#60 呪縛を解け
ゆっくりと瞼を開けると、そこには綺麗な花畑が広がっていた。一瞬、自分はもう命を落としてしまったのかと思い、左胸に手を当てるが、鼓動は続いている。どうやら死んだわけではないようだ。
耳をすますと、何やら歓声が聞こえてきた。その主をたどるために私は一歩一歩足を動かす。花たちの爽やかな良い香りに包まれながら、私は丘を降りる。するとだんだんと人影が見えてきた。
「ん……? あれは……」
疑念が確証に変わり、足を運ぶスピードが早くなる。見覚えのある顔達が、私を迎える。
「スィエルさん! 良かった……無事なようで何よりです」
「村長がなぜこんな花畑の中に? フィラレスはどこに行ってしまったんだ?」
だが、村長は私の質問に答えずに皺の多い顔をくしゃくしゃにして笑みを浮かべるだけだ。駆け寄ってくるリュヌの小さな体を抱きしめ、他の人達とも軽く抱擁を交わす。
それにしても不思議な場所だ。はるか昔に図鑑でこのような景色を見たような記憶があるが、実際に目にしたことは一度もないはずだ。私は初老の紳士にもう一度尋ねる。
「なぁ、ここはどこなんだ? 私は今、どこにいる?」
「ここはどこか、ですか。ここは……貴方が変えてくれた場所ですよ。草木のないこの荒野を、貴方が夢で埋めてくれたんです。今はまだ、幻想の中ではありますが……」
「なら、ここがフィラレスなのか……」
「ええ。そういうことです。スィエルさん、私達は一生懸命生きていきます。だから、貴方も負けないで。悔しいこと、辛いこと、たくさんあったでしょう。私達も、苦労は嫌というほどしてきましたからよく分かります」
でも、と彼は続ける。
「それらを貴方は乗り越えてきた。這ってでも立ち上がり、私達に希望を見せてくれた。だから、これは恩返しです。あなたが闇に埋もれてしまったことを聞きつけてみんなが集まってくれたんですよ」
「私が……希望を……」
自分は一体何をしていたのだろう。こんなに多くの人に支えられ、愛をもらっていたというのに……自分は何も気付けていなかった。
優しさに触れ、氷のように冷えていた体がじんわりと温かくなる。悪魔の手によってかけられた束縛がほどけ、自由が戻ってくる。
それとともに、急速に体から力が抜けていく。悪魔によって供給されていた魔力が途絶えつつあるのだ。全身から靄のようなものが飛び出しては消えていく。意識もだんだんと朦朧としてきた。
やがて、目の前がぐにゃりと歪み、次の瞬間には高い天井が視界全体に広がった。シャンデリアもついており、天界か地獄にしては随分現実的な場所だ。
「うっ……」
それにしても全身が重い。縄か何かで地面に縛り付けられているかのようだ。傷がずきずきと疼き、体を動かすたびに悲鳴が上がる。起き上がろうと思って腕を動かそうとしても、力が入らずにダラリと垂れ下がってしまう。
なんとか動く首だけを上に向けると、大粒の涙をこぼすヴェリテと目があった。
「兄さん!! 良かった……良かったよ……」
「ここは……城の中? なんで……この格好は何なんだ?」
なじみのある軍服ではないことに、私はようやく気づいた。重量感のある黒いマントを羽織っており、近くには宝石がはめ込まれている冠が転がっている。深紅の宝石には亀裂が細かく入っており、今にも砕けそうだ。
剣もいつも使っている細剣とは違い、いばらのような彫刻が施された禍々しい形の長剣だった。私は筋力がそこまでないので、いくら普通と違った動きをしたといっても長剣を使おうとは思わないはずだ。ならば、なぜ?
着替えた記憶はないので、自分が意識を失っていた間に何らかの動きがあったということだろうか。
戸惑う私の元に、ディニタスが駆け寄ってくる。まとった白衣はズタズタに切り裂かれ、ボロ切れのようにも見える。その顔には色濃く疲弊の色が浮かんでいた。
「どうやら意識を失っていたようだね……暴走していたこと、覚えていないかい?」
「……私が、暴走? まさか……」
「その様子だと全く覚えてなさそうだね。まったく、幸運なことだ。憎いぐらいだよ」
どうにかして上体を起こし、あたりを見回すと私が起こしたと思われる数々の惨状が目に飛び込んできた。血肉が散乱し、窓ガラスは粉々に破壊されている。
仲間たちが作ってくれたオブジェや風景画も壊れ、ぐちゃぐちゃになってしまっている。
「なんてことだ……私は……私はこの手でまた……!」
混乱する私の肩を、アルトが優しく叩く。
「落ち着け、壊したものは直せばいいだろう。それは後からでもできる。それよりも……奴が問題だ」
「問題? これ以上に何が問題だって言うんだ……?」
ぼうっとする私の目の前に、靄のようなものが渦を巻き、より集まる。不協和音のような耳障りな音を響かせながら大きくなり、やがて人の形を取って――。
「ふふっ……あはっ……あはははは……まさか、この私が人間ごときに負けるなど……私としたことが油断していましたよ」
青白い肌に、尖った耳。ゆらめく触手と、背中から伸びる二つの羽根。人間のような体をしていながら、まったく別の何か。
「でも、次は逃しません。同じ失敗を何度も繰り返すほど、私も愚かではありませんから……人間という、無様に狂い続ける獣とは違ってね」
紅玉のような瞳を妖しく輝かせた悪魔が、唇を大きく歪めてニタリと笑った。




