#4 契約
悪魔の姿を一目見たとき、私は恐ろしいとは思わなかった。
ああ、悪魔はいたんだ。神様はいつだって何も見てはいなかったのに。祈ったところで、助けなど一度も差し伸べられたことはなかったというのに。
その足取りに迷いはなく、周囲の邪魔者を蹴散らしながら、悪魔は私に願いを叶えると言った。
白い光を背に受けながら、こちらに歩いてきた悪魔は、全身が影のようなもので覆われていた。神々しさすらあったかもしれない。それほど、私にとっては眩しい存在に見えたのだ。
愛、承認、権利……色々と欲しいものはあった。
全て、等しく欲しいものだった。だが、私の口は自然に一つの願いを口にした。
「力が欲しい」
そう叫んだのは、自分が劣っているという思いをぬぐえなかったから。力さえあれば、愛してくれる。認めて貰える。そう思えたから。
傲慢でも、卑劣でもいい。私は生まれながらにして罪人なのだ。それならば、自らこの世界を破壊し、狭く苦しいこの世界を作り替える。私は渇いた喉を震わせながら、悪魔に願った。
「ほう……なるほど。分かりました。ならばその望みを叶えてあげましょう。もちろん、それに応じた代償も頂きますがね」
代償――何を奪われるのだろう。私には何があるのだろう。覚えた術式? 感情? 存在? 私には何もない。だから私は、全てを捧げると言った。
全てを捧げても、悪魔は満足など出来ないだろう。もしかしたら肉体まで欲しがるかもしれない。それでもいい。この地獄のような日々に終止符が打たれるならば、それはそれで悪くない。
「いい返事です……ふふっ」
血が吸われると共に、意識も朦朧としてきた。
全ての血を吸うつもりだろう。白く透き通った指が、私の細い体を撫で回し、弄ぶ。
殺されるのは怖いが、どうせ生きていても何もないのだ。私には――何もない。だからこんな汚らしい場所に捨てられた。
「ああ、これはこれは。憎しみが血の中にあふれている……これ程の贄に当たるのも久しぶりですねぇ……はははっ……」
悪魔の哄笑が、高らかに響き渡る。ねとりとした不快な感覚が、肩に落ちる。よく見ると、それは自分の首から漏れた血液だった。
「……まだ、満足しないのか。頭が痛い。殺したいならさっさと殺してくれ」
「ん? ああ、これは失礼しました。貴方の血はとても美味しかったものでね……それにしても、おかしな事を言う。殺すわけないじゃないですか。貴方との契約はまだ始まったばかりですよ? ほら、これで貴方を縛っていたものは何もない」
私から奪った血を口の端にべったりとつけたまま、悪魔は私に代償と報酬の交換が完了したことを告げた。想像以上に多くのものを失ったような気もする。血を吸われすぎて、立つこともままならない。
それでも、私は力を手にした。自らの道を切り開く手段を得たのだ。
悪魔の取引の最初の餌食になったのは、私に実験台になることを命令した、責任者だった。
悪魔が私との取引を急いだためなのか、それとも私に復讐の味を覚えさせるためか。悪魔に食べられずに、取り残されたその男は、私に何度も慈悲を請うてきた。
「助けてくれ……見逃してくれ!」
ただ、私は気を許すなどと言うことは少しも考えていなかった。悪魔が力を送り込んだ結果、私は男よりも背が高くなり、見下ろす形になったのだ。
その時、初めて今まで私を見下していた人間が、私に恐怖するようになったことに対して、優越感に浸ることが出来た。味わったことのない感動。喜び。心の中に、新たな感情が芽生える。
これを味わうために、私はいつも虐げられてきていたのか。やっと理解できた。その楽しみを剥奪できると思うと、おかしくて仕方がない。
私は新品の艶のある黒い軍帽を深く被り、男の顔を見ないようにしながら、男に語りかける。そうでもしないと、笑い出してしまいそうであったためだ。
「ああ、楽しいよね。弱者を虐げると、自分が強いんだって、そう錯覚できるから。でも、今度は私の番だ。今まで君達が楽しんでいたぶん、私にも権利があると思うけどね?」
「なんだと貴様……禍狗の分際で私に歯向かう気か。悪魔を呼び出したのは私だぞ。今すぐその力を手放せ! お前は軍のために生贄になるべきなのだから……!!」
「それでも、私が力を手にした。その事実は変わらないし、今更この力を手放すつもりもない。残念だが、諦めて貰おうか」
こんなに弱い人間に今まで苦しめられてきたのか。目から鱗が落ちるような、そんな気分だ。もうこの雑談も終わりにしてしまおう。そうして、私を馬鹿にしていた人間に復讐するのだ。
「ありがとう。私にここから出る術を与えてくれて……人間兵器の完成も失敗に終わって、私は満足だよ」
私の言葉に男は驚きの余り、立ち尽くしている。顔は青ざめ、歯がカチカチと虚しく鳴る。
「馬鹿な。なぜそれを貴様が知っている……?」
「とうの昔に知っていたよ。盗聴も頻繁にしていたからね。まさか悪魔との交渉を実現するための実験だとは上も知らないだろうけど」
男の顔から血の気が引く。よほどショックなのだろう。全く、先程から面白い表情ばかり見せてくれる。
一歩一歩、着実に追い込む。逃げ場がない、その時に虚栄の王は、ただの駒に討ち取られるのだから。
「極秘情報だというのに……幹部らは一体何をしているんだ。まあ良い。ここで殺しておけば、また新たな……ッ……!」
男の体に紫色のスパークが奔る。初等雷術ではあるが、効果はあったらしい。男は壁に倒れ込むようにして寄りかかるが、首を掴み、絞め上げる。
「喋りが長いんだよ。お陰で術式を唱えるのも簡単だ……感謝はしよう。ただ、ここでお別れだ」
「貴様……!」
悪魔に貰った細剣を鞘から引き抜く。名は聞いていないので、後で決めることにしよう。黒水晶のように光を吸い込み、自らの煌めきにしようと目論む姿は、とても私に似ていた。
「……ハッ!」
勢いをつけて、剣を前に突き出す。心地よい風を切る音。耳障りな男の叫び声。鮮血がしぶき、私の頬に張り付く。
何度も剣で傷つけ続けた。その度に、様々なものが散っていく。最初は奪うことに対して躊躇いがあったはずなのに、それもいつしか意識の外に放り出されていた。
ああ、これか。これが私の求めていたものか。こんなに残酷な願いを、私は植え付けられてそのまま隠し持っていたというのか。
「……」
完全に沈黙した男の顔を見てみたくて、私は外套の袖が紅く染まるのも構わずに、しゃがみこんだ。口を開いたまま、目は生きている者には見られない景色を見ていた。
体は酷い有様だ。医師でもないのに、自慢げに白衣を纏っていたが、それも千切れ、体中に突きによって描かれた鮮やかな赤い穴が点在していた。
床に残ったままの血を指ですくい、舐めとる。苦い鉄の味。ざらりとした食感。とろけるような、深い味わい。この男を殺した。その事実が、私に現実を容赦なく突きつける。
私は憎いとはいえ、一人の命を奪った。そして、それはもう拭えない。許されない。これからも、私は奪い続けるだろう。
力を欲して、復讐を謳って。悪魔に取り憑かれた私は罪を意識しながら、繰り返し続けるだろう。
それでも、弱者のままでいるのはもう嫌なのだ。罪を被ろうと、人々から哀れだと嘆かれようと、私は地獄の底に堕ち、地を埋め尽くす蜜の味を知ってしまったのだから。
あの甘美な味は、もう一度と言わずに、ずっと味わっていたい。乾いた喉を潤すために。愛を求め続けてやまない、心を癒すために。
汚泥のような欲望が私を塗り替えていく。もっと残虐に、冷酷に私を壊していく。
「ああ……はは……」
「どうです? 貴方が奪えばそんな快感は幾らでも楽しめますよ……奪い続ければ、ね」
自分がなぜ笑っているのかも、なぜ頬を涙が伝っているのかも、なぜ心の中に悍ましい程の憎悪が渦巻いているのかも、もう他人の事のように理解できない。
でも、こんな強大な力を持った今、そんな事はもうどうでもいい。
誰も私の事など理解してくれない。理解しようともしない。だから私は力に溺れ、沈み続ける。
踵を返し、足早にその場を立ち去る。これからしなければならない事はよく分かっていた。
地下の実験室から外に出る重い扉をこじ開け、上に続く螺旋階段を上る途中に、警備員に鉢合わせる。相手をするのは面倒だが、致し方ない。
「お前はまさかあの禍狗か! なんだその格好は……軍服などお前のような木偶には与えられないはずだ……一体何があった!」
「ほう……確かに私はあの禍狗だ。だが、その呼び名はもう止めて貰いたい。私の名はスィエル。スィエル・キース。そう呼べ」
もう、狗ではない。吠えるだけしか能の無い存在とは違う。私は全てを犠牲に、力を手に入れ、その力で過去に私を虐げた者達の、未来を壊すのだから。本当の自分の名は知らない。生まれてから直ぐに棄てられたのだから、知らないのも当然だ。
それからずっと、私に名が付くことはなく、物心ついたときから、私の呼び名は人間の名では無く狗だった。
「スィエル……だと? 貴様には名など無いだろうに」
「ああ、私は知らない。本当の名なんて知らない。貴様らが二十一年間も、こんな所に閉じ込めたせいでな……!」
それから、どれだけの叫びを聞いただろう。よく覚えていない。ただ、ぼんやりとした、記憶があるだけだ。遠くから何か、声が聞こえる。
「……兄さん? 大丈夫? 凄くうなされていたけど……」
テーブルの上には、グラスとボトルが置かれ、グラスの中にはまだ半分ほどワインが残ったままになっていた。どうやら一杯飲んだ後に、眠ってしまったらしい。余程疲れていたのだろうか。
「ああ……私は夢を見ていたみたいだ。すごく久しぶりに、嫌な夢を見た」
「そっか。無理はしないでね、兄さん」
「ありがとう、ヴェリテ」
ふっと力が抜けると、また眠気が私を誘おうとしてきた。その誘いを断り切れずに、膝にかけられた布を深く被って、私はもう一度眠ることにしたのだった。