#55 忘却の彼方
私はあの悪魔に何もかも奪われたのだ。どうすることもできない。植え付けられた殺意はむくむくと成長し、今では自制をするのがやっとだ。
きっと助けを呼んだ人間たちがこの間に来る頃には、私は血も涙もない殺戮者として戦うことになるのだろう。
しばらく放心状態で、玉座に腰掛けていた私は暖をとろうと離れた場所にある暖炉へと向かう。そこのゆり椅子に座って考え事をするのが私のいつもの癖だった。
「……」
何か思い出そうと思っても、記憶もほとんど悪魔に食われてしまったらしい。靄のような曖昧な記憶が私の頭の中を回る。寂しい。苦しい。もう、こんな生活にも疲れてしまった。
炎を見ると、いつもあの日の事を思い出す。私が人を殺して回り、街一体を焼き尽くし、延々と燃え盛る炎を見たあの日の事を。
私は椅子に深く腰掛けようと立ち上がり、もう一度座る。その時だ。腰の辺りにコツン、と何かが当たった。
「……なんだ?」
よく見るとそれは宝石のようだった。悪魔にいつもやっている赤い宝石とは違って、虹色の輝きを放っている。その透明感には見覚えがあった。
「記憶の結晶……悪魔がいつも私から記憶を抜き取っては、嬉しそうにしていたな……」
だが、あの悪魔が私がいつもいる場所に置き忘れるなど。そんな失敗をするだろうか。そう思い、じっと宝石を眺め続ける。
今の私には、何も残されていない。それはとてつもない恐怖だった。もしかしたらこの中身は辛い記憶かもしれない。
しかし、何かにすがりたいという思いが私の迷いを払った。私は目を閉じて、結晶を開くイメージを頭の中に描き出す。幸いにも、記憶は私を受け入れてくれたようだ。七色の光が私を包み込み、記憶の中へと飛ばされていく。
目を開くと、そこにはかつての監獄の姿があった。
視界を遮る古びた鉄格子。昨日から補給されていない食べ物と水。繋がれた鎖。ヒビが入った壊れかけの壁。他には何も無い。
自由がなかった少年時代を過ごした場所。何度も何度も苦しみを味わい、私に復讐の炎を灯させた場所。
「孤児院……か。失敗したな」
何でもいいとは言ったが、やはり楽しかった記憶の方が良かった。これが何日目の記憶なのかは知らないが、楽しかったことなどほとんどないのだから。
ここは私の部屋であるはずだ。置かれた本も、油が入った皿も見覚えがある。過去の自分と入れ替わりで、私はここに入っているという設定なのだろうか。
何もやることがないので、私はしばらくぼんやりとしていた。いつもならば監視する人間がやってきて、私に無理難題を押し付けてくるはずだ。出来ないと打たれ、腕を焼かれたり、鞭で叩かれたりするのが普通だった。
孤児院の時の記憶は同じプリズムの中に閉じ込められていたようで、はっきりと思い出せる。
それにしても、いつまでたっても人がやってこない。今日は安息日なのだろう。そういえば一日だけ、何もされない日があったような気もする。
かといって檻から出てもまた捕まるだけだ。プリズムに閉じ込められた夢が潰えるまで、ここで待つしかないのだろう。私は暇つぶしになるものを求めて、小さな机へと向かう。そしてその上に無造作に置かれた、本の中から一つを選び取る。
「こんな事……やったかな……」
記憶にない術式が、びっしりと紙に刻み込まれている。過去の私は、記憶以上に頑張っていたらしい。成績が悪い順に殺されていたので、当然といえば当然だろうが。ページを最後までめくると、暇つぶしできるものが何もなくなってしまった。
周りを見渡して何かないかを探してみるが、赤目であった私に何かが与えられるわけもない。そして、待っているうちにだんだんと体も小さくなってしまったようだ。
少年のような手のひらを見つめ、私は戸惑う。もしかすると悪魔が、この光景を眺めているのかもしれないのだ。そう思うと、背筋に寒気が走った。
ぴちゃぴちゃと、水たまりを踏む音が聞こえてくる。誰かがこちらに向かってきているのだ。私は必死で耳を押さえる。聞きたくない。
自分を責め、やけどの痕が残る腕を噛む。ぴちゃん、ぴちゃん。震える私に構わずに、足音はゆっくりと迫ってくる。
「こんなところに、子供がいるなんて……君どうしたの? なんでこんな所にいるの? 檻にこもっても楽しくないよ」
こもりたくない。叶うなら、一刻も早くここから出たい。僕は震えながら、声の主を見る。子供の声だったから。悪意はなさそうに見えたから。だから、嫌いな赤目を見せる。
「君、赤目なんだね。名前はなんていうの?」
僕の名前。僕の……名前?
どうして思い出すことができないのだろう。喉につっかえたような、そんな感覚だ。体だけではなく、記憶も一人称もあの頃に戻ってしまったようだ。
思い出そうとすると、頭がズキズキと痛む。名前も、もう覚えていない。
「どうしたの? 大丈夫?」
「思い出せない……思い出せないんだ。あったような気がするのに……どうしてか、君に考えてもらった気がするのに」
泣きたくなるほど懐かしい記憶。
この少年は知っている。知っているのに……なぜ、知っているのか。
「じゃあ、君の名前を考えてきてあげる。僕にはそんな覚えがないけど……君がそういうんだったらそうなのかもしれないね」
「あっ! 待って!」
自分の名前はあんなに口からこぼれなかったのに、呼びかけの声はすぐに発することができた。しかし、紫髪の少年は振り返ろうとはせずに私の前から駆け出してしまった。
呆然とする私に、悪魔の手がゆっくりと伸びてくる。気がつけば、元の城へと戻っていたのだ。
「夢は堪能できましたか? 我が主?」
「悪魔、まさか……私の名前まで……」
「ええ、全部奪わせて頂きました。私の言うことを聞きたくなかったようなので……この結晶を触ったのでしょう? 予想通りでしたね」
「やはり、罠だったのか……」
悪魔は薄く微笑み、私の額に手をかざす。強力な力によって、何かが強制的に捻じ曲げられているようだ。
「主と呼べば貴方が思い出すこともありませんし。サァ、そんな貴方に束縛をあげましょう」




