#62 悪魔の慟哭
磔にされたレムナント達の顔は青ざめ、気分が悪そうだ。私は助けるために彼らの元へと走り寄ろうとした。しかし、悪魔がそれを許さない。重い鎖で私の足を縛りあげ、つまづかせる。
勢いがついていたため、私の体は派手に宙を舞った。そのまま倒れこみ、額を強く床に打ち付ける。
「ッ……! 今すぐレムナントたちを離せ。そうしなければ……」
「そうしなければ、なんです? 私から大事なものを奪ったんですから、当然のことでしょう? 私の心に空いた穴を満たすために、彼らには犠牲になってもらわなければ」
嗜虐的な笑みを浮かべた悪魔は、鎖を引き戻して私を柱に叩きつける。痺れるような強烈な痛みが私の全身を駆け抜け、感覚を麻痺させる。
砂煙が立ち込める中、私がどうにか立ち上がろうともがく。その間にも、悪魔の暴走は止まらない。いばら達を狂わせ、磔にしている子供達の血を吸っていく。ぐしゃりと酷い音が響き、レムナント達の顔が苦痛に歪む。
レムナント達を散々虐めたのちに、悪魔の瞳はアルトとディニタスの方へと向く。私が受けた攻撃と同じように、二人は鎖で締め上げられたあとに床に叩きつけられた。
圧倒的な力に対してどうすることもできない私達を、悪魔は満足そうに眺める。
「あは……あはははははっ……私に力がどんどん注がれていく……ああ、滑稽ですね。暴力に対して何の力も持たず、ただ床に転がることしか出来ないなんて。私の愛を受ければ、傷つかずに済むというのに」
「悪魔……」
「私の元へ来れば、貴方に何もかもを与えられる。三千年間続けてきた日々を、もう一度繰り返せる……膨大な犠牲と引き換えに、貴方はいつまでも幸福でいられる。貴方は私の力を欲するだけ。それだけでいい」
歪みに歪んだ悪魔の心。承認に溺れ、孤独に酔った悪魔は、私が見ても哀れに感じた。人間に作られ、人間に育てられたという点は一緒なのに。顔も、生い立ちもそっくりなのに――。
何もかもが、違う。
私はあの悪魔を止めなければならない。あの悪魔は私が呼んだ災害だ。ふらつきながらも両手をついてなんとか立ち上がり、足で床を強く踏みしめる。
私の異変に気づいたアルトとディニタスの二人が、無謀な戦いに挑もうとする私を止めようと、瀕死の状態から立ち上がる。両者ともに私との戦闘で疲労しているはずなのに。それでも、彼らは私の身を案じている。
「お前さん……行くんじゃない。また、あの悪魔に惑わされるぞ」
「スィエル……やめるんだ。あの化け物に言葉は通じない……」
だが、私はその声を聞き入れずに悪魔のもとへと足を進める。それを肯定ととったのか、悪魔は笑みを見せた。
「ああ……スィエル。ようやく私の元へ戻ってくる決心がついたんですね……そう、貴方は何も考えなくていい。安寧に身を任せ、楽園に足を踏み入れて……ふふっ……あははっ……」
憎悪に塗れた手が、ゆっくりと伸ばされる。欲しい。奪いたい。そんな雑音をまといながら、徐々にその闇は私の肩へと伸びてくる。だが、私は悪魔の手を強く払った。
驚愕の表情を浮かべる悪魔に対して、私は左腰に吊るしてある漆黒の鞘から細剣を引き抜き、悪魔の目の高さに剣先を合わせてから高らかに宣言した。
「悪魔、私はお前のものになる気はない。諦めきれないのなら、私と戦え!!」
「戦う? ふふっ……おかしなことをいいますね。戦っても何にもならない。私のこの空虚な心は満たされない」
「戦って、その心が満たされるとでも思っているのか? 私を手に入れて、好きにいたぶって……違う。お前の喉は乾いたままだ。何も得られずに、狂ったままだ」
「ああ……あははははは……あっはははははは……ええ、そうです。私は何も得られない。だから、奪う。奪って奪って、つかの間の幸せに浸かるだけの哀れで無能な悪魔……それが私という存在ですから」
悪魔は床を蹴り、空へと舞い上がる。見下ろす形にはなったものの、その目は蔑むというよりも悲しみに満ちていた。夜空に浮かぶ月の光を受けながら、悪魔は話を続ける。
「奪わないと生きていけない。奪っても、奪っても足りない。何かで埋めても、この醜い体はすぐに使いつぶしてしまう。だから、何も得られない」
風が、虚しく両者の間を駆け抜けていく。悪魔の瞳はぼんやりと宙を見つめ、焦点が定まっていないようだった。
「何もかもが、私の手からこぼれ落ちていく。私を恨み、憎み、裏切った人間たちは、私を蔑み、切り捨て、殺していく――そんなことを何度も繰り返して、ようやく貴方を手にしたと思っていたのに……貴方も同じだったんですね」
「……」
「でも、構いません。私を裏切るなら、私を愛せないなら、私を――認めてくれないのなら……」
悪魔の手から紫色の閃光が放たれ、私以外の人間やレムナント達を包み込んでいく。見たところ新たに外傷を加えた様子はない。例えるならば、眠っているような感じだ。
「兄さん……ぐっ……ううん……」
「何をしたんだ。答えろ!!」
「一種の催眠術ですよ。時間が経ち過ぎたら全身の温度が低下し、死にますがね」
「死ぬだと……彼らに罪はないと言ったはずだ」
「私から全てを奪ったことが罪なんですよ。さぁ、スィエル。これで邪魔者はいなくなりました……貴方は丁重に殺してあげましょう」
悪魔が指を鳴らすと、血にまみれたいつも見てきた幻想の景色が広がっていく。泥に私の足がズブズブと入り、身動きがうまく取れない。私が命を奪った者たちの嘆きや叫びが、私の耳を突き刺す。
――悪魔に逆らうな。
――お前は悪魔の下で罪を背負い続けろ。
――狂え、奪え、そして殺せ。感情を無にして目的を果たせ。
呪いのように繰り返し吐かれるそれらの言葉を、私は黙って受け止める。私の目の前に立つ敵。それを倒すことのみに集中するために。
「不思議ですね……あんなに失いたくないと思っていたのに、諦めてからはどうでも良くなりました。貴方を失ってしまっても、私は悲しむことはもう無いでしょう」
「……そうか」
一切の感情を押し殺した私の答えに、悪魔はうつむく。そして、私の背丈ほどもある鞘に収められた長剣を生成し、静かに引き抜く。
美麗な彫刻が施されてはいるが、その剣が放つオーラは、禍々しいものだ。悪魔は長剣の赤銅色の柄を握り、一閃する。
剣によって裂かれた風が竜巻となって大広間を蹂躙し、窓やカーテンなどのことごとくを裂いていく。
「貴方と話すのは楽しかった。願うなら幸せをずっと続けていたかった。貴方を失いたくなかった」
「……」
「私の名前は、理想郷。でも、貴方にとっては私が見せた夢は、現実よりおぞましいものだったのでしょう。だから、貴方がこれ以上夢で苦しまないように……殺してあげます」
微笑んだ悪魔の頬から、一筋の血色の涙がつうと伝う。その涙が床に落ち、弾けたその瞬間――両者の激闘が始まった。




