2章 彼女に渡すとしよう
犬石過去編のラストです。
今日もニュートラルな授業六回が終わり、掃除を始める。昨日の夜にいろいろ考え事をしていたので忘れていたが、この後魔利に時間を空けておくように言われていたのを今思い出した。別に用事を入れてしまったわけではないが、親友との約束事を忘れる、これは反省すべき行為だ。次からはしっかりとメモするように、と思った。相変わらず掃除は二人で行っており、私は教室、魔利は廊下を担当している。教室の方が断然量が多いのだが、掃除の速さが、微々たる差ではあるが、私の方が早いということで、こういう分担になった。廊下が終われば手伝ってくれるので、結局やる量は同じではある。しかし今日は、彼女の手助けが無く、一人で教室掃除を済ませた。何かあったのだろうと思い廊下を見てみると、案の定魔利はいなかった。風で舞うほこりだまりが確認できたので、彼女が先生に呼び出されたと仮定し、廊下掃除を始めた。
ある程度綺麗になり、塵取りを取りに教室に戻り、再び廊下に出ると、階段の方から魔利が見えた。とりあえずほこりを塵取りに入れ、振り返ると彼女はすぐそこまで来ていた。先ほどは気づかなかったが、彼女はある人を連れてきていた。
「満作さん、僕に話があるのって、この子?」
「そうです、彼女です。」
魔利が連れてきたのは、私の片思いの相手、志垣先輩だった。状況を飲めないでいる私を魔利が教室に引っ張り込み、彼に聞こえないように耳元で言った。
「あとは、お好きにどうぞ。」
「ちょっと、言ったじゃん、付き合うつもりは無いって。」
去ろうとした彼女を引き留め、説明を求む。
「いいからいいから。ほら、待たせちゃ悪いよ。」
そう彼女がいい、背中を押され、廊下に出された。
「私は野暮用があるので、お二人でどうぞ―。」
そう言って魔利が逃げるように去っていった。有難迷惑とは、まさしくこのようなことを指すのだろう。多分昨日お手洗いに行くふりをして、事前に彼に時間を空けるよう頼んでいたのだろう。周りに他の人はいなく、二人だけになった。
「え、えっと、要件って、何かな?」
後輩の呼び出しに素直に答えてくれた彼に嫌悪の表情なく、ただ静かに私の言葉を待っている。とりあえず、何か話さないと。
「え、えっと。私のこと、覚えてますか?」
緊張して、あまり考えずに出た言葉がこれだった。
「えーっと、ごめん。あまり覚えてないな。」
当然だ、彼とまともな面識はないし、三日前だって彼は私の姿を見ていない。何でこんなことを聞いたのだろう。
私が話さないと沈黙が解けないのは分かっているが、何を話せばいいか分からず、どんどん気まずくなっている。彼は困ったような表情で、焦る私を見つめる。
「え、えっと、あの――」
テンパった私が出した言葉は、私が理屈付けて閉じ込めていたはずの気持ちだった。
「私、前から、志垣先輩のことが、好きでした。」
高鳴る鼓動、にじみ出る汗。顔が真っ赤になっているのを自分でも感じ、思考がまとまらない。諦めの決意は思考力の欠けた私からは抜け落ちており、最後の言葉が出た。
「私と、お付き合いしてください!」
最後の一言とともに頭を下げる。言い終わってなお私の頭は真っ白で、彼が返事を待っていた。
そんな私に飛んできたのは、彼の言葉ではなく、左頬への鋭い一撃だった。
壁にぶつかり、見上げる。そこには知らない女子生徒が、熱気がほとばしっているように見えるほどの怒りの状態で立っていた。殴ってきたのは彼女らしく、私は全く状況を理解できずにいた。
「あんた、どういうつもり?モデルは人の彼氏とってもいいってわけ?ふざけんじゃねーよ。」
倒れこんでいる私へ重い蹴りが腹部に飛んでくる。ようやく我に戻り、状況の把握ができた。つまり彼女は志垣先輩とお付き合いしている女性だ。怒りの治まらない彼女は地面に這いつくばった私にもう一発蹴りを入れ、口から出た血が地面に飛び散った。
痛みで立ち上がれない私は視界が髪の毛でふさがっており、彼女の荒い息だけが耳に届く。唸り声をあげた彼女が拳を振りかぶるのが隙間から見え、目を閉じる。その次に聞こえたのはゴツッ、と言った音で、私への被害は無かった。
「真実、落ち着いて。」
志垣先輩の声が聞こえた。ゆっくりと見上げると、さっきの拳は私の三十センチぐらい上に命中しており、強く握りしめすぎた拳から、血が滴り始めた。
「ごめん、頭冷やす。手伝って。」
ようやく呼吸の整った彼女は体を上げ、志垣先輩を連れて去っていった。
先ほどとは反対に、体は動かないが頭は働く。知らなかったにしろ、あの真実さんには悪いことをした。彼氏を取られる気持ちは分からないが、相当嫌なものなのだろう。彼女は悪くない、悪いのは感情を抑えられず、本心を伝えてしまった私なのだ。
「大丈夫?」
魔利の声だった。今かける言葉はそれかよ、と心の中で思った。親友として恥じるべき行為をまたしてしまうが、彼女への怒りの気持ちが込みあがってきた。
「言ったじゃん、魔利、なんでも知ってるって。」
「うん。」
「知ってたの?志垣先輩に彼女がいるって。」
泣きながら言った私に対して返した彼女の言葉に、今までに感じたほどの無い邪悪さを感じた。
「うん。」
彼女の顔を見ると、気味の悪い笑みを浮かべていた。
「何で言ってくれなかったの?」
涙声の私に対し、彼女は生き生きとした声で、高笑いながら言った。
「だって、その方が私にとって都合がいいんだぁもぉーん。」
まるで理性が崩壊したかのように、甲高い声で彼女は笑った。いつもの魔利の面影は一ミリも無く、全くの別人に見えた。
「やっとだよ、待ちわびたわぁ、この瞬間をよオーッ。」
未だに立ち上がれていない私を彼女は踏みつけ、スタンピングを始めた。
「しんどかったわぁ、あんたとのユウジョォオウゴッコぉ。何が悲しくて嫌な奴の看病なんて行かなけりゃいけないのよ?あんたがいなけりゃ、私はとっくにスターになれていたはずなのよぉ。あんたさえ消えてくれれば、全て思い通りになるのよぉ。二度とその面見せんじゃあねェーよ、この外見だけのカス。アマチャンはおとなしく騙されればいいんだよ。あんたが悪いんだからねぇ。そのすっからかんな脳みそで何も知らないでべらべら喋った、あんたが全て悪いんだからぁあねぇエ。これに反省したら、その口を二度と開けないことだね。ホント、しんじらんないわぁ。食べ物に薬入れられてるのも気づけないなんて、ホント、世間知らずないい子ちゃんは、全て思い通りに動いてくれて、滑稽だったわぁ。」
物理的ダメージと精神的ダメージで意識が遠のいていく。そんな中でも、彼女の言葉は、気を失う直前まで、私の脳内で響き続けた。
認めたくなかった、今までの彼女との友情が、全て偽りだったなんて。
認めたくなかった、私が見てきた彼女は、いつも本物ではなかったことを。
初めてかけてくれた言葉、語り合った夢、励ましてくれた毎日、一緒に弁当を食べる昼休み、撮影現場たまに会う時の喜び、看病してくれた優しさ、そのすべてが幻で、海の泡のように水面まで上がり、何も意味をなさずに消えていく。
そうか、私はずっと騙されていたのか。人の心を弄ぶ魔女の手のひらで、ただ踊らされていただけだったのだ。
彼女との時間だけでなく、私が生きて、培ってきた全てが、ただの夢のように思えてきた。女手一つで私を育て、貧乏ながらも私の幸せを一番に思ってくれる母の愛情も、実の子のように育ててくれ、私を尊重してくれたマネージャーの愛情も、大海に放り投げられた穴だらけのガラス瓶の水が霧散していくかのように、曖昧なものになっていく。いっそこのまま、海の藻屑になって、そのまま一生を終えたい。そんな気持ちになった。
気が付いたのは家のリビングで、母が横で心配そうにしていた。目を覚ました私に気付いた彼女は、涙ぐんで言った。
「何があったのよ。ピンポンなったと思って行ったら玄関でボロボロになって倒れてて、そのままずっと目を覚まさないかと思ったじゃない。」
彼女は仰向けになった私を泣きながら抱きしめてくれた。消えかけた瓶の中身が、少し戻ってきた感じがした。また心配を掛けてしまったなと思い、謝ろうとした。
しかし、私の口からは何も出てこなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。いかがでしたでしょうか。ようやくキーワードに入れたダークに少し足を踏み入れましたね(少シ。コレ、ダイジ)。
予想していた展開になりましたでしょうか?今のところモブキャラ以外は善人ぞろいだったので、そこそこスポットを与えたキャラが悪に染まる(?)展開は、書いている側からしても新鮮でした。こういう裏切りって割と定番ですけど、それをあまり醸し出せなかったのは、実力不足かなーと思います。作者の勝手な急カーブって、私はあまり好まなくて、一応キャラの名前とか、その他いろいろな知識をつなぎ合わせれば、この展開は予想できなくはないのですが、それを説明するのはタブーですし、まあ、意外だった、って思っていただければ十分満足です。
犬石さんはしっかりとしたキャラモデルがあり、設定にはほかのメイキャラ以上に拘りました。最後に点が線になるよう、頑張って書きますので、今後ともよろしくお願いします(ただの胸糞展開は意味ないし)。
一言:電池切れって案外起きないもんですね。