#52 記憶の欠片
「愛……理解……? お前が私のどこを理解しているというんだ」
「ふふっ……貴方の全部だと言ったでしょう……三千年で得た知識は相当のものなんですよ?」
「私の……全て……」
思わず呟いた私に、悪魔は静かに頷いて微笑を浮かべる。そっと私の顎を持ち上げて、目が合うように合わせる。
紅玉のように美しいその瞳を見つめるうちに、だんだんと自分の中で何かが溶けていくようだった。
「貴方は正しい。何も間違ってなんかいない。だから、その正義を貫き通すのです」
「私は間違っていない……」
うわごとのように私は言葉を繰り返す。正しい。正しい。私は――何も間違ってなんかいない。復讐に、迷いなど必要ない。
甘い、蠱惑的な音色が私の耳の奥をくすぐる。脳の奥深くまで、闇がじわり、じわりと広がる。
奪うことは正しい。そして、狂うこともまた手段の一つ。ならば、この身を捧げてでも。
――それが十人の子供達への贖罪になるのなら。
「悪魔……」
「ええ、全ては貴方の思うままに。理想通りに……」
悪魔の雪のように白い手が私の視界を遮る。赤黒い闇が見えるが、私はなぜか安心できた。
口にねばついた液体がゆっくりと流し込まれる。ざらりとした鉄の味。いつまでも喉に絡みつく感触。
――もっと味わいたい。
私は、悪魔が持つ杯に手を伸ばす。だが、手が届く寸前で悪魔は高く杯をあげ、私に触らせない。艶やかに微笑み、私を弄ぶ。杯に手の先が触れるが、飲むことは叶わない。
「あ……ああ……」
「力を抜いて、楽にして。逆らわなくていい。欲望のままに、愛を欲して」
私の中で、何かが壊れていく。それが何なのか、自分にとって必要なものだったのかも分からない。
「スィエル……貴方は最終兵器として育てられた……戦場で狂い、戦い続ける殺戮兵器。それが、貴方に課せられた使命。そのために何人もの人体を犠牲にし、最終的にスィエル・キースだけが残った」
やめてくれ。それ以上は話さないでくれ。その懇願を嘲笑うように、悪魔は続ける。
「まだ、フェーズは残っています。貴方から全てを奪い、最強の兵器として生まれ変わらせる過程が。私がそれをせずに、他の贄を殺したのは……貴方を愛したかったから。でも、貴方がそんなに人間を愛するなら……契約違反としての罰も受け入れますよね?」
電流を流されたかのような痛みが、全身に走る。あまりの痛さに、玉座に縛り付けられた四肢が跳ねる。
「あは……ああ……私はもっと貴方を愛したい。人間達には分からない……あはハハハ……ハハハハハ」
暴力的な闇が、私を包み込む。それに私は、従うしかない。壊れきった悪魔に魅了され、私は堕ちていく。離れられない。依存することをやめられない。
「悪魔……ああ……ぁ……」
「ああ、スィエル。そんな姿になっても私を求めてくれるんですね……やはり貴方は愛しい。人間の愛なんて要らない。貴方と永遠にこの城で……ははははは……」
縋りたい。認められたい。守られたい。人間は怖い。憎い。嫌い……壊れていく。私から、人間味というものが欠けていく。
殺せ、奪え、壊せ。
その命令が、私を縛り付ける。
「あはははは……思い出したでしょう? 孤児院で苦しかったこと。何度も悔しい思いをしたこと。無力だったために我慢するしかなかったこと……でも、貴方は変わった。力もある。あとは、覚悟を決めるだけ」
「悪魔……私に……」
「ええ。貴方のためならば、幾らでも捧げましょう。さぁ、存分に味わってください」
杯に注がれた毒を、私は一気に飲み干す。
全てを狂わす美酒だと分かっていても、私は貪欲に飲み続ける。空になれば注ぐ。そしてまた飲む。
「ああ……まだだ……まだ足りない」
「なら、貴方が三千年間奪い続けてきた血を出してあげます。飲み足りないのでしょう?」
悪魔が指を鳴らすと、どういう仕組みなのか絨毯から球状の血が、ぼこぼこと現れてくる。
「スィエル……もう、何も怖くありません。貴方は正しい。何も疑わなくていい。貴方が殺せば、赤目の民は救われる。どうせ新しい法に従う人なんていない……サァ、地獄を私に見せて。楽しませて――デストルクティオ・ケントゥルム」
私の知らない術式が、悪魔の口から紡がれる。たったの二単語なのに、その術式の効力は私を破壊するに足るものだった。
「がああああっ!!」
「あはっ……スィエル。貴方の記憶を奪わせてもらいます。人間の記憶なんて、くだらない。貴方の中には、私だけがあればいい……醜く、憎い人間など全部消えてしまえ」
私の体から、七色の光が散っていく。それらは一本のリボンへと変じ、悪魔の手の中のプリズムへと吸い込まれる。私がせっかく積み上げたものが、奪われてしまう……
赤目の人々との記憶も、段々と薄れてきた。三千年間の城の中で過ごした日々も、病室で手にした小さな幸せさえも、消えていく。
「嫌だ……やめてくれ……」
「ふふっ。貴方はこんな記憶がなくても生きていけるでしょう? 貴方はどうせ、依存しなければ生きていけないんですから……私の言うとおりに動いたほうが、賢明では?」
悪魔は、私の声を聞かない。それどころか、何やら術式も展開しているようだ。よく手元は見えないが、魔の世界ではこちらとは違った魔術があるのだろう。
プリズムを色々な角度からなめ回すように見た悪魔は、小さなため息をつく。
「あぁ……これは私の術が効きにくい訳ですね。こんなに善意に溢れた体験を、いつの間にしていたのやら……でも、問題ありません。貴方の記憶を奪ってしまえば、その瞳には私しか映らない」
「記憶を奪われてたまるか……があっ!!」
「動かないで。楽にして……言うことを聞かなかったら名前も奪いますよ? 自分が何者なのかも分からなくするつもりですか?」
「なんでそんな事が出来るんだ。私から何もかも奪って服従でもさせるつもりか」
「クククッ……服従? いいえ、私は貴方が愛しいだけです。貴方を独り占めして、ずっとずっと愛したいだけ。それを服従だなんて……」
首に刻まれた契約の噛み傷。そこから浮かび上がる不思議な紋章を、悪魔は宙に描いていく。
「……あぁ。期待しないでくださいね? 再執行は契約をもう一度思い出させ、威力を高めるだけですから。その反対、解除は私達の世界では異端中の異端。永遠に人間界を彷徨うはめになるので」
もう、何でもいい。私はこの悪魔との契約を切りたいだけなのに。悪魔からの束縛が強すぎて、身動きが取れない。
「さあ、契約を思いだして」
初めて人の命を奪ったこと。血をなめて、その味に酔いしれたこと。街を焼いて、両親の命を奪って、そして――。
「ああ……うわああぁぁぁぁ!!」
それ以上は見たくない。見たくないのに、多くの記憶が濁流のように押し寄せてくる。目を背けてはいけないのに。それは全て、私が犯した過ちなのに。
私は、それ以上の事を知りたくない。逃げて、永遠に思い出したくないと思ってしまう。その弱みを悪魔は逃がさない。
「もう、こんな記憶……忘れたいでしょう?」
「嫌だ……忘れたい。もう思い出したくない……」
「なら、忘れてしまいましょう。全部、何もかもを。契約の間は、貴方の願いは叶えてあげると約束しましたからね」
悪魔は微笑む。その裏に隠されていた狂気は、今や全面に押し出されている。抗いたいのに、抗えない。一人では、この悪に敵わない。
悪魔の全身から放たれる黒い帯状の闇が、私の動きを完全に封じる。しかし私は、悪魔に気づかれないように小さな声である術式を詠唱する。
「……あとは、頼む……私を……」
「あは……スィエル……誰にも邪魔されない、二人だけの時間を……」
全てが壊れ、砕け、宙のような闇に染まっていく。その中でも、ただ一点の光に手を伸ばして――残された可能性に、僅かな希望を込めて。
――私を、助けて。




