裏話 奏でる
カラオケでの練習が終わった後、小見原たちは近くのファミレスで向かい合って座っていた。どうにか雨谷の曲をモノにしたいと歌い続けたせいで、お腹や肩がだらだらして力が入らない。お腹も空いているせいで頭もぼんやりしていた。雨谷も何時間もギターを弾いていたからか、手首をせわしなく回している。小見原は、店の奥でのんびりと仕事をこなしている店員の姿を眺めながらつぶやいた。
「この時間だと空いてるね」
「うん。人が少ないとなんかほっとするよ」
「そう? 私は寂しい気がするけどね」
そう言ってからお冷を口に傾け、曲のメロディを反芻してみる。リズム感やサビの入り方は一般的な曲と同じくなじみがあって不快感がない。だから、動画で発表したら反響が沢山あること間違いなしだ。そうでなくとも、『金星と歌姫』の実績がある雨谷が作ったのだから評価されずに終わるという事はないと思う。
絶対成功させたい。そのためにも家で練習しないと。そこまで考えて小見原はふと、雨谷に言い損ねていたことを思い出した。
「雨谷、さっきの曲こっちのスマホに移せる?」
「移せるけど、その前に連絡先を交換しないと」
「してなかったっけ?」
「してないよ」
雨谷がスマホをこちらに向けて真っ新な電話帳を見せてきた。ほとんど人の名前が入っていない真っ白な画面に人間関係どうなってんの、と突っ込みたくもなったが、それ以前に交換したつもりになっていた自分が恥ずかしい。すぐにスマホを取り出して、連絡先を電話でもメールでも対応できるように雨谷と交換する。
ぽこん、とEINEのフレンドリストに雨谷優樹の名が追加される。ハンドルネームと似た優樹という下の名前に、やっぱりYUIIなんだ、と何度目かの感動が湧き上がった。
YUIIという名前は、最初の曲と自分の名前から決めたのだとメールで本人から聞かされたことがある。最初にYUIIが作った曲の名前は“2U”。順番を入れ替えてYouとⅡに分け、少し弄っただけなんだ、とYUIIは恥ずかしそうに教えてくれた。他のYUIIのファンも彼の名前がどこから来たのか考察していたが、本名も考慮してハンドルネームを作ったと知っているのはAkatukiこと小見原だけだ。
じっと画面の中に浮かんだ雨谷の名前を見つめていると、向かいの席で雨谷が弾んだ声で言った。
「小見原さんって、名前はユイなんだね」
「そうよ。アンタのハンドルネームと同じね」
「あはは、すごい偶然だ」
嬉しそうに笑う雨谷につい釣られそうになって頬を引き締めるが、完全にポーカーフェイスは被れなかった。雨谷に今抱いている感情がバレそうな気がして、小見原はぶっきらぼうに急かした。
「ほら、早く曲ちょうだい」
「ちょっと待ってね……はい、これでいいはず」
題名のない曲がEINEに表示されたので小見原は満足げにスマホをしまう。すると雨谷が急に慌てたように声を上げた。
「お、小見原さん。曲が完成したら消してくれない?」
「何でよ」
「その……だって僕の歌声が入ってるし」
言われてやっと小見原も曲の中に雨谷の声が入っていたことを思い出した。小見原はじっと画面を見た後にニヤリと笑う。
「やーだ。私がヒットしたら、考えてあげなくもないけど」
「そんな……!」
「そんな悲壮な顔しないでよ。私が悪いみたいじゃない」
そこへ、お待たせしましたと店員が料理をテーブルに並べ始めた。
鉄板の上で焼けるハンバーグは雨谷のところへ、小湯気を立てるスープスパゲティはこちらへ。小見原はケースからフォークを引き抜いてそのまま食べようとした。
「いただきます」
小見原は動きを止めて、両手を合わせる雨谷を驚いた目で見つめた。レストランでいただきますを言う人を初めて見た。それから無性に恥ずかしくなって、小見原は佇まいを正してから彼に倣った。
「……いただきます」
言ったら言ったで恥ずかしかったが、開き直ってフォークをスパゲティへ突き立てた。じっくりトマトに煮込まれた具材は柔らかく、スープと一緒にスパゲティに絡んでほんのり赤くなっている。口周りを汚さないように食べてみると、程よい酸味とほんのり甘いチーズ味が広がった。ブロッコリーは歯を立てるとほろほろ崩れて、ベーコンもスープが染み込んで燻製独特の風味が口を満たしてくれる。
ついついフォークで大きな束を巻きつけて頬張ると、満足感が一気に増えた。目の前に雨谷がいることも忘れて、小見原は次から次へフォークでスパゲティを絡め取る。
「なんか、信じられないな。小見原さんとこんな風に一緒にいるなんて」
頬張ろうとした瞬間に雨谷にそう言われてハッとする。一旦フォークをスープの中に沈めて、小見原は言った。
「なんでよ」
「だって僕ら、全然性格も違うし、小見原さんは高校始まってすぐなのにたくさん友達がいるでしょ? わざわざ僕と仲良くするわけがなかっただろうし、たとえ一緒に食べるタイミングがあったとしても、二人っきりってのはあり得なかったと思うんだ」
「ふ、ふた……」
動揺で口に残っていた破片が喉に引っかかって思いっきりむせた。男女二人っきりというのは、どこからどう見てもデートでしかない。またぞろカラオケ店の時と同じように感情が暴走しかけたが、小見原は咳払いをして目を泳がせながら言った。
「ま、まぁ、アンタが曲を作ってたから仕方なく? 成り行きでこうなっただけだけどね。でも……暇があったら、また一緒に来てもいいのに」
「え、いいの?」
「いいに決まってるでしょ! 私を何だと思ってるのよ!」
「ごめん?」
「謝るの禁止!」
変なところで気を使ったり気弱になるのは相変わらずだ。雨谷はきっと今の状況がデートみたいだとは微塵と考えていないだろう。そのことに小見原は若干の苛立ちと寂しさを感じたが、同時に、微笑んでいる雨谷の顔を見て仲良くなれたような気がした。
このままもっと仲良くなれたら。
そう思えば、小見原はやっと素直に、雨谷に対してずっと思っていたことを口にできた。
「あ、の、私が言うの、変だと思うけど、悪かったわね」
「え、何が?」
「だから! ……木曜日、アンタを脅すようなことしたこと」
「ああ、あれか」
雨谷は全く気にしていなかったようで、思い出しように視線を斜め上に持ち上げていた。秋葉からなんとなく聞いていたが、本当に脅しで傷ついていなかったらしい。
あまりの大らかさに小見原が渋面になるが、雨谷はニコニコしながらこんなことを言い出した。
「いいよ。初めて自分の曲が、誰かのものになる瞬間を実際に見れたんだから。それに、小見原さんは本気で歌手になりたかったんでしょ? 手段を選ばなかったのはそりゃあ、びっくりしたけど、でも、今日頑張ってるのを見て、今話してみて、あの脅しは本気じゃなかったことぐらいは分かるよ。だって小見原さん“いい子”だし」
「あぅ、ちょっと」
「僕は将来の夢なんて今までなかったから、小見原さんみたいに夢にひたむきに努力できる人は“尊敬”するよ。君の歌声は“すごく好み”だから、身内贔屓とかじゃなくて僕も真剣に応援したいんだ。もちろん君が嫌じゃなければずっと」
「待って!」
テーブルに身を乗り出して雨谷の口を塞ぐ。すると手のひらの下にまざまざと柔らかい唇の感触がして、モゴモゴと動き出した。
「あふいほ? はいほほふ?」
「熱いに決まってんでしょ!」
とぼける雨谷の唇を今度は人差し指と親指でぎゅっと挟む。
よくもまぁ恥ずかしげもなくつらつらと、口説き文句かと勘違いしそうだった。あんな穏やかに微笑まれたら全部本心だと疑う余地もない。逃げ場のない好意というのがこんなに恥ずかしいものだとは思いもしなかった。
「こんなところで、堂々と言わないでよ……恥ずかしい」
「ほ、ほへん」
「だから、謝るの禁止」
小見原は手を引っ込めて椅子に座り直した。手のひらにはまだ雨谷の熱が残っている。顔まで熱くなりそうになるのを何とか堪えていると、ふと疑問が浮かんだ。
「ねぇ、アンタは普通に人と喋れるし、気遣いもできるじゃない。どうしてクラスで友達作らないの?」
「作らないというか、作れないというか?」
「嘘。アンタが作ろうとしてないだけよ。そんなに周りに曲を作ってることバレたくないの?」
雨谷は学校での態度はどうしようもないが、こうして関われば他のクラスメイトと遜色ないほど話しやすいし、性格もそこまで悪いわけではない。話しかければあっという間に一人でいる時間も埋められるのが簡単に想像できるのに、やらないというのはやはり、作曲がバレるのが嫌だとしか思えなかった。
「そういうわけじゃ……いや、そうかも」
案の定、雨谷は思い当たる節があったらしい。少しの間思案したのち、雨谷は考えながら話してくれた。
「曲を作っていることを一度両親にバレたことがあるんだ。小学四年生ぐらい、まだ初投稿もしてなかったころだと思う。小学校のピアノで自分で作ったお気に入りのメロディを弾いてみたら、先生も友達もみんな褒めてくれたんだ。だけどその話が友達の親から自分の親に伝わって、家でめちゃくちゃ怒られたんだ」
「え、なんでよ。ちょっとピアノ弾いたぐらいでしょ?」
「分からないんだよ。どうして怒られたのか、誰も説明してくれなかった気がする。学校にまで父親が来て先生と難しい話してた。そしたら母さんが急に怒り出して、何日も部屋に閉じ込められた。たまに部屋に入ってきて、その度にお父さんと喧嘩してたな」
小見原の頭の中に“虐待”という単語が浮かんですぐに掻き消した。ただ自分の曲を披露しただけで部屋に閉じ込めるなんて不自然だ。虐待じゃなくてはもっと別の理由があったんじゃないかと思うが、深く話を掘り下げるには雨谷の目があまりにも虚で、小見原は何も言えなかった。
雨谷はぼんやりしたまま水を飲んで続けた。
「しばらくそんな生活してたらさ、父親がもう曲を作るなって言いながら、真っ二つに壊された僕のギターを渡してきたんだ。だから多分、今作曲してることがバレたら、今度こそ学校に通えなくなるし、小見原さんとこんな風に一緒に食べに行けないし、このギターもソフトも楽譜も、全部捨てられると思う。そうなったらもう、僕は何も無くなっちゃう。……だから、なのかな」
雨谷は目を閉じて顔を俯けた。テーブルの上で組まれた彼の両手は震えていた。
自分が一番のYUIIのファンだなんて笑える。『親に内緒で作ってる』とメールでYUIIが言ってくれたのは、Akatukiを信用して本音で話してくれたからだ。そしてYUIIが有名になろうとしなかったのは……友達を進んで作ろうとしなかったのは、本人でも自覚していなかったトラウマのせいだった。
それを小見原は掘り返して、一時の八つ当たりのために利用した。下手したら、彼の作曲家としての人生まで奪うところだったのかもしれないのに。
自分の無責任さで、死にたくて堪らなくなった。
「……本当に、ごめんなさい」
「お、小見原さん」
「私、最低だ。あなたのこと少しも考えてなかった。あんなに……」
口が震えるだけでそれ以上言葉は出てこなかった。顔を隠すように押し付けたハンカチにシミが広がっていく。これでは雨谷を困らせるだけだと分かっているのに、小見原は自分のために泣くことをやめられなかった。
「どうして、小見原さんが泣くのさ。僕の事情なんて他人事じゃないの?」
「そんな言い方、しなくていいじゃない……」
他人、という言葉が小見原の心を冷たく引き裂いた。所詮雨谷にとっては他人なんだと面倒くさい思考まで湧き上がってきて、ぶわりと目元が涙で灼ける。
雨谷はきっと呆れているだろう。それでも優しく語りかけてくれた。
「泣かないで……小見原さん」
「…………」
「小見原さんに僕のことで泣いてほしくないよ。えっと、ほら、笑ってる顔が見たいなぁ、なんて」
これ以上迷惑をかけたくない。それに、自分で引き起こしたことなのだから、泣く資格はない。傷付けてしまった雨谷のためにも、きっちりケジメをつけなければ。
小見原はぐっと目元をハンカチで押さえ込み、引き裂かれた心を雁字搦めに縛りつけた。そうしてようやく涙が止まる。
「取り乱したわ。悪かったわね」
「いや、ちょっと驚いたけど……」
「これっきりだから」
「……え」
目元の水気を拭ってから真っ直ぐと雨谷を見る。
「あなたに迷惑を掛けるのもこれで最後にする。もう脅したりしないし、放課後に呼び出したりもしない。だからこの一曲だけ付き合って。お願い」
もっとちゃんとした方法で責任を取るべきなのだろう。だが今の小見原にはこれしか思い浮かばなかった。
雨谷は両親にバレないように作曲活動をするのが望みだろう。だったら、今の関係を早く終わらせて、誰にも口外せずに過ごす。秋葉にも雨谷がYUIIであることは黙ってもらう。そして完成した曲は、小見原の手元に留め、日の目を見ないようにする。
そして小見原は、歌手にはならない。
小見原の提案に雨谷は返事をしなかった。好都合だった。
「早く食べちゃおう。もったいないから」
「うん」
すっかり料理は冷めてしまっているが、小見原は躊躇いなく澄まし顔でフォークを回した。スープが跳ねて、白いシャツの胸元に赤い染みがついた。
…
……
………
会計が終わった後、小見原は普段以上に世間話に花を咲かせようと口を動かし続けた。一方的に話しているのに雨谷は楽しそうに相槌を打ってくれて、同じ趣味に喜んでくれたり、知らないことに驚いたりしてくれた。帽子と前髪のせいで雨谷の顔は隠れてしまっているが、コロコロと変わる表情は明瞭で、ますます胸が締め付けられる。
雨谷がYUIIであるかどうか以上に、彼のことが好きになっていた。鈍感なところも迷子になりがちなのも、声が低くて、性格も穏やかなところも全てが綺麗に見える。
もし、あの放課後で脅すのではなく、小見原がAkatukiであると明かして、普通に想いをぶつけていたら、こんな風にどこかに出掛けたり純粋に作曲活動に勤しんだりできたのだろう。その機会を壊したのは他でもない自分だ。
なのに諦め悪く、小見原は雨谷の気を引きたくて必死に口を動かし続けていた。本当にどうしようも無い。
ついに改札に着いてしまった。終わりがけに上手い台詞も浮かばず、二人の会話が唐突に途切れた。
明日になったら、曲の調整も終わってしまう。自分の歌声を吹き込んだら、雨谷が声の編集と動画の制作をして、最後に完成したMVを雨谷から受け取ったら、もう終わりだ。
もう数日も残されていないこの時間を終わらせたくなかった。電車に乗るぐらいならここでずっと雨谷と一緒にいたい。だがそれを、雨谷は望んでいないだろう。
電車のアナウンスに意識が引き戻される。数分も無言のまま向かい合っていたらしい。小見原は喧騒に掻き消されないよう、少し背伸びをして言った。
「じゃあね」
「うん……気を付けて」
引き止めてくれるなんて期待してない。
小見原は身を翻して改札へ歩き出した。後数メートルも行けば、改札の緑の仕切りに阻まれて雨谷のところへ戻れなくなる。握りしめた定期券が指に食い込んだ。
「題名、まだ決めてないな」
すごく小さな声だった。小見原は勢いよく振り返って、つい声を張った。
「あるわ。もう決めてあるの」
「そうなの? どんな題名?」
雨谷が目を輝かせてこちらを見つめてきた。子供のように期待を持った顔はあっという間に小見原の不安を拭き晴らしてしまうほどで、自然と笑顔が浮かんだ。
「完成したら教えてあげる」
今度こそ改札を通り抜ける。ピッと機械音を上げた仕切りは、すぐに元に戻って道を塞いだ。また寂しさで胸が冷たくなったが、後ろからかけられた雨谷の声でそれも吹き飛んだ。
「小見原さん! また明日!」
やっぱり好きだなぁ。
自然に持ち上がった頬を隠しもせずに、小見原は勢いよく振り返った。
「調整! ちゃんと進めておきなさいよ!」
雨谷は苦笑しながら手を振っていた。小見原も手を振りかえして、足早に電車のホームへ向かう。
タイミングよくホームに滑り込んできた電車に乗って、来た時と同じようにスライドドア近くの席に座る。それからスマホをタップすると、雨谷に送られた名前のない曲がトップに出てきた。三角ボタンの下のバーには『3:45』という数字が並んでいる。
降りる駅に着くまで五分もある。一曲聴けると思った時にはもうイヤホンがスマホに刺さっていて、あとは耳に入れるだけだった。
小見原はまどろむように静かな電車内でイヤホンを挿し、窓から外を眺めながら三角ボタンを押した。
美しい前奏を越えて流れる雨谷の声は、すぐ側で歌ってくれているようだった。
終わったら別れると決めたから、この曲も約束通り消したほうがいいのかもしれない。これ以上雨谷に迷惑をかけないためにも。
『一人でも走り続けるの ずっと ずっと 暁の元へ』
最後の歌詞だ。最初は、これっきりでこの関係を終わらせたいという雨谷の意思表示かと思った。でも今聞いてみると、一人になっても歌手になって成功して欲しいという、都合のいい彼からの激励に聴こえる。
流れてくる最後のピアノの旋律はどことなく『白白明』の前奏に似ている気がして、小見原は冷たい画面を額に押し付けた。
 




