。もう一人は、小見原と同い年ぐらいの茶髪の柔和そうな男性だった。向こうもこちらの視線に気づいた様子で、女性の方は面白そうに男性と雨谷の方を見比べながら何か話している。それを聞いた男性は耳まで顔を真っ赤にして、ぱくぱくと口で魚の真似をしていた。
そんな怪しい二人を雨谷は見つめた後、あっと思い出したように声を張りあげた。
「大地だ。なんでこんなところにいるんだろ」
「知り合い?」
あの雨谷が下の名前で呼ぶような人がいたなんて、と小見原は内心で感慨深く思ったが、雨谷はあっさりとこう言った。
「うん。小学校で一緒のクラスだったらしいよ」
「らしいって、アンタの友達でしょうが」
「あはは、当時は仲が良かったって大地は言ってたけど、僕はよく覚えてないんだ」
「仲が良かったら普通に覚えてるもんじゃないの?」
そうこうしているうちに、あちらの二人組も話が決まったらしく、席を立ってこちらへ近づいてきた。立ち上がったことで女性のスタイルが余計に分かりやすくなる。足が長い、美白、胸がデカい。小見原は自分の胸元と見比べて歯噛みした。
相手の女性はそんな小見原の反応を目敏く察し、意味深に笑みを深めた。そしてなぜか、明らかに雨谷の方へ一歩前へ進み出る。
「初めまして〜。キミたちっていうか、可愛いそっちの男の子の方がコイツと知り合いなんでしょ?」
「はい。まぁ……」
雨谷が引き気味に返事をすると、女性が急に雨谷の方へ顔を近づけた。その拍子に女性の胸が揺れ、雨谷の目線が一瞬だけそこを掠める。小見原は今すぐドラゴンのようにブレスでも吐いて辺り一面を焼き尽くしたくなった。
「あ、もしかしてキミが雨谷クン? コイツからしょっちゅう聞いてるんだよ〜! 最近やっと会えたのになかなか電話する勇気出ないどうしよ〜って痛っ!」
身体をくねらせながら雨谷に近づいていた女が、突然後ろから蹴りを入れられ飛び跳ねた。やったのは勿論、あの柔和そうな連れの男性だ。しかし今は優しげな印象を吹き飛ばすほどの憤怒の形相である。
「ベラベラ喋るな! 殺すぞ!」
「いやんもう、可愛い顔で怖いこと言うわね〜」
さらっと男性の怒りを受け流して、女性は男性に蹴られた腰の埃を払った。そんな姿まで様になるし、雨谷の目が女性に釘付けになる。
小見原はいても立ってもいられず、立ち上がりながら二人組を睨みつけた。
「何の用よ」
あからさまな敵対心を見せつける小見原に、謎の女性は余裕の笑みを見せる。隣では憤怒を収めた男性が申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「ごめんねお邪魔しちゃって。俺、雨谷の友達の阿藤大地です」
「あら? ワタシも自己紹介する流れ? 大庭葉風です、よろしく〜」
「あ、雨谷優樹です」
「……小見原唯です」
ペコリと素直にお辞儀する雨谷と毛を逆立てる小見原を見るや、大庭の目がキランと光った。
「ちょっとちょっと! どっちも可愛いんだけど! 大地ちゃんと同い年!?」
「え? ええ。はい」
「やっだぁ! どストライクぅ!」
オネエのような大庭の口調に雨谷はさらに顔を引き攣らせる。だが押せ押せモードに入った大庭は止まらない。両手で雨谷と小見原の手を取って、豊満な胸元を寄せて不気味に身をくねらせた。
「ねぇねぇっ! このあとワタシたち楽しいお仕事するんだけどぉ、一緒に来ない? みんなに自慢したいわ! 大地ちゃんのお友達!」
「やめろ! 本当にぶっ飛ばすぞ!」
「もーあまり強い言葉を使わないの! 弱く見えちゃうぞ★」
「本当に黙っててくんないか!? 三十秒だけでいいから!」
小見原は心底、阿藤という男性に同情した。この女性なのにオネエもどきの大庭がいるだけで全然話が進まない。
見かねた雨谷が恐る恐る挙手をしながら二人の間に割って入った。
「えっと、失礼ですが二人はどう言う関係で?」
「ワタシ? 大地ちゃんとチーム組んでるの! 今日は一緒にホテルでお泊まりして……」
「わあああ! どこまで話す気!?」
「大丈夫よ、もうこんなことでドキドキするなんてホント大地ったらお馬鹿さん!」
パァン! とキレのある平手が阿藤の頬にクリーンヒットし、彼は床で痙攣しながら沈黙した。
「え……あの、え?」
「あ、勘違いしないでね。チームと言っても、バスケとか野球じゃない、仕事の方よ! 仕事仲間は他にもたくさんいるし、今日のホテルだってビジネスのお泊まり会だから、ワタシたちは付き合ってるとかじゃないの! 残念だったわねー!」
「へ、へぇ……」
友人が目の前で冗談と思えない威力で吹っ飛ばされ、その加害者に平然と会話を続行されたら誰だって雨谷のようになる。小見原は阿藤に合掌した。
未だ起き上がらない阿藤を大庭は爪先で突いた後、こてんと愛らしく首を傾げてきた。
「そう言うお二人は、どんな関係? 今日平日でしょ? 学校は?」
「えっと、その」
「それを言うなら、阿藤さんも一緒じゃないの?」
反射的に小見原が揚げ足を取ると、大庭は頬に手を当てて笑った。
「あら! そういえばそうだわ。ねぇなんで大地ちゃん学校行ってないの? ねぇ大地ちゃん。生きてる?」
「ちゃん付けするなよ! 学校には祖母の法事って言い訳してるんだよ!」
床から顔を上げながら阿藤が叫ぶ。大庭はそれを見下ろしながら、腕を組んでニヒルに口を歪めた。
「いつかバレるわよ、その言い訳。アナタ毎週お婆ちゃんかお爺ちゃん殺すの?」
「なわけあるか! って言うかそれどーでもいい! 質問する相手あっちだろ!」
「そうだったわ! うっかりうっかり! で、そっちのお二人も、大地ちゃんみたいにお爺ちゃんかお婆ちゃん殺してきたの?」
「そんなわけあるか!」
「そんなわけないでしょ!」
奇しくも阿藤とハモり、謎の連帯感が生まれた気がした。そして雨谷が冷静に嘘八百を並べる。
「僕らも大事な用事があってここに来たんです。小見原さんとは同じ学校で、たまたま用事が被ってたので一緒に来たんですよ」
「なるほどぉ。でも二人っきりでここに来るなんてデートみたいじゃない? さっきもケーキ半分個にするって話し合ってて大地ちゃんがヤキモキして……」
「だあああああ! マジで黙ってて!」
よかった、うまく追求は免れた。だがその代わりにあらぬ疑惑が持ち上がりかけている気がして、小見原は口を挟んだ。
「言っておくけど、デートじゃないから。私、こいつのこと尊敬はしてるけどそう言う目で見てないし!」
「おやぁ? それは野暮な想像しちゃったみたいねぇ」
チェシャ猫のように目を細める大庭を小見原はじっとねめつける。この女とは何故だか一生分かり合えないような気がしてならない。
女同士の目線による殺し合いの傍ら、阿藤は雨谷の肩を掴んで、唾を飛ばす勢いで捲し立てた。
「雨谷! 俺とこの人、ホンッットーに付き合ってないから! 今日の夜電話するから! 誤解とかしないで、な!?!?」
「う、うん。分かった」
「じゃあ解散! 俺ら席に戻るから! どうぞお構いなく!!」
「やだぁ折角だし一緒に食べましょ〜」
「却下!!!」
阿藤は大庭の腕を引っ掴むとそのまま元の席の方へずるずると戻っていった。二人のテーブルはカウンターを挟んだ距離があるのに、怒鳴り合う声がまだこちらまで聞こえてくる。
小見原は二人のことを眺めながら椅子に座って、どっと押し寄せた謎の倦怠感にため息をついた。
「なんだか嵐みたいに喧しいわね。あなたの友達」
「うん。大地が友達だったのかまだ確証が持てないけど」
「……それ、本人の前で言っちゃダメだからね」
「……? うん」
不安になる雨谷の返事を聞いて小見原は頭が痛くなってきた。過去に友達が出来ないと雨谷は話していたが、こういうところも原因なんじゃないだろうか。額に手を当てながらそんなことを考えていると、甘い匂いとカラコロと揺れるグラスが近づいてきた。
「お待たせしましたー」
テーブルの上に並べられていくスフレとシフォンケーキは、写真で見た以上にふかふかとして美味しそうだった。もう面倒なことは抜きにして、小見原はフォークとナイフを手に取った。
「「いただきます」」
二人同時にそう言って一口目を食べる。しゅわしゅわと泡のように溶ける触感に驚き、それから蜂蜜の酸味のある甘さがきゅうっと湧き上がってくる。スフレパンケーキは皿の上に二枚、直径十センチぐらいの大きさだが、こんなにおいしいのなら一人で食べきれてしまうだろう。
だが雨谷との約束を思い出し、ナイフでパンケーキを一枚掬い上げて、雨谷の皿へ近づけた。
「ほら、雨谷」
「ん、僕のも」
雨谷から渡されたシフォンは意外と大きかった。パンケーキと交換するついでに雨谷の皿の方を見ると、明らかに小見原に渡したシフォンより小さな塊があった。
「ちょっと、ぜんぜん半分じゃないじゃない」
「失敗しちゃってさ。このあと何か頼むし、僕はこれでいいよ」
「そう?」
そこまで言うのなら、と小見原は彼の気遣いに甘えてケーキを受け取った。その時、雨谷がぽつりとつぶやいた。
「そういう目で見てない、かぁ……」
「何か言った?」
「なんでもないよ」
小見原はどこかよそよそしい雨谷を怪訝に思いながら、もらったばかりのシフォンケーキを一口食べてみた。甘みたっぷりのパンケーキを食べた後だからか、シフォンから強い塩味を感じた気がした。




