#50 主従の関係
エルの竜に乗って、私はセーツェンの病院へと戻る。名残惜しくはあったが、後は彼らが上手くやっていくだろう。
ザニア達はもう少し残るということだったので、処理は任せることにした。
ぼうと僅かにともる灯りを頼りに、自らの病室へと戻る。リヒトはもう眠ってしまっているようだ。隣からは、すうすうと穏やかな寝息が聞こえてくる。
「夜が明けたら、領主レグルス・ベルガの館でスィエル・キースの処罰を決定する。それでいいな」
同意書に目を通し、名を書く。親に貰ったわけではないが、それでも大事なスィエル・キースという名前を。
「……ああ、大丈夫だ」
「では、今日はこれで」
「ありがとう。アルト、ディニタス」
「君の役に立てたなら良かったよ」
アルト達を見送った後、私は猛烈な睡魔に襲われた。長い距離を移動したので、かなり疲れたようだ。
シーツを体に掛けて目を閉じようとした、その時だ。
「――!」
強烈な魔力を感じ、微睡みかけた私の意識は一瞬で現実に引き戻された。
黒い靄が人間の形へと変化し、深紅の双眸が私を冷たく睨みつける。
「悪魔……」
「帰りますよ、あの城に。貴方が死ぬのを黙ってみておけるはずがないでしょう?」
「だが、私は……罰を受けなければ」
「ふふっ。面白いことを言いますね……貴方が罰を受ける必要なんてないのに。貴方は自らの欲望に忠実に従い、殺しただけ。彼らは弱いから殺された。力を持たぬものが強者に負けるのは当然のことです」
「殺しただけって……それは私の勝手だ。私が犯した罪なんだ」
「へぇ……なら、私を裏切る事は罪ではないと」
悪魔の手が黒いリボン状に変化し、私の首をきつく締め上げる。私が賢明にもがいても、悪魔は容赦なく縛り上げていく。
「貴方の情報は、私が全て持っています。貴方の名前も、生まれも、その他の記憶も全部……ね」
悪魔は束縛を解除し、痛みに悶える私の前で七色に光る宝石を手の上に乗せる。あの中に、私が奪われた記憶が封じ込められているのか。
私は震える手で悪魔の手から宝石を奪おうとするが、上手くいかない。悪魔はそんな私をあざ笑う。
「あは……貴方に手渡すはずがないでしょう? これは私のものなのだから。気にならないと言っておきながら、随分必死ですね?」
「黙れ……なぜ私から記憶を奪ったんだ」
「……契約内容を覚えていないようですね。一番大事な所をどうしてどの人間も忘れてしまうのか……本当に、勝手な者ばかりだ」
呆れたように悪魔はわざとらしく肩をすくめ、ため息を一つしてから語りだす。
「貴方の全てを犠牲に、力が欲しいと言いましたよね? 全てに生命や理想、記憶が含まれないとでも思ったんですか?」
「生命……理想……」
「ええ。私が命を引き延ばしているだけで、貴方の命は契約の時に私が奪わせていただきました……ようやくわかりましたか? 自分がどれだけ私に依存しているか」
思わず、私は自らの胸に手を当てる。心臓の鼓動は聞こえるが、これも悪魔が全て管理しているものだというのか。
しかも、命をあの契約の日に奪ったと悪魔は言った。ならば、今まで私は「死にながら生きていた」という事になる。
この鼓動に意味はあるのか。なぜ、悪魔と契約してしまったのか。なぜ、全てを捧げるなどと言ったのか?
負の思考が止まらない。今さら考えても仕方のないことなのに。
「私からは逃れられない、と言ったはずです。私と契約したならそれぐらいの代償は当然のこと」
妖艶に微笑む悪魔を、私は心の底から恐ろしいと思った。徐々に暴かれていく本性に、私は震えるしかない。契約の時から、主従の関係は決まっていたのだ。
私が主なのではない。
この悪魔こそが、私の主なのだ。私は命令に従い、悪魔は玉座で私の行動を見守るだけ。
「あぁ……そんなに怯えて。どうしたんです?」
もう、声も聞きたくない。離れたいという感情さえも湧かない。私は悪魔の支配に溺れるしかないのだ。
恐怖のあまり頭を抱えてうずくまる私の耳元で、悪魔は呪いのような言葉を吐く。
「ふふっ……人間には渡しません。貴方の全ては、私だけが知っていればいい。私だけが、貴方を完璧に理解できるのだから」
氷のように冷たい手が、私の首筋をつうとなぞり、契約の時の噛み傷をいたずらに指先で叩く。
怖い。怖い、怖い。嫌悪感に苛まれて吐き気がする。助けてほしい。こんなはずではなかったのに――そう、後悔したところでこの悪夢は終わらない。
鼓動が早くなり、息切れが酷くなる。苦しさのあまりに私の手が宙を仰ぐが、悪魔は唇を引いて、凍てついた笑みを浮かべるだけだ。
「さぁ、帰りましょう……貴方には、まだやるべき事がたくさん残っています」
* ◇ *
悪魔とスィエルが病室から姿を消してから数時間が経ち、約束の日の朝が明けた。
リヒトは大きくのびをして、ベッドから起き上がる。今日は久し振りに朝から起きることができた。いい眠りが取れて満足だ。
「ふわぁ……お姉ちゃんが来るまでは時間があるし……暇だなぁ。何しようかな……」
とりあえずカーテンを開けて、朝日を浴びようとしたリヒトは異変に気づく。
「あれ……スィエルは?」
ベッドにいないので、外へ出たのだろうか。でも、何か違うような気もする。外、それもずっと遠くに行ってしまったような――。
「これ、忘れ物かな」
スィエルが元々使っていたベッドの上に置かれていたネックレスを拾い、まじまじと見る。光に照らすと、きらきらと輝いて綺麗だ。
「こんなに綺麗なもの、置いてていいのかな」
大事なものならば、気づいてもう一度戻ってくるだろうと思い、リヒトはぼんやりとネックレスを見続けていると――。
「スィエル! まだ寝ているのか!?」
荒々しく扉を開くアルト達にリヒトはびっくりした。だいぶ焦っているようだ。
「ううん、スィエルはいないよ?」
「何だと!? 奴は逃げたのか? 同意書にも素直に応じたから油断していたな……きちんと見張っておくべきだった」
動揺するアルトに、リヒトはさっき手に取ったネックレスを渡す。
「アルトさん、こんなものがベッドの上に置かれてたんだけど……」
「ネックレス? でも、彼はこんなものは身につけてなかったはず……かすかに血の臭いもする」
「それ、彼が自分の血で作ったものじゃないかな。首につけるにはあまりにも小さいし、鎖もほつれている。きっと慌てて作ったのだろう」
「ディニタス! じゃあ彼はいったい何のためにこんな事を……何かに襲われたのか?」
「その可能性は低い。特に荒らされた様子もないし、血痕も残っていない。だが……なぜ彼はそこまで焦る必要があったのか……」
もしも襲われていたなら、リヒトも気づくはずだ。しかし、昨日の夜に何かあった覚えはない。いったい、スィエルの身に何があったというのだろうか?
「これは……何かのメッセージなのかな……」




