#61 真の戦い
戦いで体力を限界まですり減らした私たちの前で、悪魔は静かに歩を進める。目からは感情というものがごっそりと抜け落ちているような感じだった。
「人間なんてどうなろうと構いません。私を作り、私を殺した人間なんて……いくらでも犠牲になればいい。皆殺しにしたって別に悲しむこともない。私が傷ついても……誰も、守ってくれやしない」
呪いのようにそんな言葉を繰り返しながら、悪魔は前屈みの姿勢でぎこちなく歩き続ける。
その隙に立ち上がろうとする私をディニタスとアルトの二人が制する。その意図を悟った私は治癒術式を詠唱し、虹色に輝く光を傷口に当てた。「時間稼ぎをしておくから、お前は状態を整えておけ」ということだ。
「可哀想に。完全に狂っているね。私は医者で、君の主も診たが……君は治療できないほど壊れている。心に穴が空き放題で、何かを愛することすらままならないようだ」
「可哀想? 愛することすらできない? まさか、人間に憐れみを抱かれるとは……私は負の感情の塊。正常でいられるはずがないでしょう? 歪み、苦しみ、そうやって生まれたのが私なのだから」
「ほう……それはなかなか興味深い。悪魔の誕生というものは私もよく知らないからね」
ディニタスは小さく息をついて、アルトの方を見やる。アルトも何か言いたいことがあったようで、前へと進み出る。
「負の感情……だからスィエルにずっと取り憑いていたんだな。寄生し、養分を吸って生きていたってことか……害獣のような、なんの役にも立たない奴だ」
その瞬間、空気が凍りつく。悪魔は笑みを絶やさないが、その裏におぞましいほどの狂気を含んでいるのが分かる。だが、アルトは引かなかった。
「貴様……今、何と言った?」
「寄生し、生きる害獣だと言ったんだ。お前は悪以外の何でもない」
「あはっ……あははははっ……害獣? 憎悪も怒りも悲しみも貴様らは持っていないと? 完璧な神にでもなったつもりでしょうか……これだから人間は嫌いなんですよ。悪の部分が全くない人間などいるものか」
そこで何か考えが浮かんだのか、悪魔が目をすっと細める。ニタニタとした笑いが再び口端に刻まれ、悪魔は蔑むように鼻を鳴らした。
「ああ、もしかして……自覚がないと? なら、悪意に満ちた世界を味わえば、理解できるでしょうか……」
悪魔がさっと手を掲げると、闇が渦を巻いて私やアルト達の足下から伸び上がる。高等術式を詠唱して抵抗しようとするが、間に合わない。みるみるうちに全身が呑まれていく。
「ぐうっ……悪魔、やめろ……!!」
「あははっ……私にだけ条件をのめというのは不公平ですよ。そんなに人間を守りたいならば、貴方が犠牲になればいいだけのこと。さぁ、スィエル……私に従いなさい。私の元へ戻るなら、貴方にはたくさん幸せを差し上げましょう」
だが、私は首を横に振る。どうせ与えられるのは偽りばかりだ。人を騙し、悪意に溺れた悪魔の言葉にはもう乗らない。強烈な力に抗いながら、私は決意を口にする。
「お前には従わない。私は、貴様と戦う!!」
「今まで散々私を頼って、最後がそれですか……いいでしょう、私の愛がわからないなら力づくでも奪わせてもらいます。……誰も、私のことは愛してくれないから。蔑み、憎み、許してくれないから」
嘆きのような悪魔の言葉が、大広間の天井へと吸い込まれていく。胸で輝くペンダントのようなものを外し、鎖の部分を持って左手に乗せる。
「貴方が私に従ってくれれば、こんな手荒な真似をせずに済んだのに。でも、貴方を手に入れるためなら私は幾らでも狂えます」
悪魔はニコリと微笑み、右手の指を鳴らす。すると、ペンダントにつけられていた宝石がまばゆい光を放ち、強い振動が私たちを襲った。
音がする方を見ると、天井の部分が砕けて浮き上がり、空に輝く星たちが露わになる。冷たい風が吹き込み、壁につけられたワインレッドのカーテンが激しく揺れる。
「なっ……天井がバラバラに……!?」
「この城は私の魔力で作られている。だから、形を変えることなんて簡単なこと。私の楽園に入った獣を駆除するんですから、これぐらいはしなければ。狭いと戦いにくいでしょう?」
悪魔は楽しそうに、しかし悲しそうに顔を歪めてペンダントを砕く。宝石の中から溢れた、黒い泥のようなものを喉に流し込み、ゴクリと飲み干す。
「これも、全部貴方に愛されるため――私は壊れても構わない。孤独な私を愛してくれたのは……貴方だけ。憎しみに溺れても、何もかも受け入れてくれたのに」
悪魔の体が泥に呑まれていく。どぷん、どぷんと気味の悪い音を立てながら、泥は悪魔の全身を縦横無尽に這い回る。
「私は怒り、狂い、嘆き――負の感情しか喰らえない悪魔。そんな私でも、貴方は大事に思ってくれた。だから……私から何もかもを奪った人間は殺す。そして、彼以外の全てを奪う」
泥から開放された悪魔は、虚ろな瞳で立ち尽くす人間をぼんやりと見つめる。悪魔もまた、何かに囚われているのだろうか。
――孤独な私を愛してくれたのは、貴方だけだったのに。
その言葉に、胸がチクリと痛む。でも、容赦をするわけにはいかない。あの悪魔を倒し、私は裁きを受ける必要があるのだから。私は悪魔の方を真っ直ぐに見つめ、拳を強く握る。
「……悪魔。もう私達は負けたんだ。無駄な抵抗はするんじゃない」
「私達? そこに私が含まれている……と? おかしなことを言ってくれますね……私は諦めていませんよ。私はまだ何も手を下していない。そう簡単に無様に這いつくばってたまるものか」
悪魔の体がぐにゃりと曲がったかと思うと、一瞬にして姿が消える。辺りを見回してもどこにもいない。ただ、ぬるく湿った風が通り抜けるだけだ。
「き、消えただと……? どこにいったんだ?」
魔力もいつもならば感じられるはずなのに、今では全く感じられない。姿が消えていたとしても術式は当たるはずなので、高等術式を詠唱しようと構えた私の耳の鼓膜を――絶叫が刺した。
「私は、貴方を信じている。愚かだと分かっていても、思うことはやめられない。貴方が……私を頼ってくれた日々が忘れられない。だから……あはっ……あははははは……」
振り返った私が見たもの。それは、壊れた機械のように繰り返し笑い続ける悪魔だった。その奥には、蠢く黒いいばらに串刺しにされた少年たちの姿。
「兄……さん……」
悪魔によって磔にされたレムナント達が、全身から鮮血を流していた。




