#59 思いを届けに
悪魔によって強制的に力が加えられている。握りたくもない剣を握らされ、意思とは違って体が勝手に前へと進んでいく。
砕けたガラスを踏みながら、混濁した思考のまま距離を詰めていく。頭が割れるように痛い。吐き気もする。それでも、この戦いは終わらない。
私が悪魔に完全に呑まれるか、それとも先にこの敵達が全滅するその時までは。
「……さぁ、とどめを刺してください。その剣を振るえばいいだけのこと……簡単でしょう?」
だが、私はかぶりを振る。
「出来ない。私にはそんなことは出来ない……」
「いつまで弱気になる気ですか? ここまで頑なに自分の欲望に逆らおうとするなんて……どうして人間は苦労をしたがるのでしょう? 快楽を貪って、怠惰に暮せばいい。それだけなのに……」
「これ以上、失いたくない。もう、こんな戦いはやめたいんだ……」
「今まで幾つもの贄を犠牲にしておいてよく言いますね……そんな冗談を吐くぐらいなら、私が始末しましょう」
剣にまとわりついた闇が鞭の形に変わり、瀕死状態の敵たちを容赦なく叩き潰していく。床にヒビが入り、絨毯が割ける音が響く。
私の目の前で行われる惨劇。飛び散る血の臭いが私の鼻を刺し、胸を抉る。泣いても何も変わらないのに、頬を伝う雫は止めようがない。
脳内にこだます哄笑が、愚か者の私をあざ笑う。これ以上は見ていられない。闇の圧力に耐えられずに膝をついた私は、届かないと知りながらも必死に手を伸ばす。
「やめろ……それ以上はやめてくれ……!」
「あは……あははははっ……邪魔者は消せといったでしょう? 逆らうから私がしてあげているんですよ? 貴方の幸せのため……これは全部貴方のため」
「もういい……幸せなんていらない……あの子達に罪はない!! 頼む。私を犠牲にして……見逃してやってくれ。私はどうなろうとも構わないから……」
「罪はない? 私から大事な人を奪ったという大きな罪がありますよ……ふふっ。欲望に忠実になれば、貴方は何も考えなくていい。愚かに溺れ、全て壊してしまえ」
「ぐうっ……!」
激しい痛みが、私を襲う。悪魔に縛られたまま、私は殺し続けるのか。私は同じ過ちを繰り返していいのか。違う。ゆっくりと立ち上がろうとする自分の体を、どうにかして抑え込む。
「愚かな……感情や記憶は全て奪ったはずなのに。それでも抵抗しようとするなんて……」
忌々しそうに悪魔が呟く。だが、記憶を消されようが、感情を奪われようが、殺したくないという思いは変わらない。
悪魔に傷つけられた少年たちを、青髪の青年と紫髪の白衣の青年が治癒術で治そうとしているのが目に入ってくる。少年たちの目は閉じられていて、動く気配がない。意識を失っているようだ。
ずきりと鋭く痛む胸を抑えながら、私は治癒術で援護しようとする。だが、思ったように口が動かない。その代わりに唱えられるのは、高等凍術だ。
「……アインザム・ローゼン」
凍てついた薔薇の花弁が、一斉に少年たちの元へと殺到する。それに気づいた貴族服をまとった緑髪の男が術式で止めに入るが、急に生成したものであるために防御が薄く、今にも壊れそうだ。
「くそっ……耐えられない……!」
歯噛みする男の後ろで、傷だらけの少年が立ち上がる。額からはだらだらと大量の血を流しており、目の光も燃え尽きる直前の火のようになっている。
そんなボロボロの状態でも、彼は頭を振って気を取り直し、ズボンのポケットから小ぶりの鎖がついた宝石を取り出した。
「兄さん……ごめんね……何も力になれなくて。これ、皆の思いを詰めて作ったんだ。兄さんはもう、何も覚えてないかもしれないけれど……どうしても、兄さんを救いたかった」
「……そんなもの、要らない。私は力に飢えているのだから。助けなんて……要らない。私が求めているのは血と悲鳴だけ。それ以外には何も……」
掠れた声で、私は否定をする。しかし、少年は苦笑いをして話を続ける。
「兄さんが、この宝石を残して僕たちに異常を知らせてくれた……だから僕たちは人間達と協力してここまで来たんだ。嘘をついているって、僕はわかっているよ。……兄さんらしくないよ、そんなの」
「うるさい……私らしくない? 貴様らには何も分からない……私の苦悩も、怒りも、悲しみも、何も分かりはしない!!」
「分かるよ。ずっと兄さんと暮らしてきたから……僕たちに弱いところは見せたくなかったみたいだけど、僕たちはちゃんと知ってる。いいところも、悪いところも全部……」
「私のことは、悪魔だけが理解している……記憶も、感情も、全部あの悪魔に奪われた。だから、もう私に構うな。もうこれ以上……傷つけたくない」
「傷つけられてもいいよ。兄さんが、元に戻ってくれるならいくらでも……僕たちは、兄さんに幸せになってほしいから。兄さんに恩返しがしたいから……」
「幸せ? 恩返し……? ふざけるな……ふざけるなああぁぁぁ!!」
悪魔によって高められた憎悪が爆発し、剣と一体になって流星のような勢いで敵陣に突っ込む。この距離ならば、確実に仕留められる。悪魔は今頃思い通りになったとほくそ笑んでいることだろう。
「スィエル! やめろ――!!」
「……黙れ!!」
絶叫を上げて、私はとどめを刺そうとした――その時だ。先ほどの少年が飛び出し、私の元へと向かってきた。その手には、あの宝石が握られている。
「今だ……受け取って、兄さん!!」
きらきらと光を放ちながら、少年の小さな手から宝石が離れる。その宝石は綺麗な放物線を描いてから私の胸に当たり――赤い宝石から放たれた虹色の光が、私の体をゆっくりと呑み込んだ。




