#7 そして賽は振られる
注意深く辺りを見回しているものの、屋根の上から街を俯瞰する私に気づいた様子はない。今日は新月だから、姿を確認する事も難しいのだろう。私の事を忘れたまま、成長を続けた街。故郷であるはずの場所なのに、私の目には他人事のようにも見える。
遙か遠くまで見える、あの輝かしい光の向こうには何があるのだろうか。この頬をなでる風が行く先には、何が待っているのだろうか。私は、何も知らない。私が知っているのは、人々から向けられる憎悪と、手に染みついた血の臭い。そして――悪魔に愛される喜び。それぐらいだ。
傷だらけの手を、真っ白な手袋で覆う。白はいい。私がどれだけの人間を傷つけ、屠っているのかが一目で分かる。罪の大きさを、私は痛いほど認識できる。快楽のために、人を殺めているのではない。私は、この歪んだ世界をどうにかしたい。ただ、それだけを願っているはずなのに。
だが、私は他に解決するすべを知らない。化け物と呼ばれ、戦うことだけを強制された私にとって、残された道は多くなかった。
細剣を鞘から引き抜き、自らの顔が映るように動かす。虚ろな目をした青年。何のために戦うのかも分からず、淡々と復讐を繰り返す怪物。悪魔に生け贄を捧げ、対価として愛を得る。この空っぽな心は、人々の流した血で埋めているのだから、本当に化け物だ。笑いたくなる。
なのに、生きていたいと願ってしまう。他人の命などどうでもいい。いや――彼らの命を奪ってでも生き延びたい。孤児院で虐待されて日々を失った。城に永遠とも呼べるような長い時間、幽閉されていた。だから、失った時間を少しでも取り戻したい。そう思ってしまう。
――奪われたなら、奪い返せばいい。そうでしょう?
悪魔の優しい声が、私の雑念を払っていく。そうだ。彼らは私から何もかもを奪った。だから、奪われるのも当然のこと。自分のエゴがむくむくと膨れ上がり、気づくと私は屋根から飛び降りていた。
叫声が辺りに響き、気づいた者達がどよめく。
「お前がスィエル・キースか……!」
「……ああ、そうだよ」
ひどく冷めた声が、私の喉からこぼれる。敵が何人いようと、悪魔からの命令は変わらない。殺せ。ただそれだけだ。化け物でも、何でもいい。私は、この心が埋まればそれでいい。飢えた心を満たしてくれさえすれば。
「スィエル・キース……血の臭いが酷いぞ……いったい何人殺しているんだ」
「分からない。私の事を忘れた人間のことなど、記憶にもない」
「狂人め……総員、態勢を整えろ! 術士隊は援護しろ!」
そう、指揮官らしき人間が叫ぶと、杖を持った術士達が一斉に駆けてきた。気づかれていないと思っていたのだが、どうも情報が回っていたらしい。偵察した人間はかなりの熟練者だったのだろうか。
暗殺を防ぐために、注意が向くところまでは魔力壁で反応するようにしていたのだが、それを上回る人間が相手にいたということだ。逃げられるような場所はない。だが、撤退することもない。
「その程度の手勢で、私を殺す? そんなに私に策がないとでも思っているのか」
「お前の細い剣一本と魔術で何ができるっていうんだ?」
「細い剣と魔術があれば、貴様らを殺すには十分だ――悪魔、お前も楽しむといい」
私は笑う。ずいぶんと大げさに口角を上げて笑ったので、相手には魔王の笑みに見えたかもしれない。私の腕に、靄のようなものがまとわりつき、徐々に膨らんでいく。
「な……なんだ! 悪魔だと……なら、あの伝承は……」
「私は悪魔と契約したんだ。だから、捧げ物がたっぷりと必要でね……ほら、彼も喜んでいる。沢山獲物があるから、今日は満足してくれそうだ」
靄は、なおも不気味な音を立てて成長を続ける。奇怪な笑い声。ぱちゃぱちゃと滴る血。この姿は完全体ではないが、相手にとっては相当の恐怖となっただろう。早く人を食らいたくて仕方がないとでも言うように、靄は槍となって敵に襲いかかる。
「ああ……愚かな人間達が私のために集まってくれるなんて……スィエル、もっともっと犠牲を私に。そうすれば、貴方のことは愛してあげますよ?」
靄でできた口から血をこぼしながら、飢えた獣は次々に敵を屠っていく。悪魔は囁く。血を捧げれば、何でも願いを叶えると。私は、その快楽に、孤城で生きた長い日々を預けてしまった。浸かりきり、溺れてしまった。
だから、私は悪魔の傀儡だ。悪魔に身を委ね、罪を重ね、血で自らを呪う。悪魔に依存する私自身を責め立てる。この復讐は、終わらない。それに、私は満足しているから。目の前で、惨劇が起きても、私の心は動かない。それが、彼らが受けるべき罰だと思っているから。
ぼんやりと、血の流れる様を見ていた。悍ましいとも、怖いとも思わない。それどころか、美しいとさえ思ってしまうのは、悪魔の心が乗り移ってしまったのだろうか。冷えた身体をさらにいじめようと、風が吹きつけ、血の臭いと共に彼方に去って行く。
「はは……はははっ……ああ、無様ですね。私が貴方を守る限りは、彼らは絶対に貴方を殺せないのに」
「悪魔……ありがとう」
「ふふっ。醜い人間達を一方的に叩きのめすのは気持ちがいい。あれだけ虚勢を張っていても、この程度なのですから。さぁ、帰りましょう? もう、これ以上襲ってくる物好きも――」
そこで、悪魔の言葉が途切れる。何があったのかと問うより先に、人の気配を感じた。
「待て!」
若い男の声が、私を制した。振り向くと、丁寧に撫でつけられた青い髪と同じ色の瞳の男が私を睨み付けていた。私は若干の殺意を込めて、口を開く。
「興ざめだな。誰だ。邪魔を挟むのは」
「私の名はアルト・フォーケハウト。お前さんの調査を依頼された者だ。この前は弟子が世話になったな……」
この前の弟子、ということはあの暗殺者はこの男に色々と教わっているらしい。後で情報を入れておこうと、心の中で考えながら男に言葉を返す。
「ほう。それで? まさかとは思うが、ここで全てを吐くとでも思っていないだろうな?」
「そのまさかさ。お前さんには色々と聞かなくちゃいけない。何故こんな事をする?」
「チッ……誰も私の事など理解しないのに、理由だけは知りたがる。私は愛されるための力が欲しいだけだ。ただそれだけの事を何故そこまで否定する? 私は悪魔に選ばれた。それによって、力を手にした。贄を捧げさえすれば愛されるんだ……放っておいてくれ」
どうせ、常日頃から愛を得ている者には分からないのだ。
虚構の愛だということなど知っている。偽りの賞賛だということも知っている。
ただ、そうだとしても。私の朽ち果てた心を癒してくれる者など、悪魔の他には誰もいない。両親は自ら殺した。仲間は私の知らない時に姿を消した。
三千年という膨大な時間の経過と共に、私は飢えを我慢できなくなっていった。目の前の標的がグラリと歪む。あの、忌まわしい孤児院の景色が一面に広がる。
「事情は色々あるのは分かった。だが、お前さんの行動を許すわけにはいかないんだ」
「それは法によるものか? それとも社会か、人間性か。いずれにせよ、私がこの殺戮をやめる理由にはならない。貴様達は私が求めるものなど何一つ与えてはくれないのだから。そこをどけ……私は、復讐を辞めるわけにはいかない」
「嫌だと言ったら?」
「……その口を削ぎ落とす」
いちいち面倒だ。悪魔に任せようかと思ったが、機嫌が悪いのか一向に出てくる気配はない。仕方なく私が剣を引き抜くのと同時に、彼は足を一歩踏み出した。
「今まではずっと勝利を収めてきたのかもしれないが、いつも君の思うままにはいかせんよ――ヴァン・ラーミナ!」
風術高等術式、「ヴァン・ラーミナ」は、空気中のリソースを凝縮させ、刃の形を作り、発射するというものだ。狙いは身体の左上の方――目か、首か。迫り来る五つの刃を、凍術で相殺し、凌ぐ。
「……強力だな。あと少し遅れていたら刺されていた」
「これでも無事か。結構風術は自信がある方なんだがな。じゃ、これはどうだ?」
突如、激痛が体中に奔る。あまりの痛みに、私は膝をついた。喉から数滴鮮血が漏れる。全身の傷が強引に開けられたような、耐えがたい痛みが波となって押し寄せる。ずきりずきりという音も聞こえてきそうなほどだ。
「痛覚操作……なら……あの術式か……!!」
幻術最上位術式、「シカトリス・エウォカティオン」は、最上位術式となっているが、対象の痛覚を操作し、痛みに敏感にさせるというものだ。普通の人間であれば、そこまで恐れるほどの術式ではない。それも普通であれば、だが。
「私がどれだけの傷を負っているか熟知していたな……」
「ああ。スィエル・キース。伝承に名を残す殺戮者は、大軍を相手に、たった一人で戦った」
「があっ……」
大軍との戦いのときの傷もそうだが、私が痛いと感じていたのは、それよりもっと前の傷だった。
鎖に締め付けられた痕、火傷を負わされた痕、鎚で殴られた痕。全身の傷が私を責めたてる。
ああ、痛い。やっと強くなれたと思ったのに。苦しくて、悲しい、この痛みから解放されると思ったのに。焼きごてを背に当てられたときと同じひりつく痛みに、私は悶えるしかない。
「理解したか。お前が連日のように人々に振るっている暴力を」
理解できない。理解できる訳がない。あるのは、なぜという戸惑いと、今にも破裂しそうなほど膨れ上がった憎しみだけだ。
私は苦しんだ。何度も無力感に苛まれ、自問自答を繰り返した。それで、悪魔と契約し力を得たというのに。どうして、まだ苦しまなければならないのか。
悪魔がいなければ、無力なままの自分。それが、嫌で嫌でたまらない。
「巫山戯るな……理解などするはずがない……――フルール・イーサシブル!!」
ダメだ。調節がきかない。暴走が止まらない。氷の花たちは、いつもの発動より早いスピードで次々に花を咲かせ、アルトに襲い掛かる。
「全く……話ぐらい聞け!! スィエル!!」
憎しみが荒れ狂う。怒りが弾け、暴れ回る。肌を刺す痛みが、私に襲い掛かる。周りが氷に閉ざされていくのも気にとめずに、私は破壊の限りを尽くす。
「うるさい……誰が貴様の話など聞くか……花よ、目の前の全てを凍てつかせろ!!」
「聞く耳も持たずか……チッ……冷気が!!」
男の怒号を、私は氷によって遮断する。自分と同じレベルの強さの敵が、早々に現れてしまったことに、何よりもの焦りを感じていた。それだけではない。思い出したくもない過去の傷を抉られ、武器にされたのも、私を動揺させた一つの理由だった。
もう、思い出さないと思っていたのに。強くなれば。誰にも馬鹿にされない力を身につければ、怖いものなど存在しないと、そう信じていたのに。
なのに、私は恐怖した。あの術士に、私は負けた。
氷の壁が崩れた後、あの術士の姿はどこにもなかった。だが、私は負けたと感じた。
私は、弱い。悪魔からのプレゼントによって、強い私を演じることができているだけだ。それに、あの術士は気づいていたのだろうか。
「……もう、朝なのか」
日の昇り方からして、もうすぐ人々が外に出てくる時間だ。まだふらつくが、ずっとここにいるわけにもいかない。
氷で滑りそうになるが、剣を支えに何とか立ち上がる。傷は痛み続け、上手く息も出来ない。だが、こんな苦しみはもう二度と味わわないと、そう誓った。
「アルト・フォーケハウト……貴様の血の味を、私は忘れはしない」
忌まわしい過去の屈辱を思い出させた罰は、あの術士を喰らうことで帳消しにしよう。そんな事を考えながら、私は城へ歩を進めた。