#6 罪深き青年
「……街は普通通りか。私の事は、幻か何かだと思われているかもしれないね。まあ、当然と言えば当然の反応なのだけど」
街の様子を傍観しながら、私は息をつく。どれだけ破壊しようとも、彼らが日々の営みを止めることはないようだ。私は、別に夜以外でも殺すことはできる。その気になれば、昼のうちに奇襲を仕掛けて皆殺し、なども容易い。
だが、私は夜以外にこの街に繰り出す気にはならなかった。それは、夜にこだわっているからなのか、あるいは――。
「私が、人を殺すことを拒んでいるから……なのか」
殺人鬼。狂人。そんな人間が、言う台詞ではないというのは分かっている。
私は復讐を誓ったし、人を何人も殺している。赤目を守るために、他者を犠牲にすることに躊躇いはない。誰かの犠牲、何かを失うことによって、何かを得ることに文句はない。
なのに、私は時に迷ってしまう。弱い自分が顔を出し、私を迷わせる。弱い自分を強引に押し込めて、出てくることができないように蓋をするのに、夜という時間は必要なのだ。
窓際に円形の小さなテーブル、加えてティーポットとカップを用意する。酒を飲むには、まだ早い時間だ。酔ってくだらないことを考えるより、今は日の光の当たる場所で、ゆっくりと思考にふけりたかった。
深紅のカーテンを留め、私は椅子に腰掛ける。伯爵家の息子という肩書きも、生後間もない頃に棄てられ、孤児院で暴力を受けながら育った私には、何の意味も無い。作法は全て独学だ。目を閉じて、温かな紅茶を口に運ぶ。
紅茶は、私の目とそっくりの綺麗な赤色だ。なのに、私の目の赤は嫌われる。濃い血の色。誰にも大事にされない、悲しみの色。闇に染まり、絶望を映す色。
「ああ……」
私の喉から、絞り出された嘆息。誰とも関われず、こうして寂しく茶を飲むのも、もう何年やってきたことだろうか。城の中にいても、つまらない。誰かと一緒に過ごしたい。だが、それは許されないことだ。
夜になれば、また私は人間を傷つける。他人の命を奪い、命を繋ぐ。
それを止めることはできない。他者の命を吸わなければ自分が死ぬ。
ふと、窓の外に目をやると、外を飛ぶ小鳥が、大型の鳥に捕食されているのが目に入る。美しい瞳を持っていたとしても。流れるような翼で空を駆けたとしても、暴力に弱者が敵うことはない。私は、哀れな小鳥ではないのだ。
私は新聞の記事に目を通す。人々の生活が映された写真に、赤目の姿はない。角砂糖を一つ、カップの中にそっと滑り込ませる。小さな水しぶきをあげて、角砂糖は沈む。
「今まで、長かった。ずっと待ち続けてここまで来た……私の復讐は止まらない。憎しみも、怒りもすべてぶつけて、この街を破壊する」
思い入れも特にない。私を虐げ続けた故郷に、そんなものはあるはずがない。ただ壊して、悲鳴と恐怖を味わうだけだ。犠牲は多いほど好ましい。今までの苦しみを、今度は彼らに味わわせるのだ。
「私には、何もない」
「そう……貴方には何もない。だから奪うんでしょう? 奪って奪って、心に空いた穴を埋めるんでしょう?」
ふふふっ、と軽やかな笑い声が、誰もいないはずの大広間に響き渡る。次の瞬間、深紅の絨毯からは靄が溢れだし、風をまといながら奇妙な塊が現れた。虚ろな瞳、ゆがめられた口。全身が靄で覆われた、人間ではない、何か。
「悪魔……」
私は、再度腰掛け、カップに手を伸ばそうとする。しかし、すんでのところで悪魔の手によって遮られてしまう。
「貴方は奪えばいい。何も考えずに、殺せばいい。愛されたいんでしょう? 認められたいんでしょう? 幸せな生活を、もっともっと味わいたいでしょう? なら、哀れな人間の命など、幾らでも使い捨てにすればいい。貴方が孤児院で味わった屈辱を彼らに味わわせればいい……」
悪魔の呪いのような言葉が、耳元で囁かれる。愛されたい。そう思ったところで、私が知る人ももういない。私は母親の名も、父親の名も一切知らない。
一回だけ会ったことがある。両親の住む家を訪れた時に、剣を持ってはいたが、使うつもりは到底なかった。私は、両親と会って話をすれば、私が恐れるような人間ではないことを理解してくれるだろうと思っていたのだ。
そう。私の考えは甘かった。生まれてからずっと孤児院の中に閉じ込められてきた私は、外に渦巻く狂気など知る由もなかったのだ。
私の両親は、立派な家に住んでいた。門番には身分を偽り、侵入した。バラが咲き誇る庭園を抜け、固く閉ざされた扉を開き、中に入った時の胸の高鳴りは今でも覚えている。
あと少しで、両親に会える。それは今まで愛を知らなかった私にとって、とても大事なことだった。一緒に暮らして、一緒に過ごして、幸せを噛み締める。それがどれだけ、私が願ったことだったか。
扉を開くと、二人は仲良く会話を交わしていた。私は二人に呼びかけ、駆寄ろうとした。そのときまでは、ある可能性なんて考えていなかったから。
――肉親に、存在まで拒絶されるとは考えていなかったから。
振り返った二人は、まず疑念を。そして、驚愕と恐怖を色濃くその顔に刻みつけていた。小麦色の瞳と澄み切った空のような蒼い瞳が、私を睨みつけた。
「悪魔がまた戻ってきた……ああ、その眼。私達を恨んで恨んで止まないその忌まれし紅眼。何故来たの……」
「お前はもう私達の子じゃないんだ。不幸で呪う気か!」
肉親であるはずの人間の口から放たれたそんな一声は、私の期待を完全に打ち砕いてしまった。
この言葉に、私の心は抉られ、全てを拒絶するようになった。信じる事が怖くなった。期待も、希望も、夢も、意味のないものになった。
恐怖に震え、ありもしない可能性を嘆く親を前に、私は剣を静かに引き抜き、二人に容赦なく襲い掛かった。
私は両親の血を全身に浴びても、破壊したいという欲望を抑えられなかった。絶命しているのは分かっていたが、それでも憎悪の炎が消えることはなかった。
許せなかった。許せるはずなどなかった。両親もそうだが、自分自身さえ信じられなくなったのだ。棄てられたという事実を、もう少し受け止めるべきだった。
そうすれば、こうも苦しまずにすんだのに。何故期待したのだろう? 何故、夢を見てしまったのだろう?
壊れた心を引き摺りながら、街を焼いた。
揺れる炎を嗤いながら見ていた。火傷の酷い子供を。熱風に痛めつけられる民達を。慌てふためく家畜を。そして、憎き里が私の怒りで焦がされ、更地と化すのを。
私は他に苦しみを理解して貰う術を知らなかった。今でも、それは分からないままだ。
誰もが自分の財産に夢中だった。自分達の事に必死だった。焼け跡を彷徨う私を悪魔だと罵った。私が求めるものは何一つ与えられなかった。
私は、孤独から逃れられなかった。ずっと一人で、この城に閉じこもってきた。悲しく、寂しく、辛い日々。復讐に狂い、普通の人間であることをやめた私には、何も残されていなかったのだ。
「ああ、可哀想なスィエル。誰からも求められず、ずっと孤独に生きてきた貴方には、癒しが必要だ……貴方をこんなに傷つけた人間に……貴方は死という罰を下す権利がある」
悪魔は、歌うように私を誘う。その声は酷く冷たいのに、私はその声を求めてしまう。
「スィエル……貴方は、癒えることのない傷を負ってしまった。それは、今でも痛む傷。今でも貴方を苦しめる傷」
悪魔の優しさに、私は惑わされる。悪魔の言葉が、脳の奥深くに入り込む度に、頭が酷く痛み、私の思考を止めていく。テーブルの上のカップが、静かに倒れる。ゆっくりと、紅い液体がこぼれ、白いテーブルクロスに染みを作っていく。だが、それを戻そうとしても手と足が動かない。
全身を、悪魔によって縛り上げられているのだ。「なぜ、こんなことを」と、問いただそうとしても、悪魔は静かに喉を絞め上げる。
「ふふっ……スィエル……容赦なんて要らない。貴方は己の欲望に従えばいい」
「ああ……そう、だな……」
私は、何を迷っているのだろう。悪魔の言葉に頷く度に、胸の奥が鋭くうずく。壊したくない? 奪いたくない? 馬鹿げている。私は、命を奪ってでも生き延びると決意した。そして実際に、膨大な時間を生き延びた。
なぜ、今更迷う必要があるのだ。悪いのは、赤目を虐げた愚か者達。赤目を傷つけ、皆殺しにした奴らが、今も変わらず赤目を虐げている。
「許せない」
思わず、そんな言葉が口から漏れた。悪魔はにたりと笑い、私の額をゆっくりと撫でる。今となっては、この悪魔が親代わりのようなものだ。母からも父からも認められなかった私には、悪魔の存在が一番大きい。
「そう。貴方はそれでいい……貴方の悩みは消してあげましょう。不要な記憶は、全部私が払ってあげます」
視界が黒く染まっていく。何も見えなくなっていく。闇に包まれる感覚は、とても心地がよかった。