#46 憧れた世界
「母さん……父さん……こんな名前だったんだ」
名前も知らぬうちに、私は両親の命を奪った。顔もよく見ていなかったので、私にとっては新鮮なものだった。
ページをめくると、私の知らない両親の一面が顔を見せる。
当然の事だが、幼い私と一緒に写っている写真は一枚もない。二人で楽しそうに微笑む姿にずきりと胸の奥が疼く。
私の名前は、結局記されていなかった。別に期待はしていなかった。私のような存在に、愛など注がれていないことは分かっていたからだ。……少し、残念ではあったが。
落ち込む私を見かねたのか、ディニタスが紅茶を入れて私に差し出す。私と同じくアルトもカップを受け取る。
「……スィエル。お前さんは本当に何も知らなかったんだな」
「私は何もかもを強制されて生きてきた。物心ついたときには、私の目の前には鉄の柵が立ちはだかっていた……あの孤児院で受けた傷は今でも残っている。消えることはないだろう」
手帳を閉じ、アルトに手渡す。私の元に置いておいても仕方のないものだ。
「いいのか」
「構わない。そんなものを持っていたところで……何も変わらない」
手帳を持っていても、寂しさが募るだけだろう。私が親を殺したことには変わりないのだから。小さくため息をついて、彼は私の手から手帳を取った。
「スィエル。お前さんには問わなければならない……何のために、殺し続けているのか」
「何のために……か。私は、ただ認められたかった。必要な人間だと。いてもいいと。そう言われたかった」
「私は、殺すことしか出来ない。奪って、憎んで、そんなことしか出来ない。……私は何も知らない。人を大事に思うことも、それで得られる喜びも知らない……」
「スィエル。お前さんのやったことは、許される事ではない。人の命を何度も奪い続けたその罪は、何らかのもので償わなければならない。ただ……」
私の目の前に、見覚えのあるラベルが何枚か広げられる。私の手で書かれた文字が、紙の上で踊っている。そして、老夫婦に貰ったあのジャムの瓶も。
「何故……これを……」
「これらは君が連れている子供達に渡してもらったんだよ。レムナントって言ってたかな」
「このラベルは全員、お前さんが殺めたもの達の名前が記されていた。毎日、バイオリンを弾いていたとも……それも、命を奪うという行為を悔いながら」
「……ああ、そうだ。私は奪いたくなんてなかった。悪魔に命令されて、自分は生きたくて……ずっと外に出たかった。私は自由が欲しかった」
ずっと暗く、狭いところに閉じ込められていた。誰からも避けられ、虐められ、自分なんてどうでもいいと思っていた。
軍の計画に使われるぐらいならば、いっそのこと命を断ってしまった方がいいのかもしれない、と思っていた。でも、誰かが教えてくれた。檻の向こうには知らない世界があるのだと。それに私はずっと憧れていた。
「私は、ただ……普通に生きたかった。英雄でも、殺人鬼でも何でもない。普通の暮らしができたらそれで満足だった」
赤目なんて関係ない。そんな世界が私は欲しかった。だから、少し期待していたのだ。もしかしたら三千年の時を超えて制度はなくなって平和が訪れているかもしれないと。
だが、現実は残酷だった。何も世界は変わらず、私は手を己の瞳と同じように赤く染めるしかなかった。
「どこか、行こうか。私は世界を知っている方だけれど……逃げても君に憑いている悪魔が許さないんだろう?」
「ディニタス……」
だが、そんなことを言われても、特に行きたい場所はない。迷っていると、アルトが小さなため息をついた。
「近くに夜空が綺麗に見える海がある。そこにでも行って考えてこい」
「……分かった」
私は、腕に繋がれているチューブを抜き、ジャケットを羽織る。窓を開けて、そこから飛び降りようと考えるがディニタスとアルトに止められる。
「剣は持たなくて大丈夫だよ」
「無いと不安なんだ。何か守れるものは自分で持っておきたい。力が無かったら……どんな事があっても自分を守れない」
「そうか。ならそれでいいけれど。やはり君は随分と深い傷を負っているようだ」
「……そうだな。自分が無力だと感じると、震えが止まらなくなる」
ベルトに鞘を取り付け、軍帽を被る。悪魔の束縛から逃れるにはこの装備一式を捨てなければならないのだろうが、それはそれで怖い。悪魔が貼った無数の糸は、かなり強力らしい。
あの悪魔から離れることになったら、私はどうなるのだろうか。悪魔はどうやって私を止めるだろうか。
「スィエル。置いていくよ」
「あ、ああ……」
考えていても仕方がない。今はとりあえず動こう。
「ミリシス・ウォラーレ」
二人で同時に転移術式を詠唱し、アルトが言っていた場所へと移動する。紅い光が消え失せてから目を開けると、視界いっぱいに波が広がっていた。
「海は初めてかい?」
「ああ……本で見たことはあるが、本物を見るのは初めてだ」
「そうか」
遠くから唸るような波の音が響く。その音は私の荒んだ心をじんわりと癒していく。
あの遠くに見える大地には、どんな人が住んでいるのだろうか。海風を受けながらぼんやりと考える。
海の向こうに行ってみたい。まだ知らない世界を見てみたい。私が憧れた外の眺めは、こんなに綺麗だったことを今さらになって知る。
「……ディニタス。私は、どうしたらよかったんだろうか」
「どうしたら、とは?」
「私が……普通の生活を送るには……何が足りなかったのだろう」
風が、二人の間を静かに通り抜けていく。波の音は相変わらず一定のペースで私の耳に飛び込んでくる。
「スィエル。君は、自分を傷つけすぎなんだ。何かが足りないというよりは……それかな。自分に自信がないんだろう? 自分をしっかりと持てずに、いつも何かに怯えている」
「自信なんてあるはずがない。私はいつも否定され続けてきた。いくら自分があったとしてもあの重圧には耐えられない。お前は間違っていると何度も言われたら、誰だって失うものだ」
――お前はいらない子供なんだ。
――赤目のくせに調子に乗るな。
そんな言葉が今でも私を苦しめる。言葉は、簡単に人を傷つけられる。体に残った傷よりも、深くこの体は蝕まれていった。
「私は……自分に自信がない。人と関わるのが怖い。悪魔に愛されて、支配されて、それでも良いと思ってしまう自分がいる。やめたい……この終わらない復讐をやめてしまいたい。もう苦しいんだ……」
ポツリ、ポツリと私は自分の気持ちを吐き出していく。嘘偽りのない、己の正直な思いを。苦しかった。誰かに止めてほしかった。それを私はずっと待っていた。
「君は弱い人間だ」
ああ、そうだ。そう言われるのを私はずっと待っていたのだ。悪魔によって得た偽りの力だと。お前の力は幻だと。
外側だけ繕って、中身は少しも変わっていない哀れな男だと。それに気づいてくれる人をずっと探していたのだ。
「ああ……私は弱い。力ばかり欲して、自分は何も変わっちゃいない。怖い。今でも、人が信用できない」
恐怖に震える私を、ディニタスはそっと包み込む。その優しさに一瞬心が落ち着くが、すぐに彼の手は離れ、彼の顔には皺が刻まれる。そして、続いた言葉は私の心を再び冷やした。
「私の主義からは外れるが……私が診てきたどの患者よりも君はイレギュラーだからね……人を殺めてはいけない。自分で解決策を見つけるんだ。悪魔に頼りたくないなら、その契約とやらを断て」




