#57 覆される意志
固く閉ざされた分厚い扉。ここが三千年間誰も侵入を許さなかった城の入り口なのだ。
ヴェリテが扉を開くと、凍るような冷気が一斉に襲いかかってきた。
「げっ……兄さんやっぱり対策してたのか……」
暗闇でよく見えないが、目を凝らしてみるといばらのようなものがびっしりと蠢いている。こんな状態では普通に通るのは無理だろう。どうしたものかと頭を悩ませていると、サンドラがやれやれと首を振りながら前に進み出た。
「仕方がありませんね……ヴェリテ、そこを通してください。私が処理します。キース様にこの解除方法は教わっていますから」
「ありがとう、サンドラ。僕も多分教えてもらったと思うんだけど……忘れちゃったんだよねぇ」
「全く……蛇たち、場所をつくってください。多少毒素があるので人間の方は吸わないように。――サーペント・ウィールス・スピリトス」
白い蛇が青年の肩から飛び降りたと思うと、数匹に分裂し、紫色の霧を吐き出す。それに反応したいばら達が、嫌がるように身をよじる。その行為によってできた道を通り抜け、アルト達は最上階へと急ぐ。
途中では床がひび割れていたり、明かりが突然消えて足元が不安定になるなどの様々なトラップが仕掛けられていたが、どうにかスィエルが待つ最上階、最深部である「深紅の間」までたどり着く。
「ネージュ! イデア! フローラ! ごめんね……留守番させて」
「ううん、大丈夫。後ろにいるのは……人間?」
「そうそう。フローラは城から出たことがないもんね。初めて見るよね」
花かんむりをかぶった少女は、すぐにフードをかぶった子供の後ろに引っ込んでしまう。人見知りなのだろう。
「ああ、びっくりさせてすまない。俺の名前はアルト。そして、ナハトとレグルスだ」
二人が頭を下げると、おどおどとしながらもフローラはペコリとおじぎをした。そんな中でも、にらみつける痛い視線は――。
「ああ……こっちはイデアです。あんまり怒らせないほうが……」
「別に。スィエルがバカだから怒っているだけ。ヴァーゲ、貴方も自己紹介して。時間がないから早く」
そういうと、ぷいとそっぽを向いてフードの少女はそっぽを向いてしまった。なんだかんだ言ってスィエルの事を大事に思っているのだろう。
「すみません。この城までありがとうございます。マスターを助けるために……どうか、力をもらえれば。僕の名前はヴァーゲ。こちらのほうはフラムです」
「まさかこんなことになるとは思わなかったぜ……まぁ、癪ではあるが……一緒に戦おうな」
城に集まった全員で頷きあい、扉の取っ手につけられた重い鎖を協力して切断する。スィエルに異変が起きてからそう長くは経っていないはずだが、鎖を断ち切ってから感じられる魔力量がどんどん上昇している気がしたのだ。
扉を開くと一面にたちこめる黒いもやと、むせ返るような血の臭いが、一同を襲った。床にはガラス片が散乱しており、壁のカーテンはほとんどが引きちぎられていた。窓の向こうからは雷鳴が轟く音が聞こえてくる。
そして玉座には、この氷雪の城を治める城主が――。
「スィエル! どうしたんだ……その姿は」
雪のように輝いていた銀髪は、鈍い光を放つに留まり、肩よりも下の方まで垂れ下がっていた。冷たい中にも僅かながら希望を宿していた緋色の瞳は、今や完全にその光を失ってしまっている。
豪奢なマントを身にまとい、黒々とした枠の中に紅玉がはめ込まれている冠をかぶった王。手には白手袋ではなく革製のグローブがはめられ、首には悪魔につけられたらしい頑丈な首輪までしてある。
そして、人間にはないはずの二つの赤黒く尖った羽根が、悪魔に心を囚われてしまった何よりもの証だった。
変わり果てた男の姿に、アルト達はただその場に立ち尽くすしかない。
「スィエル……スィエル!!」
何度も強く呼びかけるが、反応がない。気を失ってしまっているのだろうか。一歩、二歩、と歩き、三歩目の足が深紅の絨毯を踏む寸前で――。
「があっ……!」
絨毯から氷の蔓が伸び上がり、アルトの足や腕を絡めとる。玉座に目を向けると、男がゆらりと立ち上がるのが目に入った。
「あはっ……あははははっ……スィエル? 誰だ、その名は」
「まさか名前まで忘れてしまったのか……? 何もかも悪魔に預けたのか!」
「幼少期からずっと虐げられ続けてきた私に、名前などない。もしあったとしても、私は悪魔に全てを捧げているだろう……あの悪魔は、私を大事にしてくれるから……ね」
冷たい瞳の奥深くに眠っている、本心。それを引きずり出さねば、彼は悪魔に囚われたままだろう。胴に刺さった氷の棘をなんとか引き抜き、アルトは立ち上がる。
「愛も、承認ももう要らないというのか? 悪魔に頼りきって、溺れて、自分のことすら忘れてしまっていいのか!?」
「愛? 承認? そんなもの、悪魔がいくらでも与えてくれる……もう私は満たされているんだ。私に足りていないのは力だけだよ……私を酔わせてくれるような暴力的な力だけさ」
スィエルが手を横に振ると、鞘から漆黒の細剣が勝手に引き抜かれ、闇をまとっていく。魔力が膨れ上がり、恐ろしいほどの圧を感じる。
どぷん、どぷんと不快な音が絨毯から発せられていると気づくのに、数秒の時間を要した。
「血が……でも……なぜ。お前さんは、一体どこから魔力を吸収している?」
「私は生き続けるために、三千年間命を吸い続けてきた。……その残りだよ。悪魔に捧げてきた代償を今、私の体に注いでもらっているんだ」
そう言っている間にも、次々に血色の光はスィエルの体へと吸い込まれていく。リソースの供給を止めなければならないことはわかっているが、どうすればいいのか。
「悪魔に従っていれば私は幸せなんだ……だから君たちに助けられる必要もない。救いなんて要らない」
恍惚とした表情のまま剣の変貌を眺める男。羽根を使って宙に舞い上がり、闇の球体の中に躊躇せずにずぶずぶと手を入れる。
闇たちはそれに反応し、ノイズのような音を響かせながら、スィエルの腕にまとわりついていく。それを嫌がることもせずに、されるがままに彼は身を委ねている。
「ああ……私の中に力が送り込まれてくる……邪魔者は叩き潰せ……か。そうだね……それがいい」
「スィエル! 正気に戻れ!! その力に取り込まれてしまったら……悪魔の言いなりになるぞ!!」
「あはははっ……手遅れだよ」
闇の球体から剣を引き抜くと、それが栓であったかのように一気にその穴から血のようなものが噴き出した。
「スィエル!!」
「……」
血の濁流は踊るようにスィエルに襲いかかる。だが、彼は防ごうとも避けようともしない。ただ立っているだけだ。
ゴアアァッ! という音とともに、スィエルの体が得体の知れない何かに呑み込まれていく。術式を展開しようと、アルトは高等術式の詠唱を始めたが、それより先に彼が動いた。
「ッ……!!」
アルトの右頬に電流を流されたような痺れる痛みが走る。見ると、すぐそばの大理石の床が真っ赤に溶けていた。強力なリソース弾を彼が放ったのだ。何という速さだろうか。
全身に返り血を浴びたスィエルは、唇を歪める。圧倒的な力を手に入れたその男の笑みは――まさしく、悪魔そのものだった。




