正しさとは
――この世で正しいことって何だろう。
そんな風に物事を考えた時、正しさなんてものが無いことに気付く。
ふと、誰かが「絶対の正義」というものを叫んでいる。
斜に構えた目で見ながら、それを嘲笑う。
往々にして、正しさが絶対的なモノだと妄信している人間は、正しさについて考えたことも無ければ、客観視したことも無いのだろう。
大を取って小を切り捨てる事も、家族のために犯罪を犯すことも、誰かのために人を殺し、戦争を起こし、それによって人が大勢亡くなろうとも、究極的にはすべて正しいのだ。
なぜなら、彼らにはそれしか選択する術がなく、そして力が無いからだ。
浅はかな人間はこんなことを言うかもしれない
――誰かを犠牲にして、それでも切り捨てていい命がある訳がない、と
そんなものは当然だ。
それが人殺しの殺人鬼や享楽で拷問を楽しむ狂人、欲望の限りを尽くす性犯罪者でもあっても、罪を認め、真摯に謝罪し、被害者が許し、生き続ける限り罪を背負い続けるというのならば公平性を考慮すべきだろう。
しかし、しかしだ。犠牲にする人間がたとえ虫を殺した事が無く、犯罪も侵さず、善行を積み続けた素晴らしき人物であろうとも、自分にとって大事なモノと比べるべくもない。
家族、弟妹、親友、恋人、恩人。
大切な人と比べ、それを犠牲に出来る人間は限りなく少ない。
それが人の心であり、ほとんどの人間がみな誰しも比べて選択し、切り捨てている。
中には自分の命よりも大切なモノをどことも知れない他人に対し、比べ、それでもなお自分の大切なモノを犠牲にする者もいるだろう。
なんと素晴らしいかな。そして、なんと気高く、正しくあり続けようとする無情な人間なのだ。
けれども、それもまた一つの正しさなのだ。
誰かを犠牲にし大切なモノを守ることも、大切なモノを差し出し、赤の他人を救う事もまた、本質は変わらず同じだ。
故に、正しさは星の数だけ存在する。
例えを出そう。例えば、とある道で二人の人物がいるとする。
その道では避けるという行為は存在せず、どちらか片方した通れない、そんなおかしな道だ。
片方から歩いてきたのは、億万長者で誰にも並ぶことの無い大富豪と称される者。
欲しいものは金で手に入れ、邪魔なモノも金で排除する。
金が世界の中心であり、その制御を握っていると言っても過言ではない。
自分の持つ財力で全てを自在に操っていた彼にとって、金が人生の全てだ。
この世の中、金で動かせないものが無いと過去の経験則から信じて疑わない。
それがたとえ家族でも、親友でも、恋人であっても金さえあれば、人の心を動かせると本気で信じている。
反対から向かってきたのは、これまで数え切れない程の人間を殺めた殺人鬼だ。
彼にとって人を殺すことについてなんら忌避感も無く、手を伸ばすのと同様、生きるための延長線上でしかない。
邪魔な人間は殺し、障害物は排除し、自分の意のままにする為の選択肢が殺しだ。
弱者であれば死ぬのは当然で、それが自分であっても関係ない。
そんな両者が出会った時、どうなるのか?
それは様々な可能性が考えられるだろう。
金持ちの大富豪は得意の金で殺人鬼を買収するだろうし、殺人鬼は言葉を交わすことなく首に斬りかかり一撃で仕留めに入る。
ある世界では、殺人鬼の容赦ない攻撃で大富豪は命を落とすだろう。
ある世界では、大富豪は殺人鬼を金で改心させることに成功するだろう。
金の力が強ければ大富豪は生き残るし、純粋な暴力が強ければ殺人鬼が勝利する。
どちらが勝つか負けるかではない。
どちらでもあり得るというだけだ。
正義は不変ではない。
正義は流動的なのだ。
独裁者が悪だと断じられることもあれば、国を一つに纏め上げた偉人として名を残すこともある。
民主主義が万人の意見を取り入れた素晴らしき制度だと言われることもあれば、衆愚政治による破綻する余地を残した欠陥制度とも呼ばれることもある。
独裁が悪い訳でも、民主主義が正しい訳でもない。
物事は使い方次第で善にも悪にも変わり、物の見方によって無数の色合いを見せる。
それは歴史が証明しているのだ。
また、多数決でも同様の事が起こりうる。
有能なる多数が多ければ、その選択肢は幸運に見舞われるだろうし、無能なる多数が多ければ、その選択は地獄への片道切符になる。
反対に、有能なる少数がいても無能な多数を変えるのは難しく、無能な少数は知らず知らずのうちに、有能な多数を中から食い破り道連れにするだろう。
数が多い事が正しい訳でもなく、逆に数が少ない事が間違っている訳でもない。
究極の選択も、金と暴力も、独裁と民主主義も、多数でも少数でも、ところ変わり、文化が変わり、人が変わり、主観が変われば、正しさは虚ろうだろう。
正しさという虚構に囚われてはいけない。
正しさを追い求めようとする人間は、いつしか正しさという空虚な言葉に囚われてしまう。
だから、正しさを追い求めるのではなく、間違った正しさをかき集めればいい。
そうして一つ一つ、消していった選択肢の最後に正しさが残るだろう。
けれども、正しさを追い求めるのを止めない事こそが、人間が欲する“正しさ”というモノの本質なのかもしれない。




