(10)バックラッシュ
翌日、雨谷が学校に登校してくることはなかった。小見原の前の席は常に空っぽで、黒板を遮る高い背中がないせいで嫌いな先生の顔がよく見えた。
小見原は朝から不機嫌だった。あのタイミングで雨谷の自室に入ってきた父親への恨みも、自分の浅はかな行動が招いた目の前の現実にも憎しみを抱き続けたままだ。
「小見原さん。凄いクマだけどなにかあったの?」
小見原の様子を見かねて、授業の合間に秋葉が声をかけてきた。クラスの交流のある女子たちも気になっていたようで、秋葉と小見原の様子を遠巻きに観察していた。その視線の群れにまた腹が立ったが、小見原は怒鳴ったりせず無言で秋葉の腕を掴んで廊下に出た。今の時間は移動教室やトイレに行く生徒が多いので二人きりになれる場所が限られてくる。小見原は少し悩んだ後、二つ隣の空き教室へ忍び込んだ。
窓際まで廊下から離れると喧騒がじわりと遠のいて、小見原はようやく口を開いた。
「昨日、雨谷の家に行ったの」
「いっ!?」
何やら秋葉が目を剥いているが構わず続ける。
「雨谷と他人に戻る前に、やりたいこと一つでもやっておこうと思ったの。見たかったものも見れたし、彼の部屋も見れたし。でも……」
カーテンの外された窓に手を這わせて、小見原は誰もいないグラウンドを眺めた。手前にある春の花壇は枯れ始めており、汚らしい茶色の花びらがアスファルトに落ちていた。
「……最後に決心が揺らいじゃったせいかな。バチがあたっちゃったんだ」
「……何があったの?」
小見原は大きく息を吸い込んで、緩みかけた涙腺を気にしないようあえてはきはきと喋った。
「前に雨谷がYUIIだってこと話したよね。それを脅しに使ったってことも」
「……うん」
「部屋の中にね、雨谷のお父さんが入ってきちゃって、全部見られちゃったんだ。前に雨谷が、親に作曲してることがバレたら、音楽関係のもの全部捨てられちゃうかもって。また部屋から出してもらえなくなるかもって」
そして小見原は、必死で考えないようにしてきたことを口にした。
「雨谷は私のせいで、学校に来れなくなったのかもしれないの。私が、私が家に行かなければ、あの時話しかけなければ、こんなことにならなかったんだよね。そうだよね?」
「唯……」
「馬鹿だよ私。大好きな人の大事なもの全部奪っちゃった……もう雨谷に合わせる顔がないよ……」
堪えきれずに、大粒の涙が目の縁から溢れてしまった。それを見た秋葉は力強く小見原を抱きしめて、あの日のように背中を撫でてきた。温かい手の平が背中を撫でるたびに、自分でも気づかぬうちに冷え切っていた身体に熱が戻ってくるのを感じる。心地よい温かさに瞼を下すと、秋葉はぼそりと耳元で行った。
「全く……今度こそ祟ってやるからねあの男」
「違うの。全部私のせいだから」
「もう、そうやって全部抱え込まないで。ほら、涙拭いて」
ぐいっとポケットティッシュを丸ごと押し付けられてありがたく数枚使わせてもらう。目を拭って、新しい一枚で鼻をかんでいると、秋葉が仕方なさそうに笑った。
「唯が話しかけたおかげで、雨谷と仲良くなれたんでしょ」
「……うん」
「じゃあそれでいいじゃん。悪いのは自分勝手な父親の方。二人とも悪くないの」
「でも……」
「いいから、難しく考えないで」
難しく考えてるのかな、と自分を振り返ってみる。全部自分のせいだと思っているが、今なら少しだけ雨谷のせいだと思えることもあった。あいつがもっと自信をもっていれば自分だって脅すなんて選択肢は出てこなかった。だから雨谷をあんな風に育てた父親が悪い。きっとそうだ。
そう思うと気が楽になった。かなり性格の悪い責任転換だが、少しだけ発散できたので、授業もさっきよりはまともに受けられるようになるだろう。
「ありがとう、ちーちゃん。そろそろ教室に戻らないと」
ぐいっと小見原が制服の袖で目元を拭くと、秋葉が深々とため息をついた。
「その顔で戻るの?」
「仕方ないじゃん」
ごみ箱にティッシュを投げ込んで空き教室から出ようとすると、秋葉に手を掴まれた。そしてにっこりと、笑顔で囁いてくる。
「ね、先生には言っておくから早退しちゃいなよ」
「ええ?」
「今のまんまでも授業まともに受けられないじゃん。一回家に帰ってスッキリしたら?」
「流石にダメでしょ。中学ならともかく高校じゃダメだって」
しかし秋葉は無言で笑みを深め、手を掴んだまま動こうとしない。小見原は恐る恐る首をかしげてみた。
「……ちーちゃん、本気?」
「本気。だって今の唯見てられないよ。今日一日学校にいたら消えちゃいそう」
「そんなわけないじゃん」
「中学校の時の唯、マジで消えそうだった。だからシャレになんないの」
「ちーちゃん……」
中学生の頃、小見原は度重なる酷いいじめに耐えかねて不登校になった。そして食事も取らず、部屋から出ようともしない小見原を引っ張り出し、また平穏な学校生活に戻れるように計らってくれたのは秋葉だった。
あの時は自分のことばかりで、どれだけ秋葉が心配してくれていたのかよく分かっていなかった。そして今も、彼女がまた心配してくれていることに本人に言われるまで気づけなかったのだ。
結局過去の自分と変われていないことを自覚して小見原がますます落ち込むが、秋葉は違った。
「なんならさ、会いに行っちゃいなよ。雨谷君に」
予想外の言葉に小見原は思考停止した。
「……え。でも私が会いに行ってもいいの?」
「あのねぇ、YUIIは芸能人じゃないし、同級生なんだから、会いにいくのに許可がいるわけないでしょ。問題は唯の気持ちだけだよ」
「だって」
「だってじゃないの」
会いたいんでしょ? と秋葉に詰め寄られてつい小見原は頷いてしまった。それを見た秋葉はしてやったりと笑みを深め、バシッとよろけるほど強く背中を叩いてきた。
「こう言う時は勢いで突っ込んでみるもんよ! 荷物は後で家に届けてあげるから。ほら、行った行った!」
小見原は後ろ髪を引かれて走れなかったが、ぐいぐいと押されてしまうので投げやり気味に廊下に出た。
そこから走り出してみると徐々に乗り気でなかった気持ちが動き出して、一気に昇降口まで走り抜けられた。靴を履き替え、潰した踵を片足跳びをしながら引き伸ばして足を収めると、正門の外まで一息に飛び出す。あっという間に学校が遠のいて、そこからは駅を経由して雨谷の家までノンストップで駆け出した。
顔を合わせる資格がないと言う思いは未だに小見原の中でジクジクと痛みを発しているが、足取りはすでに開き直ったように軽快だ。前へ前へとローファーで身体を押し出す感覚が、落ち込んでいた気持ちを前向きなものへ変えていくようだった。
早いペースで走ったせいで息は既に上がっていたが、不思議と苦しくない。とにかく会いたいと言う気持ちでいっぱいで、苦しさや辛さは二の次だった。
住宅街に入り、数分走った先でようやく見つけた。二階建ての一軒家、門には雨谷と苗字が書かれたその場所。ここからでも、カーテンで締め切られた二階の雨谷の自室が見える。
小見原は急ブレーキをかけて門の前に止まると、暗い雨谷の自室を見上げて覚悟を決めた。深呼吸をして無理やり呼吸を整えてから、人差し指を勢いよくインターホンに押し付ける。少し強すぎて突き指しかけて、小見原は無言で人差し指を抑えた。その痛みのおかげでここで引き返そうという気持ちが起きなかったのは、幸か不幸か。
痛みを取り繕いながらインターホンのすぐ横にある玄関のドアを見上げる。それから数秒もせずに、ドアノブがガチャリと、重々しく動き出した。
出てきたのは雨谷ではなく、あの陰気な父親であった。明るい日差しの下でも父親の落ちくぼんだ目元は暗く、生気を感じられない目つきで小見原を見下ろしてきた。
まさか、父親が出てくるとは想像もしておらず小見原は何も言えなかった。
「……君は、昨日家に来ていた子だね?」
「あ、はい!」
「用件を伺っても」
「雨谷に会いに、きました! きょ、今日学校に来てなかったので!」
驚きすぎてうまく呂律が回らなかった。恥ずかしくて顔が熱くなるのをありありと感じてますます穴に入りたくなったが、目の前の男が全く表情を変えないので少しだけ冷静になれた。
父親が昼間でも家にいるという事は、もしかしたら雨谷が部屋を出ないように監視をしているのかもしれない。雨谷が曲を作っているのを見ただけであのような冷たい表情が出来る人なのだから、監禁していてもおかしくない。
「あの!」
小見原はあえて大きな声で言った。
「雨谷は今部屋にいるんですか? 少しだけでも会わせてください!」
「それはできない」
「どうしてですか!? どうしても会いたいんです! 私は何度もあの人が作った曲に励まされてきたんです。あの人の曲がなかったら今の私はないんです。私にとっては人生で一番尊敬する人なんです。だから、あの人から曲を奪わないでください。学校生活も奪わないでください! 雨谷は音楽が趣味のただの男の子なんです!」
「…………」
雨谷の父親は瞼を下ろして押し黙ると、ドアの前から身体をどかしながら言った。
「だそうだぞ、優樹」
「……え?」
父親に隠れていて見えなかった廊下が露になる。そこには階段からちょうど降りてきたままの体制で固まった雨谷の姿があった。おでこには冷えピタが貼られていて、マスクに覆われた頬は心なしか赤い。
「あ、あれ?」
「なにか息子が誤解をさせる言い方をしたみたいだが、私はあの子から曲を奪うつもりはもうない。今は看病のために家にいるんだ。君に移したら悪いと思って、面会は断らせてもらったんだが」
一呼吸おいて、ようやく理解が追い付いてきた。
「え、じゃあ、学校に来なかったのって」
「うちのバカ息子が夜まで無理をしたせいだ。君のためにね」
まぁ、上がりなさい、と優しい声で促されても、小見原は呆然としたまましばらく動けなかった。
…
……
………
小見原が雨谷家から出て行った後、雨谷の自室は重苦しい沈黙で支配されていた。彼女の鞄が置かれていたベッドのへこみが、徐々に小見原がここにいたという痕跡を消し去りながら膨らんでいく。
今まで、父が自分の部屋に勝手に入ってくることは今までなかった。だから部屋に鍵も掛けなかったし、そもそもこんな早い時間に帰ってくるわけがないと高をくくっていたから、安易に小見原を家に上げてしまった。小見原の靴を隠していれば、部屋に鍵を掛けていれば、パソコン画面を見られることはなかった。開けっ放しのギターケースを見られる事も無かった。
もう自分の人生は終わったようなものだと、雨谷は泣きそうな眼を瞼で隠すしかない。
ドアの前に佇んでいる父から静かな怒りをひしひしと感じる。表情や態度は変わっていないのに、雨谷は震えあがって今にも足から力が抜けそうだった。
「……さっきの子は友達か?」
「……うん」
「あの子が言っていたことは本当なんだな?」
「…………」
「正直に答えなさい」
強い口調で言われたが、雨谷は頑なに口を開こうとしなかった。小見原はあの時、雨谷の作曲がバレないようにと、ただパソコンを教えてもらっていただけだと説明していた。彼女の好意を思えばそれを台無しにするなんてできるわけがなかった。
何も言わない雨谷を見かねて、父親は小さくため息を吐いた。
「そこに座りなさい」
雨谷は躊躇ったのち、さっきまで小見原が腰掛けていた椅子へ座った。すると父親は前に進み出て、雨谷から一メートルほど離れた場所で止まった。その視線はスリープモードに移行したパソコン画面を捉えており、険しい表情になっていた。
「いつからまた作曲し始めたんだ」
「…………」
「高校に入ってからではないだろう。そのギターもいつの間に買ってきたんだ」
「…………」
「なんとか言いなさい」
びくりと肩が跳ねたが決して口は開かない。何を言っても相手には言葉が通じないような気がするし、どちらにしろ音楽のある生活はこれで終わりだと簡単に想像ができたからだ。
叶うならせめて小見原の曲を完成させたかったが、これではもう無理かもしれない。そんな諦めで雨谷が縮こまると、父親がまた一歩近づいてきた。
「来ないで」
反射的に拒絶が口から飛び出して父親の気配が止まった。それから皮膚がびりびりと震えるほどの怒りが真正面から叩きつけられた。
「親に向かってなんだその態度は」
「…………」
「言いたい事があるならはっきり言いなさい」
抑圧ばかりだ。ここにはいない母も、目の前の父も怒鳴るだけで分かろうとしてくれない。せっかく小見原とも仲良くなれたのに、またこの人が邪魔をする。腹の中では親に対する憎しみでいっぱいだったが、臆病さゆえに、やはり雨谷は何も言い返すことはできなかった。
「……はぁ」
父親がため息をついて床に座った。ベッドの横にあったクッションを勝手に引っ張ってきてそれを尻の下に敷く。その動作だけでひどく神経が逆立った。さらに父は煽るようなことまで言う。
「お前、なぜ作曲してはいけないのか分かってないのか」
分かるわけがない。何かを知る前に部屋に押し込めて説明すらしなかった。今すぐ怒りをぶちまけてやりたかったが、そんなことをしてもまた抑圧されると思うと、また何も言えない。
ますます縮こまって俯く雨谷に、父はイライラを隠そうともしないでまた口を開いた。
「お前が曲を作ればまたあの女が家に押しかけてくるんだぞ。お前だって間近で見ていただろう、お前を部屋に閉じ込めてまで曲を作らせようとするあの狂った女を」
「……なに、それ」
初めて聞いた。なんとなく部屋に閉じ込められているという事しか覚えていないし、あの瞬間もその程度の認識しかなかった。
本気で驚いたように雨谷が顔をあげると、父親は怪訝な顔になった。
「なんだ、まさか覚えていないのか?」
「僕が曲を作っただけで母さんが学校に抗議しに来たのは覚えてるよ。その後いきなり部屋に外から鍵をつけられてたぐらいでしょ。そんな女の人なんて知らない」
「…………」
父親は何かを考え込むように口をつぐみ、頤に手を当てて視線を巡らせた。珍しく良く動く父の瞳から以前の様な人間味を感じて、雨谷は恐怖心も忘れてその様子を凝視していた。
「……なるほどな。まさかこうなるまで気づかなかったとは」
小さな声でつぶやいた後、父親は胡坐をかいて雨谷を見上げた。
「狂った女というのは、お前の母親だ」
「……は?」
全く、理解できなかった。なのに父は長々と語りだす。
「お前の母さんは浪費癖が酷かった。お前の学費のために貯金してきた分まで勝手に手を出してブランド品を買い漁り、口座を分けてもいつの間にか引き落とすほどどうしようもない奴だ。碌に子供の面倒も見ず、いつも別の男と遊びほうけていた」
初めて聞く母親の一面に雨谷は声を失った。母親からは常に父は自分に厳しくて全く家事を手伝ってくれない酷い人だと言い聞かされてきたのだ。しかし思い返せば、母親と一緒にいる記憶はあれど、なにかしらで一緒に遊んだことはあまりなかった。むしろ父が公園にまで付き合ってくれたり、子守唄を歌ってくれたこともある。
純粋に母親の文句ばかりを信じていたから、父から聞かされる母の汚点は凄まじい嫌悪とショックを生み出した。
「あいつは金に貪欲な女だった。お前が小学校でピアノを弾いた時は、将来はピアニストだと言い出して無理やりピアノ教室に通わせようとした。しかもオリジナルの曲が作れると分かれば今度は部屋に閉じ込めて曲を作らせようとしたんだ。当時はあの女は借金まみれで、金が生み出せそうなものにはなんでも飛びついていたからな。あいつにはお前が金の卵に見えたんだろう」
「……よく覚えてない」
あの時は毎日のように両親が喧嘩していて、父が部屋の鍵を無理やり開けたり、ドアを蹴り開けたりしていた。その時の父の形相は恐ろしく、そのせいで今も父のことは苦手だったが、あれは母の監禁から自分を救い出そうとした結果だったのかもしれない。
父はさらに続けた。
「今、お前の母は海外に出張していると言ったが、本当は別居しているんだ。実家の方で母親を見張ってもらって、私たちは地元から二年ほど離れてまた地元の隣町にあるこの家に引っ越したんだ。地元を離れてから友達が出来ていないようだから、地元近くならまた仲のいい子ができると思ってな」
何度も引っ越しを繰り返したのは、ただの父親の都合だと思っていた。そして母が小学校を卒業してから急にいなくなり、連絡もしてこなかったのは、仕事が忙しいからだと信じていた。
真実が分かった今、もう憎しみは消え去り、代わりに虚しさが胸を満たしていた。少なからず家族関係は良好になっていると思っていた雨谷だったが、逆に修復不可能なぐらいに両親の関係が悪化していたのだ。自分の作曲のせいで二人の関係を壊してしまったようなものなのに、雨谷は今まで本当に、家族のことを何を知らなかったのだ。
ただ、自分の曲が母を狂わせるほどの力があるとは雨谷には思えなかった。いくら借金まみれで首が回らなかったとしても、たかが小学生の曲でいきなり金を稼げるなんでそんな荒唐無稽な発想が出てくるとは思えなかった。
「……僕は、本当にただ曲を弾いただけだよ。それだけなのに、なんで母さんは僕を閉じ込めるまでしたの。僕の曲で稼げると本気で思ってたの?」
「……思うだろうさ。教えてもいないのにピアノを弾いて、一通りの曲を作ってしまったのだから。しかもそれは、私たち大人でも聞き入るほどだった」
「そんなわけが……」
「あるんだよ。お前には才能がある。だから恵まれた環境を手に入れればお前は一気に名を馳せると思った。そうなればお前の母親が黙っていない。またお前の才能を搾取するために乗り込んできてもおかしくなかった」
父のそんな評価は信用ならなかったが、一時期、Akatukiというゲーム制作者のおかげでYUIIも有名になったことがある。あの時は認められたという喜びよりも気負いが強くて、ただその知名度が弱まるのをじっと待っているだけだった。もしあの時、もっと有名になろうと我武者羅に作曲していたなら、もしかしたら。もしその潜在的なものを母が感じ取っていたのなら。そう思えば、合点がいく話である。
雨谷は何度か頭の中で話を整理した後、父親の顔を恐る恐る見つめた。
「じゃあさ、父さんが僕に曲を作るなって言ったのは、母さんが来ないように?」
「……ああ。結局お前は隠れて作っていたようだが、あの女からなんの反応もない。もう曲に興味がないのか、それとも……」
父は何かを言いかけて、嘆息した。
「ともかく私は、お前が曲を作ることには反対だ。だがもうお前は高校生だから、自分で責任を取りなさい」
「え?」
「私は親として最低限の手助けしかしない。自分の蒔いた種は自分でなんとかしろ。母親のことは私が何とかする」
「……それって、曲を作ってもいいってこと?」
「お前が決めることだ」
突き放すような言い方だったが、不思議と温かみを感じた。父親からこんな風に接されるのは本当に久しぶりで、どうしていいのかよくわからなかった。
父は今まで母から自分を守るために曲を作らないように言ってきていた。そして今は作曲してもいいと遠回りに伝えてくれている。つまり、親に自分の好きなことを否定されたわけではなかったのだ。それだけでも十分救われたような気がするが、雨谷の瞼の裏では常に小見原の姿があった。
彼女の歌声に心を惹かれて、本気で曲を作りたくなった。けどそれ以上に彼女にはたくさんのものをもらった気がする。ただ空虚なだけの学校生活の中に、昼休みの雑談や放課後の密会、知らない人と関わるという事、ともかく普通に甘受するべき日常が、彼女をきっかけに自分の周りで渦巻きだした。
もらったものを相手に返したいと思うのはきっと普通のことだ。
雨谷は椅子から立ち上がると、父親へ向けて正座になり、深々と頭を下げた。
「僕に曲を作らせてください。お願いします」
今まで諦めばかりだったが、これだけは譲れない。小見原が舞台に立ってマイクを握るその姿が雨谷の最大の夢なのだ。
やがて、躊躇いがちに伸びた父の手が雨谷の肩を掴んだ。
「途中で投げ出すなよ」
久しぶりに触れた父の手の平はまだまだ自分より大きく感じられ、雨谷はやっと家の中でまともに息を据えた気がした。
…
……
………
そんな昨日の父との会話を、母親とのどろどろとした話を引っこ抜いて小見原に説明した。
父は並々ならぬ事情で息子に曲を作ることを禁止させていたこと。その事情を父が受け持つから、その先の責任は自分で背負うこと。それで曲を作ることを許してもらえたこと。
大雑把にまとめるとそんな内容だが、言葉を選びつつ、かつくしゃみが酷いせいでかなり時間をかけて話す羽目になった。
学校を早退してまで雨谷に会いに来た小見原は最後まで話を聞き終えると、顔を覆って耳まで赤くなった。
「勘違いしてた。思いっきりアンタのお父さんのこと勘違いしてた。後で謝るわ」
「いいよ。父さんも分かってると思うし」
今まで説明をしてこなかった本人が悪いんだから、とちょっとした意趣返しのつもりで雨谷は内心でほくそ笑む。そして盛大なくしゃみを一発はさんでから、テーブルの上のグラスから麦茶を一口飲んだ。人心地ついて、ずっとポケットに大切に入れていたあるものを取り出す。
「それで、折角許可もらったから昨日のうちに全部終わらせておいたよ」
言いながら完成したデータが入っているUSBを小見原に手渡した。小見原は神妙な顔でそれを凝視しながらこう聞いてきた。
「……何時間かけたの?」
「七時から朝の四時まで。気に入らないところ全部修正してからそんな時間になっちゃって。げほっ」
「アンタばっかじゃないの? そんなことしてるから風邪ひくのよ!」
「ごめん?」
「謝るの禁止!」
ぺしっと脛のあたりをはたかれたがあまり痛くなかった。心なしか小見原の声色も普段より柔らかい。それは病人相手だからだろうか、それとも玄関先で叫んでいたように、自分が一番尊敬する人間だからだろうか。
あの時の彼女のセリフを思い出して雨谷は一人悶絶した。昨日までは実は嫌われていないのかな、ぐらいの段階だったのに、実は溢れんばかりの愛を彼女が抱いていたなんて、嬉しいし恥ずかしい。
「ねぇ雨谷」
「は、はい!?」
裏返った声で返事をしながら振り返ると、いつの間にか立ち上がった小見原が至近距離まで顔を近づけていた。花のような香りが鼻を掠め、腕に微かに触れる彼女の胸元につい視線が向けられてしまう。
「さっきより顔が赤いわよ。もしかして悪化してる?」
「い、いいいいいや大丈夫。全然」
「そう? ならいいけど、ちょっとわがまま言ってもいい?」
「ど、どうぞ?」
小見原はもらったばかりのUSBを指先で振りながら、ちらりとパソコンの方を見た。
「ここで動画アップしてもいいかな」
「い、いいけど……アカウントは?」
「実はもう作ってあるの」
「本当?」
パソコンを起動してウィーチューブを開くや、小見原は慣れた手つきでキーボードを押して長いメールアドレスとパスワードを入力してみせた。あっという間に白いバーの内部が文字で埋まるのを見て雨谷はまじまじと小見原の横顔を見た。
「もしかして小見原さんってネットにすごい慣れてる?」
「こんなの当たり前でしょ」
たん、と小さな音を立ててエンターが押されると、ウィンドウの左端にアカウント名が表示される。自己紹介文には他の歌手のアカウントと同じような文言が書かれているのだが、一つだけ違う部分があった。
「名無しってあるけど」
「まだ決めてないの。一緒に決めたかったから」
小見原ははにかみながら言うと、ちょっとだけ困ったように眉を下げた。
「雨谷は本当に私でいいの?」
「何が?」
「その、アンタに酷いことしたじゃない」
「え、あはは、まだ言ってる?」
気にしすぎな小見原につい朗らかに笑ってしまうと、小見原はすぐに頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。このままでは口をきいてくれなくなりそうで、すぐに雨谷は謝る。
「ごめんって」
「もう、アンタ本当に鈍いのね」
「そう?」
「そうよ。それで、名前どうしたい?」
戻ってきた話題に今度こそ悩んでみるが、何も思い浮かばない。教室の金魚に太朗とつけてしまうような人が、いきなり妙案を思いつくわけもない。雨谷は頤に手を当てたまま首をひねった。
「そもそもさ、小見原さんが歌うんだから僕が考えてもいいのかな?」
「何言ってんの。アンタの曲がないとそもそも歌えないんだから、アンタの方が決めるべきでしょ」
「うーん……じゃあ、僕の名前と、小見原さんの名前を合体させるっていうのは?」
これは名案だろう、と言ってみたのだが、小見原の反応は芳しくなかった。
「よくわかんないんだけど」
「えっと、例えば僕の優樹と、小見原さんの唯を合わせてキユイとか」
「普通ユイキじゃないの?」
「……あ、ほんとだ」
むしろどうしてそっちが先に出なかったんだと思っていると、ふふっと小さな笑い声が聞こえた気がした。
「あれ、小見原さん今……」
「アンタが言ったんだからもうキユイでいいわよね」
「え、でも変じゃない。というかさっき笑って……」
「じゃあこれで決定っと」
「小見原さん!?」
「雨谷、曲のファイルどこにあるの?」
「もうアップするの!? えっと、ちょっと貸して」
置いてけぼりのとんとん拍子に進む話に、雨谷はもう突っ込むのは諦めてショートカットから曲のファイルがある場所を開いた。小見原はそれをクリックして開くと、パソコンの音量を少し上げて再生した。
暗い画面の真ん中で、伴奏のピアノに合わせるように光が点滅する。やがて音色がより合わさって歌声が流れ出すと、夕焼けを連想させる色彩が画面四隅の暗がりを吹き飛ばしていった。圧倒的な完成度の背景の中、緩急と強弱が絶妙なバランスで構成された曲が再生される。徹夜しただけあって満足のいく出来だが、どこかでミスをしていないか探らずにはいられない。
だが小見原はまるで完璧だと思っているようで食い入るように画面を見つめていた。
「凄いわね。今までのYUIIの中で一番凄いかも」
「そ、そうかな」
玄関先であれだけの思いをぶつけられたら、小見原が雨谷のもう一つの顔のYUIIのファンであることは容易に察せられた。彼女が最初に雨谷の楽譜を見てYUIIだと分かったのも、ファンとしての熱意がきっとそうさせたのだろう。そんな人に褒められるなんて、こんなに嬉しいことはない。
それに、自分が作った曲を隣で聴いてくれる人がいるというのは、かなり幸せだ。
「小見原さん。ありがとね」
「ん?」
「僕すごく幸せだよ」
「……私も」
凄く小さな声で肯定されて、ぽすっと小見原の頭が雨谷の肩に乗せられる。雨谷は顔が緩んでしまうのをこらえながら、動画のファイル名になんとなく目を向けた。
「あ、そうだ。題名」
「そういえば教えてなかったわね」
小見原がはっとして身を起してしまい、肩のぬくもりが遠のいてしまう。そのことを少し寂しく思いながら、雨谷はファイル名にマウスを当てがって彼女を振り返った。
「どんな名前なの?」
「……『イヴ』」
かたかた、とキーボードが鳴って綴りが表示される。
――eve。
前夜、あるいは夕方の意味を持つその言葉に、雨谷は自然と笑顔になった。
「ピッタリだね。流石小見原さん」
「からかってない?」
「まさか。本気だよ」
雨谷はマウスから手を放すと、小見原の前に手を差し出した。彼女は何か分かっていない様子できょとんとしていたが、雨谷が言った言葉にすぐに破顔した。
「これからもよろしくね、小見原さん」
「……こちらこそ!」
互いの手のひらは柔らかくかみ合うように結ばれて、ようやく二人の音楽家としての道が始まった。
 




