#54 囚われの王
口から滴り落ちる赤い血液が、真っ赤な絨毯を鮮やかに染めていく。飲みきれないほどの毒を、私は飲み続けていた。こうなったのも、全て傍らで微笑む悪魔のせいだ。
やめたいのに、やめられない。渇いた喉を潤そうと思って盃に手を伸ばしたが、それが間違いだった。
「血が欲しい。まだ足りない……もっと欲しい」
「貴方が求めるものならば、全て与えましょう。さあ、存分にこの血を飲んで……」
何度そんな過ちを繰り返しただろう。どれだけの血を飲んだだろう。自分がおかしくなっていくことは、よく分かっているのに。なのに止まらない。私の脳に悪魔が何かの細工をしたのだろうが、それすらも分からない。
「私と共に永遠の幸せを……ふふっ……」
悪魔に依存した私は、地獄の底へと堕ちていく。血肉を貪り、快楽に溺れ、数々の犠牲を食いつぶすだけ。欲望のままに、ただ奪い続ける。そこに意志など、あるはずがない。
「あはっ……あはははっ……」
悪魔を眺めても、狂ったように笑うだけだ。私が求めるものは何一つ与えられないというのに。なのに……悪魔を頼らなければ、私は気がおかしくなりそうだった。
「悪魔……ユート……ピア……」
枯れそうな声で私は悪魔を呼ぶ。悪魔はにっこりと笑って、私の首筋に鋭い牙を突き立てる。
「あぐっ……が……あっ……」
「ねぇ、スィエル? 私からの愛がもっと欲しいでしょう?」
欲しくないといえば、首を絞められる。欲しいといえば、いつまでも縛られる。私に選択権など残っていない。だから私は何も返事はせずに俯く。その反応を楽しむように、契約のときにつけられた契約の印――首元の噛み傷を悪魔はいたずらに叩く。
「ふふっ……素直になって? 貴方は誰にも負けないほど強い。だからもう、何も恐れなくていい。この城で永遠に欲望に溺れて……夢を味わい続けましょう」
悪魔がひらりと手を振ると、私の目の前に偽りの世界が広がっていく。悪魔が作り出した理想郷。手を伸ばしても届かないとわかっているのに。何も幸せなど得られやしないと知っているはずなのに。
ここが理想郷などではなく、地獄よりもおぞましい幻想の世界だということは誰よりも私が分かっているのに。
「あ……ああ……」
三千年前の故郷。その中に私は閉じ込められていた。誰もが私に笑いかけてくれる。普通に接してくれる。赤目だからといって、差別することもない。
そんな世界は、存在しないとわかっているのに。残酷な夢が私を苛む。人々の顔に張り付けられた作り物の笑顔が、私を苦しめる。
――こんなに平和な世界ならば、私が両親を殺す必要もなかったのに。
「ああ……あああああ――!!」
愛して。認めて。私を置いていかないで。だが、その望みは叶わない。私だけが三千年間もの長い間を、無駄に生きている。
友人も親も知人も――もうこの世には誰もいない。私だけが取り残されている。私だけが悪魔に囚われている。
「あはっ……アハハハッ……貴方だけは離しませんよ? スィエル?」
悪魔の呪詛をまとった手や腕が、私にまとわりつく。怖い。怖い、怖い、怖い――。恐怖に怯える私を、悪魔は優しく宥める。だが、その行為は私にとって救いになりえない。
「ああ……そんなに震えなくていいのに。私の言うとおりにしておけば怖いことなんてありませんよ? 全く、変な記憶が残っているのでしょうか……邪魔な記憶はこのプリズムの中に閉じ込めたはずなのに」
「あ……ああ……」
「ふふっ、ダメですよ。これは私のものだと何度言ったら分かるんです? えらくしていたら返してあげると言ったでしょう。そんなんじゃ、いつまでも返してあげませんよ?」
「レムナントは……どこへ行ったんだ」
「ああ、レムナント達は追い出しました。貴方用に血の補給だけは任せていますが……それ以外の雑務は私が行います。それも全部、貴方のため。貴方が余計なことに精神を疲弊させないように」
「……」
悪魔の言葉全てが、呪いのようだ。早く助けに来てほしい。もう、私ではどうすることもできない。
「スィエル……レムナントの事なんて、忘れましょう。私以外の記憶はいらない。両親に愛されて、何も考えずにこの孤城で暮せばいい」
悪魔の手が、私の体をゆっくりと擦る。支配欲にまみれた氷のように冷たい手が、私を恐怖の底へと突き落としていく。だが、不意にその愛撫は止まり――何かを感じたのか、悪魔は私から離れて奥へと向かった。
「……?」
緋色の双眸がスッと細められ、虚ろな瞳が僅かに動く。その先にあるのは、十枚のモニター。レムナント達が人間と話し込んでいる映像だった。
その瞬間、何かに気づいた悪魔の肩が激しく震えだす。カツ、カツと大きな音を立てて大理石の床を踏みしめる。
「ああ、憎い……憎い、憎い、憎い!!」
整った顔をくしゃりと歪ませ、銀色の髪が逆立たせる。瞳の奥に怒りと憎悪が渦巻くのがはっきりと見て取れる。私の胸ぐらを掴んだ悪魔は、何度も何度も強く私を揺さぶり、抑えきれない感情を私に思いっきり叩きつけてくる。
「貴様……貴様ァ……!! ああ、あんな餓鬼が私の邪魔をするなど……スィエル・キース……よくも人間に救いを求めようなどと思ったな?」
猛烈な力で首が締め上げられ、我慢できずに四肢が跳ねる。声が枯れ、酸素を得ようと過呼吸になる。細い手が虚しく中を仰ぎ、悪魔の手によってありえない方向へと曲げられていく。
「があっ……離せ!」
「はは……あはははは……こうなったら、貴方の願いを嫌というほど叶えてあげます。力に狂い、助けの手など全て払ってしまえ」
首から一気に、膨大な量の魔力が注ぎ込まれる。私はたまらずもがいて逃げようとするが、悪魔の鋭い牙と爪が許さない。ゆっくりと首筋を舐められ、私の思考をじわりじわりと奪っていく。
「あなたに与えるのは破滅、あなたは未来永劫狂気に囚われた人生を送るのです。そう、この私のために……」




