(9)最終調整
駅から十五分離れた住宅街の、二階建ての一軒家が雨谷の自宅だ。いつも仕事で忙しい父は九時以降に帰ってくるし、母は現在海外に住んでいるので、この時間帯なら誰も帰ってこない。
まさか自分の家に同級生を招く日来るとは、と感慨深く思いながら、雨谷は落ち着かない気持ちで鍵を差し込んだ。ドアの先にはほとんど物がない玄関が広がっていて、薄暗い廊下が静かに人を待ち侘びていた。
「えっと、どうぞ上がって?」
ドアを持ちながら後ろの小見原に声をかけると、彼女は神妙な顔でお辞儀をした。
「お邪魔します……」
「先に僕の部屋に行ってもらっていいかな。二階上がって一番奥の白いドアね」
「う、うん」
階段を上がっていく小見原を見上げつつ、雨谷はキッチンでコップを用意し始めた。
人を家に招いた時、飲み物を出すのはなんとなく知っているが、この後どうすればいいのだろう。先ず最初に部屋まで案内した方が良かったのか? 部屋に入ってそのままコップを渡せばいいのか? そのあと家の中をざっくり説明するべきか?
この短い生涯で一度も友達の家に行ったこともないし、テレビでもそういう場面が放送されてないからちっともわからない。
「まぁ、なんとかなる」
謎の自信を胸に抱いていざ、雨谷はコップを両手に持って階段を上がった。そして自分のドアの前まで来て、ようやく自分の両手が塞がっていることに気がついた。
「あ、お、小見原さん! ドア開けてもらっていい!?」
テンパりすぎて声が大きくなってしまった。コンクリの壁なので外に聞こえていないだろうが、雨谷は無性に恥ずかしくて何度か咳払いをした。
まもなく中からドアが開いて小見原が顔を覗かせてくる。雨谷の両手が塞がっているのを見て彼女は察すると、大きくドアを開けて中に入れてくれた。
「全くアンタは、お盆とかに乗せれば良かったじゃない」
「あはは、ごめん」
「もう……まぁいいわ。それで、私はどこに座ればいいの?」
「えーっと」
雨谷は小見原にコップを手渡しながら部屋を見回し、机の前の椅子を指差した。
「あそこで」
「どーも」
小見原はお礼を言うと、椅子の上に両膝を揃えてちょこんと座った。雨谷は机の上にコップを置くと、部屋の電気をつけてから小見原の手にある鞄へ手を差し出した。
「こっちに置いておくよ」
「うん」
鞄を受け取ってベッドに置いて、沈黙。
…………気まずい!
「あー、何もない部屋でごめんね」
「普通だと思うけど」
「そ、そう? なら良かった」
「…………」
「…………」
よくよく考えたら小見原さんと喋る時はいつも自分から話してこなかった。定番の「アナタの趣味はなんですか」という質問の答えはもう聞いた。確か曲を聞くのが趣味で歌うのもほぼ毎日やっているとか。では他の質問をしてみようと頭を捻ってみるが、どれもこれも答えを知っているものばかりだ。お出かけはするが最近は家族と出かけたことがないだとか、実はゲームセンターのカーレースが得意だとか、カレーが大好物だとか。
もう質問するべきものが全く思いつかなかった。一体どうしたらいいんだ、と雨谷が内心で頭を抱えていると、小見原が徐にこんなことを言い出した。
「ねぇ、編集するところ見せてもらっていい?」
「あ、うん」
なるほど彼女は、それを見たいがためにこの家に遊びに来たかったらしい。そも、なぜ彼女がいきなり家に行きたいなんて言い出したのか聞けばよかっただけである。雨谷は全く使えない自分の頭を軽く掻きながら、鞄に入れたままの機材を取り出して机のパソコンの隣に置いた。机と椅子の位置が思いのほか近く、雨谷は小見原の隣に立つ形でパソコンを起動した。
「小見原さん、ちょっとごめんね」
「場所変わったほうがいいでしょ」
「いいよ、そこに座ってて」
机に手をつきながらパスワードを打ち込んで、編集ソフトを開きつつ音声データを内部に保存しておく。そこからテキパキと作業を進めると、ものの数分でオフボーカルだった音源に小見原の歌声が合わさった。音声がズレていないか確認するために、一度完成した曲を流してみる。
「……うん。想像以上だ」
今までで一番満足のいく出来だ。もともと彼女のために作ろうとしただけあって声質と曲の雰囲気はマッチしているし、小見原の表現力も相まって完全に一つの物語に生まれ変わっていた。まだリミックスもしていないのに恐ろしい完成度で、むしろ手を加えるのが躊躇われるぐらいだ。
「どう? 小見原さん」
「凄い……」
小見原は食い入るように画面の中を見つめると、雨谷の腕の下から見上げてきた。
「これで終わりなの?」
「まだだよ。ズレはないみたいだから、ここから声を加工して、あとは動画を作らないと」
「……何時間で終わるの」
「もう下地ができてるからそれに沿って作るだけだし……多分、明日になる前に終わるよ」
ここから先はギターや自分の声が必要でない作業なので、父親が帰ってきてからでも十分続行できる部分だ。今日も夜まで編集するつもりなので、明日で完成したMVを小見原に渡せるだろう。
この関係を終わらせたくないとはいえ、完成した曲を聴いてみたいのも確か。小見原だってずるずると自分に構っていたいわけではないだろうから、彼女のためにも終わらせなければ。
雨谷は途中保存のボタンを押して、次に現れたウィンドウを見て動きを止めた。
「フォルダの名前……」
保存するためにこの曲に一時的な名前をつけなくてはならない。普段のようにサンプル、とでも書いておけばいいだろうが、なんだか味気なくて雨谷は小見原に言った。
「ねぇ小見原さん。曲の名前もう考えたって言ってたよね」
「……ええ」
「今聞いてもいいかな」
「…………」
「小見原さん?」
なかなか返事が来ない。
不審に思って顔を覗き込んでみると、彼女は声もなく泣いていた。
「え!? ど、どうしたの!? えっと、僕何かした!?」
「違うの……アナタのせいじゃない」
「でも……」
言葉を重ねる前に彼女は顔を背けて俯いてしまった。なんだかここ最近は彼女の涙ばかり見ている気がする。いずれもその理由は分からない。
雨谷は困ったように小見原の背中を見つめると、ひとまず、世間話の感覚で話しかけてみることにした。
「小見原さんは泣き虫だね」
「……泣き虫じゃない」
「そうかな。ティッシュいる?」
「いる」
会話をしてくれることにホッとしながらティッシュ箱を手渡すと、彼女は数枚鷲掴んで思いっきり鼻を噛んだ。清楚さのへったくれもない所作に苦笑すると、スッキリしたのか小見原は赤く腫れた目をやっとこちらに向けてくれた。
「はぁ……泣くつもりなんてなかったのに」
「僕も驚いたよ。なんか、カラオケにいた時から悩んでるみたいだよね?」
「アンタも悩んでたじゃない」
「まぁ、それはそれってことで」
雨谷は苦笑しながら言うと、少しだけ肩を落とした。
「やっぱり僕の曲じゃ、不安?」
「違うわよ。ただ……」
一呼吸挟んで彼女は細々と言った。
「さっき聴いた時、はっきりと想像できたの。私がアナタの曲を歌ってステージに立ってる姿」
「え、それって僕の曲じゃ嫌で泣いたってこと?」
「だから違うの。最後まで聞きなさいおバカ」
軽く額を小突かれて雨谷がきょとんとすると、小見原は少しだけ表情をやわらげた。
「私たちの関係はこの曲が完成したら終わりでしょ。だからこれから先、私はYUIIの曲を歌えないじゃない。それが嫌だったの」
きぃ、と小見原が腰掛けた回転椅子が音を立てた。雨谷はゆらゆら揺れている彼女を隣で見下ろしたあと、拳を強く握りしめた。
「……小見原さんは、僕の歌を歌ってステージに立てると思ってるのに、これっきりにしたいの?」
「しないとダメなの。私はアナタの隣に立つ資格がないから」
「どうして? 誰がそんなこと決めたの?」
「それは……」
一瞬彼女も脅されているのではないかと思ったが、声に棘が感じられなかったのできっと違う。だがそれ以上のことは分からない。小見原と関わりを持ってからまだ数日しか経っていないのだから、尚のこと彼女なんて余計に知らなかった。
いつもなら踏み込もうとは思わない。だが今日は、小見原のことをもっと知りたくて近づいた。
「本当は言わないつもりだったけど、僕、この曲が完成して関係が終わっても、隠れて君のための曲を作るつもりだよ」
それを聴いた瞬間小見原は数秒動きを止めて、狼狽した表情で振り返った。
「な、なんでよ。もう脅されてないのに作る必要ないじゃない」
「僕が作りたいんだ。それに君の夢を応援したいって何度も言ったじゃないか。脅しなんて関係ないよ」
「……アンタ、馬鹿じゃないの?」
「いいよ馬鹿で」
雨谷はテーブルに両手をつくようにして小見原を自分の下に閉じ込める。椅子に座ったままの小見原はひどく小さく見えて、包み込むのは簡単だった。
真下には真っ赤に腫れた目を大きく見開いている小見原がいる。緩い曲線を描く頬の上を髪が滑り落ちて、小さな音を立てながら彼女の目元を少し隠した。それを耳にかけてやりながら、雨谷は口を開いた。
「小見原さん。ずっと思ってたんだけど、僕は小見原さんのこと全く知らないし何考えてるか全然分かんない。でもそれよりも君の歌声が好きだし、僕の歌を歌い続けて欲しい。小見原さんだって歌手になるために使えるものなんでも使うでしょ。だったら僕を使えばいいじゃん」
「だから、私は……」
「嫌なの?」
「……いや、じゃないけど」
「じゃあいいじゃん。何がダメなのさ」
「……私は歌手になりたのは本当。でも、アナタは違うでしょ。もし、この曲が有名になったら両親にやってることバレるかもしれないじゃない。そうなったらアナタはもう、曲を作れなくなるかもしれない。私はアナタにそうなって欲しくない」
「そんなの、YUIIをやってきてもバレなかったんだから大丈夫だよ。匿名だし、両親はネットに疎いし」
「でももしもがあるじゃない!」
強く叩きつけられた声に驚いて思わず身を引いてしまい、逆に小見原に詰め寄られる形になった。
「私はアンタの才能を無駄にした責任なんて取れない! できるとしたら、アンタと一緒に大事なものを捨てることしかできないの!」
「そんなのおかしいよ。僕は小見原さんにそんなことしてほしくないし、これは僕が決めたことだ。君の大事なものと関係ない」
「関係あるの!」
ぐいっと胸倉をつかまれて彼我の距離が一気に近づく。鼻先が触れ合いそうなほど近いのに甘い空気なんて微塵もない。鋭く皮膚が引きつるような激情が膨れ上がり、二人の口から荒い呼吸が漏れ聞こえた。
「この曲が完成しても、私は使わない」
「どうして」
「アンタに迷惑がかかるから! アンタは曲を作りたいだけで、有名になりたいわけじゃない。なのに私が無理やりこんなことしたから、今度こそアンタは曲が作れなくなるのよ!」
「その時はその時だよ」
雨谷は小見原の手を掴んで乱暴に引き離した。その拍子にぐらりと小見原の重心が揺らいで倒れこんでくる。
トス、とそれを抱き留めて雨谷ははっきり答えた。
「僕は惰性で曲を作り続けるより、小見原さんと一緒に作りたい」
「……なんで」
「……あはは、なんでだろうね。でも僕の本心だよ」
笑いながら小見原の肩に手を置いて彼女を立たせる。小見原は両手を胸元で握りしめながら、戸惑いがちにやっと笑ってくれた。
「……ねぇ、私」
ガチャ、と部屋のドアが開いた。
驚いて小見原から飛び退いてそちらを確認する。
そこには、
「知らない靴があると思って来てみれば……」
まだ帰ってこないはずの自分の父親の姿があった。窪んだ目元や頬骨が浮かび上がった顔は暗く、ワックスでオールバックにした髪はところどころ跳ねてだらしが無い。なのに、スーツには皺ひとつなくネクタイも締められていた。
チカチカ、と灯りが瞬いて暗くなる。背後のパソコンだけはブルーライトを真っすぐ放ち続けて、暗くなるたびに父親の顔を照らし出した。
「雨谷、もしかして……」
「うん。僕の父親」
父から目を離すことなく答えると、小見原の顔色が一瞬で真っ青になった。
息が詰まるほど重い空気の中、父親は事細かに部屋の中を観察し、録音機器やパソコン、壁のギター、そしてパソコンの画面を見て目を鋭くした。
「曲を、作っていたのか」
「違うんです!」
真っ先に否定したのは雨谷ではなく小見原だった。椅子から立ち上がって父に詰め寄る小見原を雨谷は驚愕の目で見つめ、自分で言い訳をすることも忘れて固まっていた。
「私が雨谷に頼んで、ちょっとパソコンの使い方を教えてもらおうと思っただけです。この人は曲なんか作ってません!」
これまでにないほど大きな声を出す小見原を見ていると雨谷は逆に冷静になることが出来た。それは父親も同じだったようで、暗い目で小見原を見下ろしながら容赦なく指摘した。
「そんなものは学校でいくらでもできるだろう。それに、画面に映っているアプリは音楽制作に使うものだが」
「見間違いです! そっくりな写真が出てただけです! だから、だから、この人から……何も奪わないで……」
尻すぼみになっていく彼女の声は震えていた。こちらからは小見原の顔を見ることはできないが、また泣きだしそうになっているのは想像に難くない。
窓から差し込む日差しが雲に隠れ、一気に部屋の中が暗く冷たいものになった。ドアの前に立った父はマネキンのように無機質な目で小見原を見下ろし、やがて瞼を下した。
「もうすぐ暗くなる。帰りなさい」
「でも」
「家族で話したいことがある。帰りなさい」
そう言われてしまえば、家族ではない小見原には何も言えない。小見原は何度か息を吸って何かを言い返そうとしていたが、やがて俯いたままベッドの上の荷物を拾い上げ、父親を押しのけるようにして部屋の外へ出て行った。
「小見原さん……」
情けない声で無意識に呼び止めると、彼女はドアの陰に入る前に足を止めた。ずっと顔は俯けられたままで、こちらを見ようともしてくれなかった。
「……お邪魔しました」
また明日、と言えないまま小見原は階段を降りてしまった。少しして、玄関のドアが静かに開けられる音を最後に、家の中は不気味なぐらい静かになった。
昨日は投稿できず申し訳ありませんでした。
やはり毎日投稿は難しいので本日より間隔を空けさせていただきます。
ここまで読んでくださった方々には感謝でいっぱいです。次回は気長にお待ちくださいませ。




