#8 悪魔の策略
兄さんの帰りが遅い。今日はワインを一緒に飲もうっていってたのに。
ぶすーっと頬を膨らませた少年、いや、少年の見た目でも年齢的には……のヴェリテはワイン倉庫を荒らしていた。
前日にスィエルは一体何本開けたのか、知らぬ間に倉庫にあったほとんどがなくなっていたのである。
瓶にはラベルが貼られていたが、イライラしたヴェリテはその何枚かをビリビリに破いてしまった。しかし、それでも暴走は止まらない。
「ずるいよ兄さん!」
「ヴェリテ、うるさい。静かにして。兄さんは多分かなり疲れて帰ってくる」
深緑色のローブを着て、紺色のカバーの分厚い本を持った少女がヴェリテの頭を杖で突いた。先っぽは結構とがっているので刺されると痛いと何度も言ってはいるのだが。
「いたい! やめてよイデア、なんで分かるの?」
「何となく、魔力の回復が遅い気がするから。今日はすごく眠たかったから寝てたのに、貴方の声が聞こえた。兄さんが怪我してるのかも」
イデアは、この城の一階にある大図書室、「叡智の間」の司書をしている。スィエルが持つ知識と同等の知識を持っているので、怒らせると他の誰よりも怖い。
最近、スィエルが外に出る機会が増えたため、情報の整理に追われているのだ。
そこまで無理をしなくてもいいとは彼に言われているのだが、頑張り屋の彼女はいつも張り切ってしまうのだという。
「ヴェリテ。今日ぐらいはキース様の邪魔をしないでいただけますか? キース様は貴方よりずっと考えて敵を屠っておられるのですから、エネルギーも使うでしょう。貴方とは違ってね」
ティーカップに優雅に紅茶を注ぎ、足組をしながらサンドラは僕を鼻で笑う。何とも嫌なやつだ。個人的には、あまり関わりたくない。
「もー! サンドラまで酷いなぁ! 大事なことは二回も言わなくても分かるって!」
「えっと……帰ってきたけど……わっ、怪我が……どうしよう」
慌てながら凍術による遠隔視認でスィエルの姿を見たネージュが呟くのを、サンドラは聞き逃さなかった。勢いよく椅子から立ち上がり、一瞬で戦闘態勢を整える。
兄さんとお揃いの黒の軍服に加えて、肩に乗った白い蛇に一瞬ビックリするが、サンドラのペットみたいなものだ。危害を加えることはしない。味方に対しては。
それにしても、「キース様の護衛」と自称しているだけはある。
「キース様が!?」
「え、ちょっとサンドラ! 準備良すぎない!?」
「戦いに必要な実力には準備も含みますからね。貴方達はここで待機しておいてください。私がキース様の迎えに行きますので」
そう言って、あっという間に窓から飛び降りて門の方向に向かってしまった。
「僕だって兄さんを守ることぐらい出来るのに……なんでいつもあいつばっかり……いいな。僕も役に立ちたいな」
ふてくされるヴェリテの前にすっと差し出されるものがあった。ワインの瓶である。
「ヴェリテ、ワインが一本だけ残ってた。飲みたかったら開けて」
瓶を見てぱっと目を輝かせたヴェリテに、拒否するという選択肢は存在しなかった。
*
「キース様! その怪我は……待ってください! すぐに手当します」
広がる雪原の中をふらふらと歩きながら、城の主は帰ってきた。ネージュが言っていたとおり、酷い傷が体のあちこちに刻まれている。サンドラは急いでスィエルの元まで走り、術式で生成した毛布をかぶせる。
ここに来るまでに何度か足を滑らせ転んだのか、膝の部分の布は擦り切れており、膝や額からは血を流している。
倒れ込むようにして、私に寄りかかる彼の体を受けとめながら、空気中の僅かなリソースを魔力に変える。体は冷たく、唇は青紫色になっている。急がねばならない。
治癒高等術式「プルウィウス・アルクス」を唱え、虹色に光る手の光点を膝に当てる。鮮やかな光が傷を癒していく。
「サンドラか。すまないな。相手の術士との戦闘に手こずってしまった……お陰で魔力もほとんどない。少しでも残っていれば撤退も楽だったのだが」
「貴方が無事であるならば問題ありませんよ。他の者達も貴方の心配をしていました。残りは風術で体を浮かせますから、楽にしてください」
「頼む」
飛行となると高度なテクニックと魔力が要求されるが、今の私にはどちらもない。だが、体を浮かせるぐらいならば、イメージの問題なのでそこまで難しい術式は必要ないのだ。
長い時間はかかったが、ようやく「叡智の間」に辿り着いた。城の内部は魔力に溢れているので、回復も早いだろう。フードを被ったままのイデアに、スィエルは一礼する。
「イデア、迷惑をかけた」
「あまり無理な侵攻は勘弁してください。私はこれから情報整理に戻るのでこれで。あと、ヴェリテがわめいていたのでとりあえず一本渡しておきましたが、後でなだめるなどしておいて下さい。サンドラ、よろしく頼みます」
「ええ、キース様。深紅の間まで一緒に行きます」
「……ありがとう」
階段をのぼり、最上階の深紅の間に辿り着く。
豪華なシャンデリアがサンドラとスィエルを迎える。
「悪いな、助かったよ」
弱り切った主の体をベッドの上に乗せて、サンドラはワインセラーから一本のワインを取り出す。深紅の間はスィエルの場所なので、レムナント達はちゃんとわきまえているのだ。
「キース様、ワインをお注ぎしました。どうぞお飲みください」
なみなみと注がれる赤い液体を、スィエルは一杯だけ口の中に通す。
「ああ……サンドラ、すまないが今日はワインはいい。その代わり、バイオリンで一曲弾いてはくれないか?」
「そうでしたか。では、弾かせていただきます。このワインは私が飲ませていただいても?」
スィエルが僅かに頷いたのを確認したサンドラは、玉座のすぐ側にあるガラスケースを開け、バイオリンを手に取る。
弓を弦の上に滑らせる。夜の孤城全体に響かせるように。ここだけの演奏会が、開かれる。
どれだけの間、弾いていただろう。いつの間にか、スィエルは眠っていた。かすかな寝息を立てながら、いつもより少しきつめに目をつぶっている。夢でもうなされているのだろうか、とサンドラは考える。
「貴方様の不安を取り除いてあげられればいいのですが……私には貴方には遠く及びません。いい夢を、キース様」
*
『だから言ったのだ。いつまで余裕を保っていられるかと。痛い目を見ただろう?』
「悪魔か。何故加勢しなかった」
悪魔が加勢すれば、まだ勝てたかもしれなかったのに、ただ見ているだけ。趣味が悪い。全く、夢の中でも悪魔に責められるとは思いもしなかった。
『フン……たまには敗北も味わえ。そうでなければ、奴の実力を見誤り続けるだろうと思ったからだ。油断するな。あの男、アルト・フォーケハウトは、お前を閉じ込めたタレス・フォーケハウトの子孫だぞ?』
「馬鹿な……おい、悪魔。冗談だろう?」
嘘だ。嘘だと言って欲しい。私を苦しめたあの男の子孫など、一番信じたくない事だ。
やめてくれと心の中で叫んでも、悪魔が連ねる宣告は慈悲のないものだった。
『ここで冗談を言って何になる。いい加減、現実を見ろ。奴は絶対に侮るな。消されるぞ』
あの憎い男の子孫ならば、最上位術式を行使してもなんら問題はない。私を苦しめる術を知っていたのも、それが原因なのか。
ああ、それならば。
それならば、三千年間の屈辱を刃の中に潜ませて、血で生成した泥に身を沈ませて、狂気で人間性というものを潰してしまいたい。
あんなに誠実そうな人間が、地の底まで堕ちて叫びに叫んでもがき苦しむ光景は、どれだけ滑稽だろうか。私が経験した地獄を、今度はあの男に味わわせるのだ。それを想像していたら、自然に笑みがこぼれた。
「あはっ……あはははは……ああそうか……そうなんだ。まさか、あの男が私を閉じ込めた者の子孫とはね」
『何がそんなにおかしい?』
「おかしいよ……一番憎い敵が堂々と私の前に現れてくれるなんて! なら、復讐もやりがいがあるってもんじゃないか……情けも、容赦も要らない」
テーブルの上に置かれたボトルのラベルのうち、-Alto Forkehaut-と書いたラベルを破り捨てる。
「あの血を今度はじっくりと味わわせて貰おう。絶対に……逃しはしない。何としてでも手に入れ、そして更なる力を我が物に……」
奪うことに執着した主の姿を、悪魔はただ、薄い嗤いを浮かべながら黙っているだけだった。
その緋色の瞳の奥に、更に悍ましい陰謀を隠している事には、まだ、誰も気付かない。