#65 ささやかな贈り物
懐かしい、とても懐かしい記憶を見た。
閉ざされた檻の中。何年も前の記憶なのに、その時の輝きは今でも心の奥深くに焼き付いている。
孤児院の中で唯一の友人。紫髪の少年は私のみすぼらしい格好を見るやいなや、目を丸くして私にこう尋ねたのだ。
「君の名前は?」
でも私は当時収容番号で呼ばれていた。私はひたすら外に出れないことに絶望するしかなく、親の名前も出生地も、何一つ自分に関して知っている事はなかった。
「名前、ないの?」
少年の顔が曇っていくのを見た私は、返事をしようとした。でも、常日頃から暴力を受け続けてきた私の喉はひゅーひゅーと虚しい空気の音しか漏らすことができなかった。
わずかに動く首を縦に動かして私は彼の質問に答えた。少年はしばらく固まっていたが、ぽんと手を叩くと、私にある提案をした。
「そうなんだ……じゃあ、僕が考えてきてあげるよ」
でも私はその提案に対して首を縦に振ることができなかった。赤目が入れられている檻は、施設の中でも特に恐れられている場所であり、赤目の人間に関われば罰を与えるというルールが存在していたのだ。
その決まりは彼もわかっていたはずだった。それなのに彼は、痛みを我慢してふるふると首を振る私に、「大丈夫だよ」と言ったのだった。
それから何日か経過した後。
彼は、ニ冊の辞書を持って、私の所に戻ってきた。分厚いカバーのタイトルは難しそうな言葉だった。
「君の名前、ちゃんと考えてきたよ! スィエル。スィエル・キースだよ。本当は、君が考えた名前の方が一番良かったんだろうけど。ごめんね」
いつも読み書きをしていたので、少しは読めるだろうかと思ったが、彼が持ってきた辞書は全くと言っていいほど分からなかった。
「あ、あった。ここだよ」
Cielと書かれた所に線が引かれ、そのページには紙のようなものが挟まっていた。檻のすき間から通されたそれには、《Ciel Keith》と綺麗な文字で書かれていた。
その文字を食い入るように見つめる私に、彼は苦笑しながら言った。
「スィエルはね、空って意味だよ。君は知らないかもしれないけれど、外にはいっぱいわくわくするものがあるんだ。もしもスィエルが外に出られる日が来たら、一緒に綺麗な青空を見ようね! 約束だよ!」
私の名前は親に与えられたものではない。友人につけてもらった名前を、今もそのまま名乗っている。青空を共に見ることは出来なかったが、彼は彼なりに私の事を支えてくれていた。
心の中で「ありがとう」とつぶやき、手を胸に添える。
そこで思い出は途切れ、意識がだんだんと覚醒していく。激闘の果てに私は勝利を掴み、そして悪魔との契約が終わったことにより私は命を落とす。
――と思っていたのだが。この光景は何なのだろうか。私の前には悪魔が微笑みを浮かべながら立っている。先程倒したはずなのに、まだ戦いは終わっていないのだろうか。
混乱する私の前で、悪魔は笑みを絶やさぬまま口を開く。
「ふふっ……来てくれたんですね」
「お前が呼んだんじゃないのか? それとここは?」
「貴方が来たいと思ったから、ですよ。私は招きはしましたが、貴方が強く願わないとここに入れないようにしていましたから」
「……そうか。それで、ここはどこなんだ?」
辺りを見回しても、悪魔とその後ろにある巨大な球体以外は何もない。人の影も見えず、まるで悪魔だけがこの世界に取り残されてしまったような感じだ。
「ここは私の世界。この何もない場所で私は召喚される日を待っているのです。貴方に喚ばれたときは少し状況が違いましたけどね。私はここで毎日人間達を眺めています」
靄に包まれた球体に近づこうとする私を、悪魔は制する。その瞳には憂いが浮かんでおり、私は慌ててのけぞる。
「触らないほうがいい。脳の奥深くまで悪意に呑み込まれる事になりますから……呑み込まれたいなら別ですが」
「どういうことなんだ?」
「これは、世界中に漂っている悪意を集めて見えるようにしたもの……善意は全く分かりません。だから、私の目に喜びは映らない。この球体から見えるのは怒りや悲しみ、憎しみだけ」
「……確かに、心苦しいものばかり見えるな。お前はこんな世界ばかりを見ていて悲しくないのか?」
「私にとっては養分ですから。人間にとっては毒なのでしょうが……人間を憎むにはこれぐらいがちょうどいい。悪意に狂った人間を、私は貶めて楽しむだけです」
悪魔はそう言って話を切ろうとする。まるで、これ以上この話題を深く話したくないとでもいうように。悪魔は私と別れる時でさえ自分に嘘をついている。
「お前は本当は人間を愛したいんじゃないのか」
「……私は人間を憎んでいる。だから虐げたい。奪いたい。縛りたい……悪意に溢れた私に、人間を愛したい気持ちなど存在しない。だから眺めて楽しむんです。何も手を貸さなければ、人間は簡単に道を踏み外しますから」
「だったら、私に記憶を返したりしないよ。思い出も、命も食らって私を殺せばいい。でも、君は出来なかった。だから、全部大事に守っていた……そうだろう?」
悪魔の瞳が見開かれ、すぐに長い睫毛が美しい緋色の瞳を覆い隠す。そして悪魔は黙って手の中から七色に光るプリズムを生み出し、私の手の上に乗せる。
その手は、小刻みに震えていた。私は悪魔の冷えた手をそっと包み込み、温めていく。
「ありがとう、返してくれて。嬉しいよ」
悪魔はこちらには目もくれずに、うつむいたまま重い口を開く。
「私は嘘をついていた。他の誰かに幸せを奪われるのが怖くて……貴方を手放すのが怖くて。だから契約を切れば殺す。もう貴方の命は奪っていて延命しているだけなどと嘘をついた。本当はあの契約のときに老化も、記憶も全部凍結して、貴方と契約を続けようとしていた……」
この世界で、たった一人で人間を眺め続けた。それと同じことを私はやってきたから、余計に悪魔の辛さが分かる。
私との契約が終わった今、もう続けることは叶わない。幾ら私に酷いことをしたとはいえ、孤独なのは悲しいだろう。でも、私にはもう時間があまり残されていない。
何か贈れるものがあるとすれば……そこで一つの考えを思いついた私は、悪魔の手に自分の手を添えたままで語り始める。
「悪魔、君には名前をあげたいんだ」
「私に……名前……? 私は貴方に酷いことを何度もした。それなのに、何かを贈りたいと……?」
「グラシュ・リアン。そう名乗れ。私が元々継ぐはずだった名前――私の親が、私につけた名前だった。でも、私はスィエルとして生きていく。だから、可能性の姿を選んだ君には……私の本当の名前を継いでほしい。嫌かな」
悪魔との契約が終わった今、私は全ての記憶を取り戻すことができた。そこに自分の名前の記憶も含まれていたのだ。
でも、私はスィエル・キースの名を変えるつもりはない。だから、名前のない悪魔に私の名前をあげようと思ったのである。
押し付けのように感じてしまうかもしれないな、と思っていたが、私の心配は杞憂だった。悪魔は首を横に振ったのだ。
「そんなことはありません……私は、ずっと孤独だった。誰かに呼ばれることなんて一度もなくて、生みの親すら分からない……でも、貴方が私をそう呼んでくれたなら、私はその名を頂きます。ありがとう、スィエル」
その時、ひときわ強い風が悪魔を包み込む。それと同時に、悪魔の体が霞み始めた。
「ああ、もう次の人間が決まったようですね……本当に人間は欲深い。残念ですが、貴方とはお別れです」
「さようなら、グラシュ。もう一人の私……君の見送りとして、城に戻ったら一曲弾かせて貰うよ……いつも夜に弾いていた、名も無きあの曲を」
「それは楽しみですね……貴方はどうか、これからも幸せに」
悪魔が私の前から姿を消し、私だけが空白の世界に残される。もうじき、この夢幻も消えていくのだろう。
「ありがとう、楽しかったよ」
いつの間にか頭上に広がっていた雲一つなく澄み渡る青空に、私のつぶやきは吸い込まれていった。




